教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

戦後の文部省発行の『生徒指導の手引き』から思うこと—不登校はどこから?

2014年05月28日 | 日本の教育

戦後の文部省発行の『生徒指導の手引き』から思うこと—不登校はどこから?
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▼もう20年来日本の学校教育からこぼれ落ちる(はみ出る)「不登校(登校拒否)」の問題を扱っていて思うこと。全国の不登校の子ども達の数値に多少の変化は見られるが、大元はあまり変わってはいないのではないか。戦後、日本が高度成長期に突入し、全国で進学熱が高まるのに比例して不登校も増加した。が、その後日本の経済成長が低迷期に入っても不登校の生徒達の輩出はあまり衰えてはいない。見た目の多少の減少にもかかわらず、逆の意味で増加しているようにも見える。何となく不登校」とか「明るい不登校」とか「不登校バンザイ」とかも言われる。多分に商業ベース的な響きがすることを差し引いても、「なぜなのかという思いがする。

▼いわゆる「不登校相談」の専門家と自称する人々は、元不登校の子どもまで含んで様々にいるようだ。が、そのほとんどは不登校という現象面を扱う人達で、相談と言っても対症療法的なものが中心である。心理学的側面から、カウンセリング的な観点から、自分の体験的な理解から—それぞれが今不登校真っ最中の子どもやその親御さんに「解りやすく」噛み砕いて説明して安心させていることが多い。が、それは大部分がモグラ叩き的な対症療法的なものである。
タブーでもあるのか、難しい領域になるからあえて触れないでいるのか、「どうして不登校になるの?」「なんで日本ではこんなに不登校が大問題になるの?」という、日本の教育の根幹に触れる問題には触れようとはしない。

▼そこで、教育専門家でもあまり触れたがらない日本の教育のあり方に敢えて触れてみたい。もしかすると、一向に終息しない日本の学校教育の不登校の問題もその辺にヒントが見つかるかも知れない。
1965年発行の文部省の『生徒指導の手引き』という書籍が手元にある。その中に「第2章 生徒指導の原理」という項目があり、「4 援助・指導の基盤としての人間関係」という小見出しがあり、そこに次のような文言が書かれている。

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 援助・指導の基盤としての人間関係には、重要なものとして権力ー支配ー盲従関係、権威ー尊敬ー心服関係および出会い関係があげられる。

(1)権力ー支配ー盲従関係

 権力ー支配ー盲従関係は、もっぱら外からの強制的な力によるもので、指導されるものは指導者に対し恐怖心を感じ、その恐怖心をの免れるために服従する。決まりに従う行動をさせるためには、このような権力ー支配ー盲従関係も効果的であるが、前述したような人間関係では内面化が起こりにくいから、絶えず権力が生徒の眼前に提示されていることが続けられなければ、所期の成果を達成することができない。

(2)権威ー尊敬ー心服関係

 権威ー尊敬ー心服関係における権威は、外からの力によって与えられた権威(それは権力と呼ばれることがふさわしい。)ではなく、内的に充実した内的権威であって、そこには生徒との間の相互尊敬が存し、生徒が自発的に心服するようになることを求めているものである。このような関係にあっては、生徒はおのずから指導者との同一化を求め、指導者のようになりたいと欲し、あるいは、その教えに進んで従おうとする。このような関係においては、生徒は指導者の人格に感化されることになる。

 権威ー尊敬ー心服関係は、幼児期の人格の生成において顕著に見られるものであり、この関係において恵まれた過去を持っている生徒の指導者は、よい基礎があるので一般に順調に進められるものである。しかし、青年期の発達的特性として、親や教師に対しては反抗的となりがちなものであるから、親や教師との関係においては、この権威ー尊敬の関係を持続させることがむずかしくなる。青年期の生徒が親や教師に対して反抗的なムードをあらわに示しても、親や教師が筋道のたった助言を与えるならば、即座にそれを認めることをしないとしても、しばらく経過したあとでは、その助言を取り入れることがしばしば見られるものである。このように親や教師との関係でも、権威ー尊敬関係は潜在的には必ずしも断絶されていず、生徒が特に尊敬を感じている教師に対しては、心から服従し、その感化に対して心を開いているものであり、また崇拝する偉人に対しては、積極的に同一化を求めているものである。したがって、偉人の講義や伝記などを媒介として指導していくならば、偉人の人格による感化が生徒に及ぼされていくことは、じゅうぶんにこれをこれを期待することができるものである。人生の目標の確立や専心追求の態度を育成するためには、このような権威ー尊敬関係が存立することが望ましい。このような関係においては、支持されたり激励されたりすることは効果的である。
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▼引用が長くなったが、1965年発行の文部省の『生徒指導の手引き』には、上記のような文言が載っている。 実際はこの『生徒指導の手引き』のあと2度ほど改定が行われ、現在は『生徒指導提要』(「三訂版」とも言うらしい)と名称も変わったようである。そこには『手引き』をベースにしながらにはそれ以降のの生徒指導に関する情報(発達障害やインターネットまで含む)が盛り込まれている。

▼ところで、識者に聞きたいのだが、(寡聞にして、私はこの文言が否定されたり根本的に改定されたという説明を知らない。)もしかして、今でもこの文言が生きている、効力を持っているのであろうか。(ちなみに、この文言のすぐ前には「3 賞と罰」という見出しがある。やはり、この流れで書かれている。)
 日本の不登校問題は、戦後のこういう学校教育のあり方から必然的に生まれてきたものではないかと思うのだが---。 

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<I am different.>(私は違う)をどう思いますか?---<不登校>を生み出す日本の教育風土

2014年05月10日 | 日本の教育
伝統的な灰汁巻き(チマキ):きな粉と砂糖で食す
一般のチマキと比較すると随分大きい。孟宗竹の皮で包む

I am different.>(私は違う)をどう思いますか?---<不登校>を生み出す日本の教育風土

▼ある方が、ツイッターで自分の子どもがアメリカの現地の小学校の1年生でいた時に(私は違う)という授業があり、みんなが自分の違いを次々と喜んで発表し合っていたという記事を流した。アメリカにももちろん人種差別主義者はいるが、同時に「みんな違ってみんないい」という風土があるというような趣旨。それは同質性を強要する日本社会に対する批判ともなっていた。それについて様々な人達が色々な角度から意見を出し合っている。で、ちょって覗いてみた。

▼「それは面白い。日本でもやってみたい」という人や「日本ではあり得ない」という人も。香港の幼稚園でまだ小さな自分の子どもが同じような経験をしたという方の声も。また、ある講演で日本の小学一年生の教科書とアメリカの小学校一年生の教科書を比較検討した話を紹介し、日本では「みんな同じ」、アメリカでは「みんな違う」と書いてあると紹介する人も出てきた。
 一つの意見に集約せず様々な意見が飛び交うところがツイッターのいいところかも。

▼「みんなと同じになりたい」と「自分だけ目立ちたくない」とは同義かと問いかけ、日本では「出る杭になるな」を推奨しているのかなと、日本の学校教育に疑問を投げかける人がいた。それが「あなたは私と違うから認めない」という差別主義者の考えに繋がると他の人が受ける。自己肯定感が低い日本で苦労して大人になったという人も同調する。
 ある人は、「実際にはみんな違っているわけで、それを認めることが必要ではないか」と言い、「違っている」とか「同じ」とかではなく、その存在そのものを認める姿勢が大事という考えだ。
 これらツイッターへの投稿から、結論めいた形のものをあげれば、どちらか一方が正しいとかお勧めということではなく、「どちらもレスペクトされていい」となるいうことになるのかもしれない。

▼これらのツイッターでのやりとりから日本社会のある特殊性が浮かび上がる。一方はアメリカ等の大陸的な風土であるのに対し、日本の場合は島国的精神風土、閉鎖的な緻密性などが特徴だ。「日本は島国で、権力に従わなければ生きられなかった」とある人は言う。ただし、集団主義、同質性、単一性、村八分、形式主義や儀式---それは本当は幻想に過ぎないのだと

▼そう言われて振り返れば、正倉院の御物に見られるように日本の文化の多くが海外との交流からもたらされていながら、日本特有の文化風土は、平安時代や江戸時代に隆盛した国風文化に典型的に見られるように海外との交流を遮断したり鎖国状態に置かれた中で醸成されている。しかし、それらは内部からの要請で発展的に海外に開かれたことはなく、ほとんどが外部からの要請や侵入によって仕方なく門戸が開放されている。そして、海外との交流で日本は絶えず揺さぶられ翻弄され、時には激しく衝突している。日本は基本的に海外の国々と付き合い方を知らないのかもしれない。

日本は「みんなちがってみんないい」の金子みすゞが自殺しちゃった国だとある人はいう。学校教育には「みんなと同じ」を良しとする圧力がかかり、そこに息苦しさ感じる人達が出てくる。日本の子ども達は「どうやったら嫌われないか」を気にするが、海外の学校ではむしろ「どうやったら好かれるか」に心を向けるという。
 日本の小学校の教室の壁には、よく「話し方」のモデルが書かれている。参観日などでの子どもの発言でそれが披露される。「私も○○さんと同じ考えですが△△です」と言うように。それに親も教師も疑問を持たない。いや持っていても自分からは言い出さない。ここにも同調圧力がある。
 こういう風土から不登校が生まれ出るのは当然kも知れない。同調できない、同質性に染まらない、異なる意見を持っている---そういう子ども達はクラスに居場所を失い、学校を離れる。こういう教育風土であっるから、「どうやって国際社会での競争に勝ち残っていくのか」という日本の将来に対する不安が出てくるのも当然かも知れない。

▼「普通じゃない=イケてる」とされる国と、「私は違う」が良しとされても、クラス全体が「違うように頑張ろう」になってしまう日本という国と---その開きは余りにも大きい。日本では教科書などに載せてわざわざ「みんなちがってみんないい」なんて言わなければならない。だが、アメリカ等の国々では「いろんな人がいる(当然)」と、事実を淡々と述べるだけ。この差は余りにも大きいのだ。それが当たり前の風土になっていればあえてスローガンに掲げる必要はないのである。

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