教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「子どもの目」との出会い----「太田堯先生を囲む集い」に参加して(1)

2013年12月25日 | 日本の教育
「太田堯先生を囲む集い」に参加して(1)----「子どもの眼」との出会いなど…

▼「太田堯先生を囲む集い」 が、2013年12月21日,浦和の共済会館で開催された。呼びかけ人は中学や高校・大学で教鞭を取られていた倉持光好さんと野々垣務さん。

▼会は藤田昌士さん(元立教大学教授、子どもの人権ネット・さいたま代表)の開会の挨拶のあと、出版記念パーティの挨拶を兼ねて御歳95歳になられた太田堯先生が30分ほど(実際はもっと長かった)講話をされた。時代と子どもの命の輝きを見つめた95歳のご高齢とは思えない凛とした語りであった。

▼私は門外漢の一人だが、一部に〈大田教〉と揶揄されるくらい氏のファンは多い。稀有な人徳の賜物である。案内状が急であったにもかかわらず、会場には50名ほどの参加者があった。集まったのは私を含めて大田ファンがほとんどか。太田先生を媒介に様々な人達との繋がりも生まれた。先生とはしばらくお会いしていなかったが、覚えてくれていてお祝いの言葉を述べると先生の方から気軽に握手の手を差し出されたのには感激した。

 以下はその太田堯先生(先生と口から自然に出る数少ない方)のお話からのメモ書きによる。

※太田堯先生の歩みについては改めて記すまでもあるまい。東京大学名誉教授、元日本子どもを守る会名誉会長など、書籍やネットでご覧いただければ幸いだ。(私もお若い時のことはネット等で知るのみ)先生の歩みを知らずに埼玉の教育を論ずることはできないと思っている。

▼太田堯先生との出会いは子どもの人権ネット・さいたま(斎藤喜代美世話人)を通じてであったか?(子どもの権利条約の推進、埼玉県各地の親子劇場との交流、埼玉の様々な団体・組織・活動する人たちと共催した子どもフォーラムのイベントなども全てこのような出会いから生まれた)。本格的な出会いは氏が主宰していたオープンな学習会「こどもの目」への参加に始まる。不登校を中心テーマとする教育雑誌『ニコラ』の発行に踏み切ったのはこの出会いの後のことだった。

▼当時の私は、新しい教育の姿を求めて、元宮城教育大学の学長の林竹二さんの活動や映像等(林竹二さんの実践活道をフィルムで紹介する人達がいた)を調べたりしていた。林竹二さんの行状は素晴らしかった。それに影響されて教職を目指した人も多かったのではないか?しかし、私にはそれは古典的な教育方法に思えた。新しい教育の方法論が欲しかった。そのような時に太田堯先生の学習会「子どもの目」に出会ったのである。

※(2)に続く

******************************************************
「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/

「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
http://freeschool-paidia.com/

「ぱいでぃあ通信」(不登校・フリースクール応援マガジン)(ブログ)
http://paidia.blog106.fc2.com/
******************************************************
↓良ければクリック

にほんブログ村 教育ブログへ


にほんブログ村




〈諦めの哲学・慰めの哲学〉批判(2)--虚飾や先入観を排し、声なき声に向き合うこと

2013年12月16日 | 教育全般
〈諦めの哲学・慰めの哲学〉批判(2)--虚飾や先入観を排し、声なき声に向き合うこと

▼〈諦めの哲学・慰めの哲学〉批判(1)で、私は
「8年もひたすら待つと言うこと、それは一種の〈死の宣告〉に等しい。保護者達は〈不登校セミナー〉の会場に〈救い〉を求めてやって来たのではあるまいか?単なる慰めや諦めを聞きにやってきたのではあるまい。」
 と言い、〈救いの方法〉を提示することを告げた。その宿題にわずかでも答えておきたい。

▼しかし、その前に言って置きたいことがある。それは「不登校問題に出来合いの安易な答えを求めてはいけない」ということ。それが無意識であるにせよ、不登校を選択した子ども達は少なくとも〈出来合いの生き方を拒否した子ども達〉であるのだから。だから、そのつもりで聞いてほしい。
 それでも中には、不登校の子ども達を〈できない子ども達〉の範疇で捉えたがる大人も大勢いるだろう。それはそれで致し方ない。それが現状なのだと認識するしかない。それに、現実にそうなる子ども達が大半であろう。〈それでも、なおかつ…それに異議あり〉と考えるところから、この〈諦めの哲学や慰めの哲学〉批判、不登校の子ども達への〈救い〉の話は始まる。そう考えてもらいたい。

▼そもそも、なぜ8年にも及ぶ不登校支援や家族の関わりを〈諦めの哲学・慰めの哲学〉と断ずるのか。そこをもっと解りやすく説明する必要があリそうである。
 私もまたその話を聞いた時、〈良かったね!〉と喜んだ一人である。そのことに他の人達と変わりはない。たとえ何年かかろうと最終的に立ち直ったことは素晴らしいことである。また、このセミナーとは直接関係のないところでも10年かかってようやく立ち直り公務員になったという同種の話なども聞いている。それは他所の話ではあるがやはり嬉しい事に変わりはない。しかし、それはモデル的な事例として他に示す事柄ではあるまい。
 そこまで長引かせてしまったのは、やはり家庭の問題、自己責任の問題と言えなくもない。公的な支援も受けられないまま放置してきたことの結果ではないのかある。〈冗談じゃない!〉と憤るべきはこちら側ではないはず。

▼おそらく親御さんは気付いない。誤解されている。親御さん達は〈子どもが8年もかかったけどようやく動き出してくれた。待った甲斐があった。嬉しい!〉と思っていることだろう。新聞等で眼にする記事だが、どこか8年も家に監禁された被害者が加害者のことを〈あの人も優しいところがあった〉等と言うのと似ている。
 〈私がこの子のためにどれほど心血を注いできたか!〉と言う親御さんがいる。確かに〈ご苦労さんでしたね。大変でしたね〉と思う。と同時に〈でも、そのためにその子は8年間も自分で動くことができなかったんですよね〉と言わなければならない。いやいや、そんなことは喩えだけであってほしいものだ。

▼これは不登校ではなく引きこもりの子どもの話なのだが、程度の差はあれ、その現れ具合いはよく似ている。こういう話である。こうである。
 〈ある高齢の親御さんが様々な資料を手にして涙ながらに訴える。
〈「私達はあの子のために、こういうことも、ああいうことも--小さな時から手塩にかけて育ててきた数々の記録資料。成績向上のための棒グラフもある--やって来ました。その結果がこれなのでしょうか!〉
 その高齢の親御さんの姿を見れば言葉に詰まる。30歳過ぎの息子さんはいまだに社会参加できない。昔は優秀な頭脳の持ち主と言われたらしいのだが…。しかし、事態を変えるためには正直に言うしかない。
 〈そうなんですよ。お父さん、お母さん、その結果なんですよ、これは。あなた方が何から何まで代わりにやってあげたがために、あの子は自分で動くことができなくなってしまったんです!〉

▼もしかしたら、親御さんは〈子どもが動き出したから、私も楽になり、ゆとりが生まれた〉と思っているかも知れない。が、実際は全くその逆かもしれない。親御さんに--諦めや投げやりな気持ち、自分は自分との思い等が高じたからか--気持ちにゆとりや隙間が出来、気楽に我が子と接するようになり、それで子どもも自分の意志で動き出せるようになったかも知れないのだ。
 親子というものは不思議なもの。親にとって子どもは何歳になっても我が子。60歳、70歳の老人も100歳近くになる親からすればかわいい自分の子どもなのだ。時にはそれが良くも出れば裏目にも出る。
 逆に、子どもにとって、親はやはり親。世間では五右衛門という極悪人の大盗賊であっても家では子どもにとっては理想のパパなのである。子どもはそれ以上の世界を知らないし判断もできない。健気であればあるほどそうなりがちだ。

▼話が逸れてしまった。不登校の問題に戻ろう。ひと言で言えば〈不登校に出来合いの答えはない〉。でも、そのまま放置しておいていいはずもない。
 以前、たくさんの書物を読みあさり、本に書いてある様々なことを我が子に試みた人がいた。でも、うまくいかなかった。〈もうダメ!万策尽きた!〉と全てを投げ出した時、我が子はやおら動き出した。そんなエピソードを語ってくれた人がいた。
 以前、カウンセラーの子が不登校になり、彼は我が子のために専門的に可能なあらゆる知識や技能を駆使して対策を立てた。だが、子どもは一向に受け入れようとしなかったばかりか、遂にはその子どもに金属バットで殴打されて絶命するという事件もあった。
 何が良かったのだろうか?何がいけなかったのだろうか?

▼原点に帰ろう!一切の虚飾を排し、一切の予備知識や先入観を捨てて、まずは不登校という現実と生に向き合おう。そして、不登校となった子どもの生の声に耳を傾けよう。現象としての子どもの声にではなく、現象の声の向こうから響いてくる子どものマナの声に耳を傾けよう。
 その時、聞く人もまた試されている。その子独自の声が聴こえるだろうか。声なき声が聴こえるだろうか。あなたはそれを聴き取る耳を持っているだろうか。目の前にいる我が子が本当にあなたに見えているだろうか!それはあなた自身気付いていないバリヤーやレイヤーに包まれてはいないだろうか!そういう問いが親である自身に突き付けられる。それが不登校という問題の奥深さ、怖さである。私はそう感じている。しかし、そこから始めるしかないのである。

(続く)

※殴り書きです。推敲をしていません。ご判読ください。後に加筆訂正することがあります。ご容赦を。

******************************************************
「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/
「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
http://freeschool-paidia.com/
「ぱいでぃあ通信」(不登校・フリースクール応援マガジン)(ブログ)
http://paidia.blog106.fc2.com/
******************************************************
↓良ければクリック

にほんブログ村 教育ブログへ


にほんブログ村




緊急ブログ「少年急死:障害支援施設の職員が暴行 10人に虐待(毎日新聞)」について思う

2013年12月13日 | 日本社会
">「少年急死:障害支援施設の職員が暴行 10人に虐待(毎日新聞)」について思う

▼毎日新聞の報道では、「千葉県は12日、同県袖ケ浦市の県立障害者支援施設「袖ケ浦福祉センター養育園」に入所していた知的障害のある19歳の少年が急死し、死亡前に施設職員から暴行を受けていたことを明らかにした。同園ではこの職員ら5人の男性職員が、死亡した少年を含む利用者計10人を繰り返し虐待していたという。県警も園関係者から事情聴取を進めており、暴行と死亡との因果関係などを調べている。」
 と報じている。
 「 同園は社会福祉法人・千葉県社会福祉事業団が運営。」「県警の司法解剖では、小腸に開いた穴に細菌が入ったことによる腹膜炎が死因だった。」
 ともある。他にも10人程度虐待されていたとある。

 
※他紙でも報道されている。参照されたい。

▼具体的に誰が調査し、審査し、認可したのか?これは潜りの施設ではない。公的に認可された施設である。曖昧な対応では許されない。しかし、このような報道はこれが初めてではない。似たような事例が各地の施設で見られる。報道は氷山の一角に過ぎない。これらの施設は「障害支援施設」と呼ぶには程遠い。ほとんどそこからの立ち直りを期待されない「知的障害者の収容施設」となっている。
 そういうところではほとんど人権も無視されている。ペットなら人になつけば可愛がられもするだろうが、知的障害の子ども達は時にはペット以下の動物の扱いも受ける。虐待が横行しているところが多い。職員たちの人権意識も低く、支援というよりは日常的な侮蔑や虐待であろう。

▼問題は、この種の「問題」は何も公的な福祉支援施設に限らないということである。「教育」を看板としている施設にも多い。そこで「支援」というのは名目上のことであって、実際は「収容施設」に成り果てていることが実に多いのだ。
 看板には「学習支援」を掲げてはいてもそれは宣伝上の建前に過ぎず、実際は制度の隙間を巧みに利用した収容施設になっている。なぜなら、「教育」の資格に関することは日本の場合、文科省が一手に引き受けており、教育ではほとんどビジネスにならないからである。だから、そこでは学習はほとんど行われていないか「学習」と呼ぶにはあまりにもお粗末な対応であったりすることが多い。。実際、その構成員、子ども達や職員たちを見ればそうならざるを得ないという現実もあったりする。

▼どうしてこういうことが日本の社会では横行しているのか?一つには障害者等に対する日本人の人権意識の低さにある。障害のある人達を頭から見下し、蔑み、インクルージョンという考えからはとても遠い。そして、「それでもよしとする風潮」がある。
 もう一つには、それを支援するのではなく、資本の論理で障害者を捉え「障害者ビジネス」とする悪しきあり方である。もちろん多くの人々が真剣に支援の活動に従事している。しかし、その評価は決して高くない。ほとんど当事者の献身に支えられ維持されている。それをよしとせずビジネスと考える人達は、その人達の弱みに巧みにつけ込みビジネスとする。そして、「悪貨が良貨を駆逐する」のだ。

▼だから、知的障害者を支援するという名目の福祉施設の話ではあるが、それは決して対岸の火ではない。既に教育を名乗る施設においても同種の問題は様々に起きている。そこは本当に「教育支援」の施設なのか、それとも障害者を食い物にする「ビジネス施設」なのか、よく見極めることが必要だ。これはそこが福祉施設なのか教育施設なのかを問わない問題である。当事者には任せきれない伴走者としての保護者としての眼識が問われる問題でもある。単なるパンフレットに惑わされてはいけない。当事者が安心して、意欲を持って関われる施設であるかよくよく見極めたい。

※緊急ブログです。文章の不備にご容赦を。気付き次第訂正します。

******************************************************
「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/

「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
http://freeschool-paidia.com/

「ぱいでぃあ通信」(不登校・フリースクール応援マガジン)(ブログ)
http://paidia.blog106.fc2.com/
******************************************************
↓良ければクリック

にほんブログ村 教育ブログへ


にほんブログ村




不登校の子どもの心に耳を傾けてみよう--不登校の子ども理解のために(1)

2013年12月10日 | 日本の教育
不登校の子どもの心に耳を傾けて--不登校の子ども理解のために(1)

Bob Dylanの「風に吹かれて」をカルメン・マキの替歌でどうぞ。
 不登校の子の秘めた思いをこの歌から聴き取ってください。


▼不登校になったお子さんを持つ親御さんは大抵予想外の事態にパニックになることが多い。本人はそれまでの自然の成り行きの帰結として意外に冷静に受け止めることが多いが、親御さんには事態を冷静に受け止められない。
 それは今までの子育てを根こそぎひっくり返されたような事態、時には自分の生き方そのものが問い直されたような事態なのだ。だから、それは容易に受け入れられない。是認できない。〈そんなはずがない。これは何かの間違いだ〉と思いたい。認めがたい現実がそこにある。その時、親御さんの多くはどうするか。

▼我が子が不登校になったという現実は、どんなに否定したくてもやがて認めざるを得なくなってくる。どうしてこんなことになったのか。その原因を外部に、我が子を取り巻く状況に見出そうとするのは自然のことである。そういう事態になった時、冷静に自分の顔を鏡に映して見ることは難しい。そこで学校生活のこと、友人関係、教師の対応、その他様々な周囲の要因を検討してみることになる。すると、普段は気にも掛けていなかったが、我が子の不登校のきっかけとして様々なことが思い当たるようになる。

▼子どもの不登校の原因がどこにあるかは正直とても難しい。どちらかに限定できないことも多い。ただ一般的に学校関係者の側は子どもにそれを求め、親御さんの側には学校生活の中に、学校という教育空間の中にそれを求めることが多くなる。これはごく自然なことで避けようがない。しかし、お互いにそうやっているうちはなかなか解決への方途は見つからない。
 不登校になった子どももどうしていいか分からない。ただ不甲斐ない自分を自覚させられるだけである。不登校の渦中にいる子どもは、自分で自分をどうすることもできないのだ。

▼親御さんと学校側と、この両者に共通したものがある。それはともに〈不登校は悪いこと〉という考え方である。大人の顔にそれが如実に表れているのを見て、子どもはただオロオロするしかない。それが長引き、進展がなく高じていくと、子どもは自分に対して肯定的な感情を持てなくなっていく。自己否定の感情でいっぱいになっていく。そして、何事にも自信をなくし、手に付かなくなる。ゲームやインターネットにはまりこんで行くのは、そういう自分を慰撫する行為であり、他に救いの手のないことの代償行為なのだ。

※不登校の子どもは理解されたがっている。でも、大人の誰も分かってくれない。

※時間の関係で推敲せず投稿しています。後で修正が入ることがあります。ご理解を。

******************************************************
「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/

「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイト
http://freeschool-paidia.com/

「ぱいでぃあ通信」(不登校・フリースクール応援マガジン)(ブログ)
http://paidia.blog106.fc2.com/
******************************************************
↓良ければクリック

にほんブログ村 教育ブログへ


にほんブログ村