教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

教師たちよ、あなた達は被曝から子ども達の命をどう守るのか?

2011年04月30日 | 教育全般

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110430k0000m010073000c.html

▼「毎日JP」によると、小佐古敏荘・東大大学院教授・内閣官房参与は29日、国会内で記者会見を行ない、菅直人首相あての辞表を首相官邸に提出したという。福島第一原発事故の政府の対応を「場当たり的」と批判。特に政府が小中学校の屋外活動を制限する基準を年間20ミリシーベルトに決めたことに学者の良心が疼いたようだ

▼これは政府の事故対策本部が福島県内の学校や幼稚園での野外活動を行う際の制限の基準である。文部科学省の通知もこれに則り、教職員は線量計を携帯して実際の被爆量を確認して判断するらしいのだ。子どもの命や健康の問題は二の次のようだ。

▼年間20ミリシーベルトという被爆基準は原発の作業員でも滅多にいないようだ。この基準を容認すれば自分の学者生命は終わりだとも氏は言う。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは自分のヒューマニズムからしても受け入れがたいと。氏は原発事故発生後、内閣官房参与に任ぜられた一人だ。だが、彼の意見は全く取り入れられなかったようだ。

小佐古氏の学者としての良心に基づく行動に、わずかに救われた気がする。「ああ、この国にはまだ学者の良心が残っていたのだ」と。連日「大丈夫」の誤魔化しを聞かされて、地位と名誉と利権のために専門家や学者たちはみなその良心を悪魔に捧げてしまったのかようだった。

▼ しかし、喜んではいられない。文部科学省も学校の教師も、子どもの命を被爆から守ることよりも、「政府の命令だから」「上からの命令だから」危険に晒すのもやむを得ないと考えているように見える。もしそうならば、この日本では子どものための本当の教育はもう死んだに等しかろう

かつてあたら若き命を戦場に散らせることに教育が加担したという苦い歴史がある。その時、彼らはみな民主主義教育者を演じることで延命と保身を図った。が、それはまだ過去のことではないようだ。福島原発事故の下で、文部科学省やその配下の教師たちはまた同じような愚をやろうとするのだろうか。「当時は仕方なかったのだ」と。

▼もう理屈はいいのだ。数値の誤魔化しはもう結構なのだ。ただし大人たちがそれでもOKというなら、この際それもやむを得まい。それこそ自己責任だ。だが、何も知らない子どもたちの命を危険に晒す権限は教師にはないはずだ。今は何よりも、具体的にどう子どもたちを守るのか、保護すべきなのかを考えねばならない。そして、速やかに行動に移さなければならない
 この大人の責任を放棄することは許されない。「原発は僕らが持ち込んだわけじゃない」「原子力安全委員会は適切と言っている」─今そんなご託宣を聞いているゆとりはないはずだ。ああ、本当に、もうこの内閣は限界に来たのかもしれない。
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原発の火はプロメテウスの火ではないか? ─人と原子力と─

2011年04月24日 | 日本社会

▼今なお進行しつつある東日本大地震に誘発された惨状を前にして、この地球上に君臨することになった「人類とは何か」ということについて、改めて考えさせられる。
 「人類」を定義付ける言い方は今までも幾つも挙げられてきた。ホモ・サピエンス、ホモ・ファーベル、ホモ・エレクトス、ホモ・ルーデンス…等々。知的存在、物を作る人、立って歩く人、遊べる動物…。確かに我々人類は他の動物達と比べると一等抜きん出ている存在と言えそうだ。それは疑いようがない。そして、こういう人間存在の捉え方の延長線上に「火を使う動物」という定義もまた成り立つ。

▼他の動物は火を恐れはするが使いこなせない。チンパンジーでも無理である。つまり、人は火を使いこなすことによって文明・社会を発展させてきたとも言えそうだ。この「人間と火」との話に関するいろいろな言い伝えも残っている。ゼウスの神殿から火を盗み出し人間に与えたというプロメテウスのギリシャ神話の話もその一つ。その結果、彼はゼウスの怒りを買い、永遠の苦悩を受けることになる。シジフォスの永遠の徒労の苦役もまた同じことだろう。なぜ、ゼウスはプロメテウスをそれほどまでに苦しめるのか?

▼幸か不幸か、我々人間は他の動物達が従属する本能の連環を脱し、最も高度に進化した知的生命体として地球上に誕生したのは地球誕生の歴史から数えて46億年、生命の誕生から38億年近くたってからのことである。だから、人類の歴史はせいぜい500万年くらいなもの。それが瞬く間に進化を遂げ、今や人類は実質的に神の領域の火=原子力さえ扱い始めたのである。

ゼウスは人類に火を与えたプロメテウスになぜ永遠の苦悩を与えるほど怒ったのか。今にしてよく分かる気がする知的レベルに置いて、人類は神の領域にまで手を触れるようになったのは間違いない。もしかすると今後さらに様々な叡智を働かせて、それをほぼ完全に制御する技術も取得するかもしれない。それは学問の研究・進化によって可能となるかもしれない。だが、肝心なことはことは我々は人間であって神ではないということである。神の心は持っていないということである。自然の力を前にちっぽけな人知で自惚れない方がいい。我々はせいぜい3次元4次元の世界でしか物を見ることができない。
たとえるならば、我々裸の猿である人類が原子力を扱うということは、チンパンジーが人から盗んだ火を弄ぶ行為に等しいということである。

▼つまり、どんなに科学が進み、技術革新がなされようと原子力を扱うのは神ならぬ不完全な人間存在であるということである。これが抑えるべき大前提である。もし、我々が今後それでもなお原子力利用を推し進めるというのであれば、もともと神の火である原子力を盗み使用する我々は絶えずゼウスの永劫の怒りに触れていることを忘れてはなるまい。

※これは3月31日、計画停電の切れ目に急遽挙行した卒業式での祝辞・訓示の一部を加筆訂正したものです。


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「それでも原発は必要だった…」!?  怒れ東北人!

2011年04月17日 | 絵画鑑賞

※これも教育と無関係ではない…ですね。

▼「原発はいらない」─この気持ちはますます強くなる。今回の原発事故…これも日本の成長神話の成れの果てではないかと思っている。日本が明治新政府になって欧米の列強諸国に対抗し、日清日露の戦争に勝ち、第二次世界大戦の敗北の中から驚異的な立ち直りを成し遂げ、目覚しい経済的科学的成長を達成して今日に至っている。だが、そういう日本が一方では絶えず批判もされてきた。その成長の課程で日本という国はとてつもなく大事なものを失ってきたのだと。今日の精神的な荒廃はその結果であると。

▼しかし、そういう声は批判の論調として一定の支持を得ることはあっても、主流となることは決してなかった。現在、「失われた20年」などと言われ、政治経済とも低迷を続けていながらも、破綻することはなくそれなりの高原状態を維持してきたからである。そこに降って湧いたのが今回の大地震に続く福島第一原発の大惨事であった。「想定外の大事故」と専門家や原子力関係者は言うが、それを危ぶむ声は絶えずあったのである。が、政・官・財・学の利権と専門家の科学信仰に基づく傲慢と自惚れが、そういう声に耳を傾けようというセンサーを持たなかったのだ。

▼原発を推進するために政・官・財・学の連中は地元の住民にあらゆることをやった。その一端の事情が「女性セブン」2011年4月28日号の記事(「NEWSポストセブン」のネットの記事から)に載るようだ。今や日本の発電量の3分の1近くを占める原発。原発が建設される市町村には、電源三法に基づく巨額の交付金が交付される。原発一基でも35年間で1200億円にのぼる。地元の人達はその原発のおかげで立派になった言う。「おれたちのほとんどが原発に食べさせてもらってる」と語る。しかし、何もかにも打ち砕いたのもまた原発である。「それでもまさかこんなことになるとは…」これが率直な気持ちであろう。結局、その人達は利権に丸め込まれ、利用され、翻弄されてきたのである。

利権のために悪魔と取引をし、悪魔に魂を売り渡すという喩え話がある。人々の安全よりも原子力の利権を取った人たちはそういう類の人たちとは言えまいか。そして、己が食うために原発に「イエス」と言った人たちは、図らずも食のために主人に忠実を誓う番犬や餌付けされた家畜のように扱われてきたのである。以前、原発で働いていた人が地方でボロ雑巾のように蝕まれて死んでいった話をきいた。今回の原発の作業でも計数機を着けずに作業したり、その作業がどれほど危険なものか十分知らされずに作業しているものがいたように、安全教育が徹底していないと言うよりは、人間扱いされなかったことも多々あったようである。

▼都内に住むある東北出身の人が、都会の照明も繁栄もみな東北の人たちが寄与したものである、それなのにこういう事態になってもなぜ東北人は怒らないのか!!と憤っていた記事に触れた。こんな悲惨な状態になっても黙々と耐え忍ぶ姿は畏敬の念を超えて悲惨の極みである。人の尊厳がかくも踏み躙られ、それでもなお微笑を浮かべ「頑張ってるよ」と言う必要があるのだろうか。我々は釈迦でもキリストでもない。人としてのこの理不尽さに絶え切れない怒りの声をぜひ響かせて欲しいと切に思う。

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「想定」した人と「想定外」の人と「フリースクール」の活動と

2011年04月05日 | 日本社会


▼今回、未曾有の大地震と大津波で命を失ったり、被災された方々に相応しい言葉が思い浮かばない。その事実の前にただ頭を垂れ、合掌するのみである。そして人知を超えた自然の非情さを思う。助かった人たちには、何はともあれ「助かってよかったね」と素直に喜びたい。
 しかし他方で、その大津波から辛くも逃れた人たちの話も幾つも聞こえてくる。それで、より一層複雑な気持ちにさせられる。これは本当に天災だったのだろうかと。そんな素朴な疑問がわいて来る。

▼大津波や福島原発事故にしろ、大勢の人だけでなく行政の人間や専門家までもが「想定外」と言えば、一部の反対派勢力が声を荒げて「想定していたこと」と批判したとしても、「誰もが避けようがなかった」「仕方のないこと」だったのだと納得させられてしまう、そんな風潮がないわけではない。「想定外」と言ったら聞こえはいいが、そもそも対策の不備があったということであって、本当はみな「人災」というべきもなのではないのか。

▼最初に読売新聞が報じたことだと思うが、「生存した人たちのエピソードが多く報道されるにしたがい、津波に対する意識の高い人が、生存確率に明らかな差があることが、分かってきた」というのである。「たとえば岩手県宮古市の姉吉地区では、明治と昭和の三陸津波の経験から、先人が『此処(ここ)より下に家を建てるな』と、標高60メートルの地点に石碑を建てていた。住民たちはその警告を守ってきたため、今回の津波でもすべての住宅が被害を受けなかった」。(読売新聞3/30報道)

▼これに類することは、翌日の朝日新聞でも報じられた。東松島市の野蒜(のびる)地区の「佐藤山」の話である。この地震が起きるまで佐藤さんが私財を投げ打って私設の避難所を設けたことを、誰もが笑っていた。だが、結局はこの「バカな行為」が70人もの人々の命を救うこととなった。「周辺では(行政の)指定(した)避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった」という。だが、「佐藤山」は指定されなかった。他にも、市議の遺言となった非常用避難通路設置が小学生たちの命を救ったという例もある。

▼ここに、どういうわけか、私はあの「ノアの箱舟」や「炭鉱のカナリヤ」の話などを脈絡なく重ね合わせてイメージしてしまう。そして、自分たちがやってきた不登校生支援のフリースクールの活動も
 おそらく、これらの活動は「常人」にとっては、かなり「奇妙」な「馬鹿げた」行為にしか見えなかったことだろう。それらを「想定」して活動する人間に、「常人」の誰がまともに相手しただろうか。非難はしなくても「理解不能」の眼差しで眺めていたのではなかろうか。不幸にも「想定」が現実化した結果から見ることでスポットライトが当てらることになったが、でなければ酔狂の戯れ事として一笑に付されたに違いない。だから、思いは複雑なのだ。

▼今この辺りは、市議選、県議選のための選挙カーが行き交っている。この時とばかりに様々な公約を掲げて市民に媚びている。日本の危機的状況さえも選挙運動の餌にして。だが、我々の活動にさえどの政党も何の寄与も支援もて来なかったという事実がある。今、どの政党も掲げる「わが党の成果」の一つに駅のエレベーター設置工事がある。私たちのところに車椅子の子どもが通ってきていた時は聞く耳を持たなかったのに。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というが、「前例のないこと」には想定外どころか想定そのものが出来ないのだ。
 大津波という想定外の災難にじっと堪える日本人の姿を海外で《我慢》と称えられたが、福島原発事故のような人災さえも天災のように受け入れるだけだと分かったら、やがてその賞賛は「怒りを忘れた日本人」として国際的に激しい批判と揶揄に変わるのではないか。それでも「従順な国民」と持ち上げるのはたぶん一党独裁の全体主義国家くらいのものだろう。ふとそんなことを思ってしまう。
 唯一の嬉しい「想定外」の出来事は、行政が戸惑うほどのボランティアの若者たちが生まれているということである。縮み志向の日本社会の中で若者が指弾されることが多いが、決して捨てたものではない、そんな希望を持たせてくれる。

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