教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

岡ちゃんサッカーでW杯は大丈夫なのか?

2008年04月05日 | 「大人のフリースクール」公開講座
岡田監督オレ流ルール徹底の管理サッカー(日刊スポーツ) - goo ニュース

岡ちゃんでW杯は大丈夫なのか?

残念なことにオシム氏が突然に脳梗塞という病で倒れ、代わりに岡田武史氏がW杯への指揮監督を務めることになった。今までの日本チーム監督としての実績を買われたのだろう。これは突然のことで止むを得ない面もある。だが、岡田氏には悪いが、岡田氏でW杯を勝ち抜けるのだろうかという一抹の不安、というか疑念が消えない。

岡田氏はその風貌からして、W杯の監督というよりは中学や高校サッカーのチームの監督の器という印象である。人を見かけで判断してはいけない、ということがよく言われるが、リンカーンの例を持ち出すまでもなく、見かけというものはとても大事なのである。その造作ではなくその風貌にその人の人格が滲み出るものである。ただし、これは人を悪し様に言うということではなくて、人には適材適所があるということである。その人に相応しい場というものがある。

岡田氏によると、今まではオシム流にこだわってきたが、あれはオレのやり方ではない。これからはオレ流でやらせてもらう、ということらしい。この言に間違いはない。人の真似事をしたって結局は亜流に終わるだけでそこに自分があるわけではないのだから。岡田氏には岡田氏のやり方があるということだ。ただし、わたしには、残念ながら岡田氏はW杯を率いる監督の器を持ち合わせているようには見えない。これは岡田氏がどうだという以前に、日本サッカー協会の、つまりは川端氏の人選ミスではないかと思っている。

オシム氏が倒れたと聞いたとき、そのバトンをタッチする人物として私が真っ先にイメージしたのは、ピクシーこと現名古屋グランパスの監督のストイコビッチ氏である。彼の選手時代の活躍を見、彼の選手としての能力だけでなくその頭脳を高く評価する。そして彼はオシム氏から薫陶を受けているし、日本のサッカーにも精通している。オシム氏に代わるこれ以上の人材はないと私は思っていた。が、何故か彼は選ばれなかった。 

Jリーグが生まれてから今まで、日本のサッカーはサポーターに押されるような形で少しずつ成長を遂げてきた。そして、岡田氏の掲げる管理サッカーも確かにトルシェ監督の時代までは機能してきた。しかし、個性をも統御したチームのまとまりを重視する管理サッカーで世界に勝てるというほど世界は甘くはない。今、世界に散らばって活躍できる選手もやはり「考えるサッカーができる」その個人の能力を買われてのことであろう。

ジーコ監督やオシム監督が推し進めてきたのも、その方向であった。そして、身体能力の向上や考えるサッカーの実践などを通じ、日本の選手たちは着実に成長を遂げてきたように見える。その意味で今までの川端氏の人選に間違いはなかったと思っている。だから、オシムの後に続く監督も当然、その方向で考えるであろうと思っていた。が、あまりに突然だったためか、今回ばかりは川端氏の判断に狂いが生じたと私は思っている。なぜピクシーを選ばなかったのか

奇しくも今、ジーコ氏はトルコのフェネルバフチェを率いて、欧州のチャンピオンズリーグ(CL)で正に神様的な指揮力を発揮している。一時代前の流儀が通用するほど世界のサッカーは甘くはない。その人柄を責めるつもりは全くないが「岡田監督で本当に大丈夫なのか」…そんな気がしてならない。

「造反有理」を改めて考える

2008年04月04日 | 「大人のフリースクール」公開講座
チベット問題、中国がインドに「感謝」(読売新聞) - goo ニュース

造反有理」という言葉がある。中国の文化大革命の時、毛沢東に導かれた紅衛兵が掲げたスローガンである。ここではあまり政治的な意味では使いたくないが、中国の政策に対する今のチベットの反乱を見て、ふとそんな言葉を思い出した。「ノー!」と言って反旗を翻す行動に出るということはそれなりに意味があるということである。そして、今は有無を言わせずにチベットの鎮圧に望んでいる中国が、かつてはそう言って各国の植民地支配から立ち上がったのである。 一方の中国の指導者たちは「ダライ・ラマは僧侶ではない。扇動者である」といい、一方、ダライ・ラマ側は彼ら独自の已むにやまれぬ抗議の運動であると言っている。

マルクスの予言とは違って、レーニンらが始めた一国社会主義というものが本当に社会主義と定義できるものなのかどうかという問題もあるが、本来の社会主義や共産主義というものが単なる資本主義へのアンチテーゼではなくて、資本主義的個人主義や私的所有主義を超えたその先にあるものとするならば、すでに崩壊したソ連の社会主義体制や今の中国の社会主義制度なるものは、到底本来の意味での社会主義と言える代物ではないばかりでなく、きわめて悪しき全体主義的国家主義と言わざるを得ないであろう。

中国は今、後数ヶ月に迫ったオリンピックの成功に躍起になっている。チベットの反乱に対する鎮圧や報道管制もそこから来ている。やらせまでやって見せて、世界各国に中国の平安ぶりをアピールしている。だが、そこに人権はあるか、民主主義はあるか…それが問題である。どんな国家体制の違いはあっても、しれが正常に機能しているかどうかがその国家を判断する際の試金石である。その意味で、今の中国の対応には大いに疑問がある。

中国は一枚岩ではない。国家指導部と民間では大いに違うこともある…というのは事実だろうが、現実に、海外の報道が中国国内では改変させて伝えられたり、全く報道されていなかったり、本来自由なメディアであるはずのインターネットが国家の検閲の対象になっている(それを国民は知っているのか?)というこいうことは、やはり中国国家の全体の問題として考えないわけにはいかない。

実際に中国は今どういう状態にあるのか、何をどうすることが急務なのか、各国のスポーツ選手が集うオリンピックはそれを明らかにする絶好の機会となることであろう。その意味で、現在の中国の対応には批判の声は上げるとしても、各国のスポーツ選手はあえて「政治とは無関係」と言わずに、それぞれの国の文化使節でもあることを自覚した行動を期待したいものである。それが今後の中国の発展のためでもあろう。オリンピックはスポーツの祭典であると同時に地球規模での文化の祭典でもあるだろう。

ジョージ・オーウェルに『1984年』という有名な小説がある。そこではビッグ・ブラザー」という独裁者が国家を支配し、人々の行動を監視し、命令を下す。本来はスターリンがモデルらしいが、こういう社会はインターネットなどが高度に発達した近未来の社会でこそ現実にあり得ることである。

「造反有理」…この言葉の意味するところを改めて考えてみたいところである

日本の社会をデザインしなおすこと

2008年04月03日 | 「大人のフリースクール」公開講座

絞殺の男児、母の詩で入賞 おかあさんはやわらかい(共同通信) - goo ニュース 

日本の社会をデザインしなおすこと

 今日の新聞を見ると、読売の「編集手帳」にも朝日の「天声人語」にも、青森県八戸市の小学4年生、西山拓海君(9)が2年生のときに書いた「晩翠わかば賞」の佳作の詩の内容に触れている。ふくよかな母親への溢れるほどの愛情と信頼の表現がそこにある。

「編集手帳」では「小さな詩人が、大好きな、この世で一番大切な宝物から紡いだ言葉だろう」と言い、「天声人語」では「きっとふくよかであろう、優しい母の笑顔が浮かんでくる」「詩に溢れる濃厚なスキンシップ」と言う。その母親が電気コードで首を絞めて若い命を絶命させた。

この母親の場合もそうだが、正常な母親が我が子を殺めるはずがない。事件の陰には必ず「不如意な生活」がある。現実に翻弄される人の姿がある。だから、事件を起こしたのは本人に他ならず、それはいくら責めても済むというものではないが、事件を生み出す背景というものがある。事件はこの下部構造から生み出されるのだ。コラムという制限もあり、この二つのコラムからはそれへの言及がない。「なぜ」「悲しすぎる」では何も変わらない。むごすぎるこの現実との落差を誰がどう埋めるというのか

これは何も大人の場合に限らない。大人や教師たちは「外れた」子どもたちに様々な病名をつける。LD児だ、ADHDだ、自閉症だ、アスペルガーだ、発達障害だ…、一体どれが正しくどれが間違いなのか、勝手な命名なのか、分からなくなることがある。医師によって判断が違うこともある。

そういう子どもたちもフリースクールの門を叩いてくる。親たちの心配は「そういう子でも大丈夫でしょうか」というもの。中には、医師が言った通りに実践して、「ああ、そういう病名の扱いを受けてきたんだな」と一目で分かる子もいる。 でも、こういう子どもたちにも共通のことがある。それは「子どもといえども、自分が周りから受け入れられていると感じれば、無闇に暴れたりしない」ということである。だから、私どものところにやってきた子どもたちは、他所での評判が嘘のように大人しい。じっと座っているし、何かしながらでもこちらの話にも耳を傾けていることが多い。いわゆる「いい子」にしている。

やっぱり悪い子というレッテルは周りの大人が勝手につけるのだろう。「そうじゃない!」「僕の言うことを聞いて!」と子どもたちは暴れるのだ。

「同情をするなら金をくれ!」という言葉が一時流行ったことがあったが、幾つもの瘤に分かれた日本の社会の下部構造を何とかしない限り、この種の事件は今後、増えこそはすれ減ることはないのではなかろうか。米国の大統領予備選挙について「米国政治をデザインしなおすチャンス」とフィナンシャル・タイムズは言っていたが、その言葉はそっくりそのまま日本の社会にも当てはまるのではないか。 「日本の社会をデザインしなおさねばならない