教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「子どもを元気にする」教育を目指して----暗すぎる日本の学校教育

2015年04月01日 | 日本の教育

▼ふと目にした残紙の一面に、毒蝮三太夫さんのインタビュー記事が載っていた。御年78歳。「まだまだ若い者には負けないぞ」という元気さに満ちている。(ちなみに、「毒蝮」という芸名は、彼が「笑点」で座布団運びをしていた時に、故・立川談志からもらったものらしい。)

▼「高齢者を喜ばせ、元気づけて45年」になるとか。高齢者の孤独死などを見るにつけ、今の世の中には「人と人とのかかわり」が足りないと感じていた。人と人とのかかわりで大切なのは「三つの‘かける’」だという。「肩に手をかける、笑顔で話しかける、気にかける」。しかし、その前にまず大切なことは「目を見て話す」ことだと言う。

▼彼は「TBSラジオ・大沢悠里のゆうゆうワイド」のコーナーで、高齢者のアイドルとして知られた。「ジジイ、ババア、元気か!」の毒舌が彼の売りだった。一見、高齢者をバカにしているようにも見えるが、そんなぞんざいな言葉の奥にあるのは確かな思いやりの心。だから、わざわざ彼に毒舌を言ってもらいたくてやって来るファンもいる。
しかし、一方ではウルトラマンやウルトラセブンといった子ども番組でも同じく人気者であった。高齢者から子どもまで、彼のファンは幅広い。おごらず高ぶらず、いつも高齢者や子どもたちの目線で考え、行動している姿がある。

▼そういう彼の変わらぬ姿は、日々子どもと接している私たちの教訓ともなる。特に学校を離れて不登校となった子どもたちに最も必要なのは、言わば「ジジイ、ババア、元気か!」の子ども版なのである。どこかの書物から仕入れたような出来合いの知識やカウンセリング理論などではない。ましてやカウンセリング・マインドなどというマガイモノの思いやりや共感の仕草などではない。「子どもたちを元気にする」言葉がけとか思いやりの心。それに尽きる。

▼今、「日本の子どもがおかしい」と言われる。どうも子ども達に元気がない。小さくまとまり、冒険をしない。大きな夢や希望を持とうとしない……そういう子ども達が多いのだ。これは海外と比較した日本のこどもたちを判断する統計の数値にもはっきりと表れている。そういうグレーゾーンがあり、そこから学校に希望を失った子どもたちの不登校も増えているようだ。
しかし、それは子どものせいだけでは決してあるまい。良くも悪くも大人がこれでよしとして推し進めてきた戦後教育の結果として起きてきていることである。

▼確かに戦後、日本は一度は驚異的な復興を遂げた。でも、今は再び深い低迷の中にいる。今度こそは、一見、出口なしの状況にも見える。だが、必ずしもそうではあるまい。
ここは何としても「子どもたちを元気をする」学校を再構築する必要がある。それできない学校があるなら、さっさとトップを交代した方がいい。それは教師のための学校ではあるかもしれないが、もはや子どものための学校ではなくなっている。我が子を学校に通わせている保護者は、そこのところをとくと検証しなければならない。お任せでは子どものための教育にならない。

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戦後の文部省発行の『生徒指導の手引き』から思うこと—不登校はどこから?

2014年05月28日 | 日本の教育

戦後の文部省発行の『生徒指導の手引き』から思うこと—不登校はどこから?
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▼もう20年来日本の学校教育からこぼれ落ちる(はみ出る)「不登校(登校拒否)」の問題を扱っていて思うこと。全国の不登校の子ども達の数値に多少の変化は見られるが、大元はあまり変わってはいないのではないか。戦後、日本が高度成長期に突入し、全国で進学熱が高まるのに比例して不登校も増加した。が、その後日本の経済成長が低迷期に入っても不登校の生徒達の輩出はあまり衰えてはいない。見た目の多少の減少にもかかわらず、逆の意味で増加しているようにも見える。何となく不登校」とか「明るい不登校」とか「不登校バンザイ」とかも言われる。多分に商業ベース的な響きがすることを差し引いても、「なぜなのかという思いがする。

▼いわゆる「不登校相談」の専門家と自称する人々は、元不登校の子どもまで含んで様々にいるようだ。が、そのほとんどは不登校という現象面を扱う人達で、相談と言っても対症療法的なものが中心である。心理学的側面から、カウンセリング的な観点から、自分の体験的な理解から—それぞれが今不登校真っ最中の子どもやその親御さんに「解りやすく」噛み砕いて説明して安心させていることが多い。が、それは大部分がモグラ叩き的な対症療法的なものである。
タブーでもあるのか、難しい領域になるからあえて触れないでいるのか、「どうして不登校になるの?」「なんで日本ではこんなに不登校が大問題になるの?」という、日本の教育の根幹に触れる問題には触れようとはしない。

▼そこで、教育専門家でもあまり触れたがらない日本の教育のあり方に敢えて触れてみたい。もしかすると、一向に終息しない日本の学校教育の不登校の問題もその辺にヒントが見つかるかも知れない。
1965年発行の文部省の『生徒指導の手引き』という書籍が手元にある。その中に「第2章 生徒指導の原理」という項目があり、「4 援助・指導の基盤としての人間関係」という小見出しがあり、そこに次のような文言が書かれている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 援助・指導の基盤としての人間関係には、重要なものとして権力ー支配ー盲従関係、権威ー尊敬ー心服関係および出会い関係があげられる。

(1)権力ー支配ー盲従関係

 権力ー支配ー盲従関係は、もっぱら外からの強制的な力によるもので、指導されるものは指導者に対し恐怖心を感じ、その恐怖心をの免れるために服従する。決まりに従う行動をさせるためには、このような権力ー支配ー盲従関係も効果的であるが、前述したような人間関係では内面化が起こりにくいから、絶えず権力が生徒の眼前に提示されていることが続けられなければ、所期の成果を達成することができない。

(2)権威ー尊敬ー心服関係

 権威ー尊敬ー心服関係における権威は、外からの力によって与えられた権威(それは権力と呼ばれることがふさわしい。)ではなく、内的に充実した内的権威であって、そこには生徒との間の相互尊敬が存し、生徒が自発的に心服するようになることを求めているものである。このような関係にあっては、生徒はおのずから指導者との同一化を求め、指導者のようになりたいと欲し、あるいは、その教えに進んで従おうとする。このような関係においては、生徒は指導者の人格に感化されることになる。

 権威ー尊敬ー心服関係は、幼児期の人格の生成において顕著に見られるものであり、この関係において恵まれた過去を持っている生徒の指導者は、よい基礎があるので一般に順調に進められるものである。しかし、青年期の発達的特性として、親や教師に対しては反抗的となりがちなものであるから、親や教師との関係においては、この権威ー尊敬の関係を持続させることがむずかしくなる。青年期の生徒が親や教師に対して反抗的なムードをあらわに示しても、親や教師が筋道のたった助言を与えるならば、即座にそれを認めることをしないとしても、しばらく経過したあとでは、その助言を取り入れることがしばしば見られるものである。このように親や教師との関係でも、権威ー尊敬関係は潜在的には必ずしも断絶されていず、生徒が特に尊敬を感じている教師に対しては、心から服従し、その感化に対して心を開いているものであり、また崇拝する偉人に対しては、積極的に同一化を求めているものである。したがって、偉人の講義や伝記などを媒介として指導していくならば、偉人の人格による感化が生徒に及ぼされていくことは、じゅうぶんにこれをこれを期待することができるものである。人生の目標の確立や専心追求の態度を育成するためには、このような権威ー尊敬関係が存立することが望ましい。このような関係においては、支持されたり激励されたりすることは効果的である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▼引用が長くなったが、1965年発行の文部省の『生徒指導の手引き』には、上記のような文言が載っている。 実際はこの『生徒指導の手引き』のあと2度ほど改定が行われ、現在は『生徒指導提要』(「三訂版」とも言うらしい)と名称も変わったようである。そこには『手引き』をベースにしながらにはそれ以降のの生徒指導に関する情報(発達障害やインターネットまで含む)が盛り込まれている。

▼ところで、識者に聞きたいのだが、(寡聞にして、私はこの文言が否定されたり根本的に改定されたという説明を知らない。)もしかして、今でもこの文言が生きている、効力を持っているのであろうか。(ちなみに、この文言のすぐ前には「3 賞と罰」という見出しがある。やはり、この流れで書かれている。)
 日本の不登校問題は、戦後のこういう学校教育のあり方から必然的に生まれてきたものではないかと思うのだが---。 

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<I am different.>(私は違う)をどう思いますか?---<不登校>を生み出す日本の教育風土

2014年05月10日 | 日本の教育
伝統的な灰汁巻き(チマキ):きな粉と砂糖で食す
一般のチマキと比較すると随分大きい。孟宗竹の皮で包む

I am different.>(私は違う)をどう思いますか?---<不登校>を生み出す日本の教育風土

▼ある方が、ツイッターで自分の子どもがアメリカの現地の小学校の1年生でいた時に(私は違う)という授業があり、みんなが自分の違いを次々と喜んで発表し合っていたという記事を流した。アメリカにももちろん人種差別主義者はいるが、同時に「みんな違ってみんないい」という風土があるというような趣旨。それは同質性を強要する日本社会に対する批判ともなっていた。それについて様々な人達が色々な角度から意見を出し合っている。で、ちょって覗いてみた。

▼「それは面白い。日本でもやってみたい」という人や「日本ではあり得ない」という人も。香港の幼稚園でまだ小さな自分の子どもが同じような経験をしたという方の声も。また、ある講演で日本の小学一年生の教科書とアメリカの小学校一年生の教科書を比較検討した話を紹介し、日本では「みんな同じ」、アメリカでは「みんな違う」と書いてあると紹介する人も出てきた。
 一つの意見に集約せず様々な意見が飛び交うところがツイッターのいいところかも。

▼「みんなと同じになりたい」と「自分だけ目立ちたくない」とは同義かと問いかけ、日本では「出る杭になるな」を推奨しているのかなと、日本の学校教育に疑問を投げかける人がいた。それが「あなたは私と違うから認めない」という差別主義者の考えに繋がると他の人が受ける。自己肯定感が低い日本で苦労して大人になったという人も同調する。
 ある人は、「実際にはみんな違っているわけで、それを認めることが必要ではないか」と言い、「違っている」とか「同じ」とかではなく、その存在そのものを認める姿勢が大事という考えだ。
 これらツイッターへの投稿から、結論めいた形のものをあげれば、どちらか一方が正しいとかお勧めということではなく、「どちらもレスペクトされていい」となるいうことになるのかもしれない。

▼これらのツイッターでのやりとりから日本社会のある特殊性が浮かび上がる。一方はアメリカ等の大陸的な風土であるのに対し、日本の場合は島国的精神風土、閉鎖的な緻密性などが特徴だ。「日本は島国で、権力に従わなければ生きられなかった」とある人は言う。ただし、集団主義、同質性、単一性、村八分、形式主義や儀式---それは本当は幻想に過ぎないのだと

▼そう言われて振り返れば、正倉院の御物に見られるように日本の文化の多くが海外との交流からもたらされていながら、日本特有の文化風土は、平安時代や江戸時代に隆盛した国風文化に典型的に見られるように海外との交流を遮断したり鎖国状態に置かれた中で醸成されている。しかし、それらは内部からの要請で発展的に海外に開かれたことはなく、ほとんどが外部からの要請や侵入によって仕方なく門戸が開放されている。そして、海外との交流で日本は絶えず揺さぶられ翻弄され、時には激しく衝突している。日本は基本的に海外の国々と付き合い方を知らないのかもしれない。

日本は「みんなちがってみんないい」の金子みすゞが自殺しちゃった国だとある人はいう。学校教育には「みんなと同じ」を良しとする圧力がかかり、そこに息苦しさ感じる人達が出てくる。日本の子ども達は「どうやったら嫌われないか」を気にするが、海外の学校ではむしろ「どうやったら好かれるか」に心を向けるという。
 日本の小学校の教室の壁には、よく「話し方」のモデルが書かれている。参観日などでの子どもの発言でそれが披露される。「私も○○さんと同じ考えですが△△です」と言うように。それに親も教師も疑問を持たない。いや持っていても自分からは言い出さない。ここにも同調圧力がある。
 こういう風土から不登校が生まれ出るのは当然kも知れない。同調できない、同質性に染まらない、異なる意見を持っている---そういう子ども達はクラスに居場所を失い、学校を離れる。こういう教育風土であっるから、「どうやって国際社会での競争に勝ち残っていくのか」という日本の将来に対する不安が出てくるのも当然かも知れない。

▼「普通じゃない=イケてる」とされる国と、「私は違う」が良しとされても、クラス全体が「違うように頑張ろう」になってしまう日本という国と---その開きは余りにも大きい。日本では教科書などに載せてわざわざ「みんなちがってみんないい」なんて言わなければならない。だが、アメリカ等の国々では「いろんな人がいる(当然)」と、事実を淡々と述べるだけ。この差は余りにも大きいのだ。それが当たり前の風土になっていればあえてスローガンに掲げる必要はないのである。

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不登校理解と不登校支援と脱・不登校と---官民連携に際して

2014年04月26日 | 日本の教育
不登校理解と不登校支援と脱・不登校と---官民連携に際して

▼今年も《不登校セミナー》開催のためのフリースクール側のメンバーの一員として「官民連携会議」に関わらせていただくことになった。埼玉県だけでな全国的な観点で早くから不登校や不登校の子ども達の支援活動に取り組んできた者の一員として、教育委員会や教育行政ののあり方に出来る限りの協力をしたいと思う。

▼不登校問題も当初は不登校になった子ども達への正確な理解が乏しかったと同時に、そういう子どもを守る立場の人たちからは激しい学校批判も上がったものである。そうせざるを得ない側面もあったが、不登校理解と不登校支援の両方にとっても不幸な出発であったと思う。
 しかし、論点を明確にせず互いに歩み寄るのが本当の不登校理解に良い結果を生むとは思えないし、互いに家庭が悪いとか母原病だとか、学校が悪いとか教師が勉強不足とか批判していれば不登校支援に繋がるわけでもない。

▼単なる批判で良しとされた時期はもう終わり、具体的に何をどうすればいいのか、実践に向けて今一度整理して見なければならない。不登校理解と不登校支援は官を待たず民間が先行したが、そのオルタナティブの活動が必ずしも所期の成果を上げているとは言えないし、金銭的な側面からも誰にでも利用できるものにはなっていない。
 教育行政の側も夜間定時制の高校を統廃合してパレットスルールを立ち上げるなど、それなりの成果は上げているし、公的な支援に頼らざるをえない家庭にとっては福音の部分もある(ただし、「教育の二重基準:ダブルスタンダード」の批判の声は絶えずある)。

▼そこで、改めて原点に戻って考えてみる必要がありそうです。たとえば、
 ○不登校はなぜ起きるの?
 ○不登校はどうすれば克服できるの?
 ○我が子が不登校になった時どう接すればいいの?
 ○不登校は誰に聞くのがいいの?
 ○教育行政では不登校をどう見ているの?
 ○民間の教育活動に求められるものは何?
 ※ここでも見逃されていることがあります。
  それはこれらはみんな対症療法、モグラ叩き的な対応なのです。

▼その前に、大事なこと、それは「不登校を出さない学校をつくる」ということ。
 はっきり言って、本来「子どもが主役」であるはずの学校において、子どもが学校を離れるということ=不登校になるということは、「学校教育の敗北」なはずです。子どもが学校を拒否したら、それはもう学校の存在意義はなくなったということです。学校の死です。

▼今や世界規模で《アンスクーリングunschooling》という運動が広がっています。《ホームスクーリングhomeschooling》はその走りだったのかもしれません。オルタナティブの民間教育として注目されたチャータースクール運動もアメリカではすっかり教育ビジネスに侵食されてしまったようです。
 今、改めて「不登校は悪くない」「間違っていない」、むしろ命の危機を感じて逃げたのであればそのセンサーや個性を誇るべきとも言えるかも知れません。

▼でも、「学校から逃げた」のは、他のところでよりよく自分を生かしたいということ。その状態にいつまでも留まっていていいということではない。それを「引きこもり」に移行させる契機にしてはならない。
 そこで、ヒントを一つ。
 子どもは自分に与えられた「環境」の中で育ちます。その環境には物的なものと人的なものがあります。もし、その環境に自己肯定的なものが欠けていたなら、その子は自己肯定感を育むことなく育ちます。
 もし、その子の口から「ノー、ノー」の言葉ばかりが発せられ、「イエス、イエス」がないならば、その子は結局、不登校から完全に脱するのはかなり難しいものになるのではないでしょうか。

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月刊教育雑誌『ニコラ』復刻版のご案内---不登校支援の原点をみる

2014年04月01日 | 日本の教育

◆◆◆ 月刊教育雑誌『ニコラ』復刻版のご案内です ◆◆◆

1970年代の中ほどから、最大の投資とばかりに子ども達への教育熱が高まる一方で、それに比例するように子ども達が登校拒否・不登校という形で無言の異議申し立てをするようになりました。おそらく教育熱の高まりと不登校の輩出の間にはコインの両面のような関係にあるのだろうと思います。不登校の増加はまた、子ども達の周りから自由に遊んだり駆けまわったりする環境が失われていく過程でもあったと思います。

▼そういう時代背景の中で 雑誌『ニコラ』は産声をあげました。最初の目標は、クレヨンしんちゃんやコボちゃんのような子ども達がやがて小学校に上がる時に多分どの子にも生じるであろう違和感、それをしっかりと受け止められる親であることを願って、いわば親業をともに考える雑誌として構想されたものでした。しかし、事態は発行者である私達の思惑を超えて展開することになります。

▼「子育ての悩みを語り合える雑誌」ということで、最初に毎日新聞が紙面で大きく取り上げてくれ、次いで朝日新聞、読売新聞と三大紙が続きます。そこにさらに群馬新報とか信濃毎日などの地方紙までが大きく取り上げてくれました。それ自体は、三号雑誌で終わるかもしれないと危惧していた私達には望外の幸せでした。しかし、事態はそんなに単純ではありませんでした。それは、昔の「家の光」というような雑誌のように、我が子が学校に上がったら読む雑誌と考えていたのとは全く違って、三大紙でも地方紙でも「日本初の不登校専門誌」というような報道であったのです。

※(続く)

※あまり時間が取れませんので、ぼちぼち書いていきます。宜しければお付き合いください。

※不登校専門雑誌『ニコラ』の記事は下記の「こども支援ネット」のサイトで御覧下さい。

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『高校中退』について:不登校・中退のやり直しの案内書---ヤブ睨みの読書感想

2014年02月15日 | 日本の教育
『高校中退』について:不登校・中退からのやり直しの案内書---ヤブ睨みの読書感想

※再登録の拙文に加筆訂正しました。


▼昨年の暮れに、こんなタイトルの本が出た。

『高校中退』---不登校でも引きこもりでもやり直せる!---
NPO「高卒支援会」主宰:杉浦孝宣著(宝島新書)


本書の腰帯には、
-----------------------
「高校中退者 年間5万人 その多くがニート・引きこもりに……
29年年間支援を続ける塾講師が説く「再生」への道

---------------------
とある

▼本書は、「不登校・引きこもり研究」と称して、それを專門に研究してきた著者が、まだ年端もいかない大学生や、その道の知識や経験に乏しい門外漢の一般読者を相手に、したり顔(どや顔?)で説くという書物の類ではない。不登校体験を持つという著者自身が、この29年間、現場で見聞したり実践したりしてきたこと、現にいま不登校や引きこもりの状態で苦しみながら必死に出口を探している本人や保護者、教育関係者等に向けて発した問い掛けと道案内の書と言ってもいい。外見も新書版の体裁であり、警世の大文字を説くような内容の本でもない。しかし、その訴えるものは深く現場の問題に根ざしている。真剣に子どもの教育を考える者にとっては決して避けては通れない一冊である。

▼小学3年生の時に保健室登校をし、その後、養護学園に半年間ほど通ったことがあるという著者の不登校体験は、おそらく本書が生み出した一つの動機にはなっていよう。しかし、氏の場合、むしろそれを肥やしやバネにして、ものの見事に脱・不登校を成し遂げている。氏はその後、大学時代ををアメリカで過ごし、カリフォルニア州立大学で会計学を学んでいる。不登校からの立ち直りの見事な典型がここにある。その後日本に戻ってからは語学を活かし家庭教師のような仕事をしたようだが、やがて不登校・引きこもりの支援活動に専心し、現在に至る。

▼個人的な体験として過去に不登校の体験を持つ場合、それが貴重な体験として評価されることは日本の社会ではまだほとんどないが、不登校支援の仕事で活かされることがしばしばある。が、本人が完全に自己の不登校問題を克服し切っていない時、周囲に様々な波紋をもたらすことになる。「やっぱり不登校だから、こういう仕事をするんだ」というような見方が心ない偏見や誤解によってなされることもあるし、当たらずとも遠からずということもなきにしもあらずである。
 しかし、それ以上の問題を孕むこともある。そういう経験を活かしてカウンセラーや学校の教員等になった場合、一見それが完全に克服されているかのように見えて、不登校や引きこもりの当事者を前にした時に、バランスを欠いてしまうことがしばしばある。フラッシュバックに襲われるとでもいうのか、PTSDを引きずっているとでもいうのか、個々のケースによって随分違い一概に決め付けることがあってはならないが、心すべきことで、無視はできない。不登校や引きこもりの当事者が二重の深みにはまることになりかねないからである。

▼しかし、氏の場合には、そのような個人的体験が見事に乗り越えられているばかりではなく、そういう体験があったればこそ、一般の人々には興味はありながらなかなか分かりにくい領域の不登校・引きこもり・ニート等の問題が、このように内側から鋭く照射される形で結晶することができたのだ。ここには、過去に当事者であった著者がカミングアウトして当時の自分やその状況が語られているだけでなく、現在に至るまで一向に改善の兆しが見えない日本の教育の問題点が鋭く浮き彫りにされている。

▼さて、本書の内容に触れてみよう。
著者が不登校・高校中退の立ち直り策として説くことは、次の三つ。それは極めて簡潔で的確。誰でも理解できるものだ
---------------。
(1)規則正しい生活をする
(2)勉強をする
(3)環境を変える

---------------
繰り返すが、これは不登校の理論書ではない。実態をリアルに把握し、あくまでも実践に役立てるための書である。

▼このような形で不登校や高校中退の子ども達を支援する一方、子ども達に関わる大人たちへの見方は時に鋭く厳しい。自ら行動する実践家としての眼差しがそこにある。
 たとえば、日本の学校教育の問題点として、「労働の素晴らしさを教えるキャリア教育」を行っていないと批判する視点もそれ。そして、教育者自身に対しても、「教育者は不登校・高校中退を肯定すべきではない」と厳しく迫る。それでは不登校や高校中退の子ども達は「あっ、これでもいいんだ」と認められ受け入れられているように思ってしまうだろうと憂える。

▼一方で、高校中退の本人や親御さんには、「学校のセールストークを真に受けるな 学校は子どもの教育が第一ではない。高校はビジネスでやっているんだ」と指摘し、現実を曇りなく見るように促す。実際、日本の社会には家庭の問題から政治の問題に至るまで「互いに依存し合っていて誰も責任を取らない」共依存関係が出来ていると憤る。引きこもり、中退する子どもは、学校のカウンセラーを含め、大人が適切な指導、関わりを欠いた結果なのだと。
(「憤る」と筆者は書いているが、氏自身はいつもにこやかな表情で語り、決して憤らない。だから、この言い方は実際の印象とは大きく違っている。ここで使われている「憤り」等の表現はその内なる熱い思い推測してのものである)

長らく自然体で子ども達と向き合ってきたからこそ言える言葉、それが随所にある。学校では社会が求める若者像と大きく違うことをやっている…。彼らは心の病気ではない。進路や人間関係が問題なのに…。

●定時制の統廃合などで高校中退の受け皿はどんどん削られつつある。だが、政府は引きこもりやニートの対策には熱心だが、それを生み出す原因となる不登校や高校中退への対策はあまり取られていない…。

▼そういう日本の社会の現実の中で、では具体的にどうすればいいのか?どうすれば不登校や高校中退の子ども達は立ち直れるのか?そう杉浦さんは考える。
 ヒントは以外にも、元不登校や高校を中退した子ども達にあった。過去はどうあれ、現在、元気にやっている彼等の姿がそこにあった。氏はそういう子ども達に注目した。「小中学校で失敗しても、高校で生活習慣や基礎学力を身に付ければ社会で役立つ人材が育つ!」 そこから導き出された三つの方法、それが先に紹介したものである。

▼杉浦さんは、中学時代まで不登校であった子、高校を中退した子、それでも高校だけは卒業したいという子---そういう子ども達を救済する道を幾つかに整理している。
 その代表的な方法が次の三つ。
(1)一つは「高卒認定試験」をうけるための「高卒認定予備校」。
 しかし、一般に高卒認定試験は卒業の資格は得られ、大学進学には役立つが、一般社会では大検と時と同じで高卒とは認められない。
(2)次に、通信制高校
 しかし、その進級・卒業率は極めて低い。そのまま社会参加につながることは少ない。そこに誕生したのがサポート校という存在(文科省は正規の高校とは認めていない)。高校生のセーフティネットにはなっているが、高卒資格を得るためには「通信制高校+サポート校」という高額の学費がネックである。
(3)そして三番目が東京都や大阪府にある公立高校への転校制度
 東京都では学期ごとに補欠募集の試験がある。高校中退者は高校一年生が多いが、その救済制度ともなっている。私立全日制高校にも同じような制度があるが数は少ない。

氏は長年、東京都の高校転入試験を受ける生徒の支援を行ってきた。ただし、転入は誰もができるわけではない。生徒を採る高校では学校の価値を高めるレベルの生徒を欲しがる。その逆はまずない。
 そうは言っても、不登校や高校中退を対象とする都立高校があること自体が大きな救いである。東京都では転校の受け入れが柔軟な単位制の昼夜間定時制の新宿山吹高校がある。入試の際には内申ではなく教科試験の点数で評価してくれる。またチャレンジスクールと言って不登校や中退者向けの支援教育を行う高校が5校ある。作文と面接で合否を決めている。

 著者の杉浦さんはこういう学校が東京、大阪だけでなく、全国に広がることを願っている

▼この後の「第4章」では「小・中・高、教育現場の実態は?」では、この問題に一章を割いている。そこでは「ブラック企業化する公立小中学校」「予備校がコンサルタントする高校」「高校教師は経験・勉強不足が多い」「理事長が熱心なぐらば学校は変わる」「なんでもアウトソーシング
の高校って」「変化を好まない教育界」「単位を事実上抹消する地方の高校」「門前払いする地方定時制高校」「学業を続けさせてくれない高校」「茨城から東京へ、そして転入」と、小見出しがある。教育界には門外漢には「アンビリバボー」なことが山ほどある。その幾つかに触れている。でも、ここでは拡散し過ぎるので取り上げない。その中の一つには、こんなのもある。
 「教育もアウトソーシングされていて、生徒の管理もアウトソーシング。心理的なケアはカウンセラーに丸投げし、そのカウンセラーは心療内科と精神科に丸投げする。その結果は、向精神薬漬けです。---(略)」
 (本当はこの辺を掘り下げてみたい気もする。)

▼※以下の本書の残りの半分は、
・「僕は不登校児童だった」という、いわば今の仕事をするようになるまでの体験談(不登校であることをカミングアウトできた人は強いという見本でもある)、
・「実例から見る高校中退、そして『再生』」、
・補章1・高校中退を報じた月刊宝島の記事、
・補章2・資料 文科省「学校基本調査」ほか 
と続くが、ここでは省略する。
(不登校や引きこもりの実態を知りたい人には、「実例」紹介が役立つだろう。)
本書を手にして読んでほしい。

------------------
※この書評は客観・公平ではない。独断と偏見に彩られている。それを承知でお読みください。
※一度アップしたものを、操作ミスで全部削除してしまい、復元できなくなりました。この拙文は、一度完成させた文章を再現する形で書いたもの。ですから、最初の文章とは違っている部分もあります。ご容赦を。どなたか先の文を保存されてましたらご連絡を。そちらをアップします。
※再登録の拙文にさらに加筆訂正しました。

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「大田尭先生を囲む集い」から(2)--絶えず変化し変わらぬもの・関わりと折り合いの中で

2014年01月04日 | 日本の教育

(「大田堯自撰集成」1)

▼たぶん先生ご自身は好まれないかもしれないが、先生が初めての方のために一言。大田尭先生は東大教育学部学部長、都留文科大学学長、子どもを守る会会長等を歴任されただけでなく現場での活動にも多様に参加された。
 私がお会いした頃は既に東大名誉教授となられ、ほとんどの要職や中心的な役割は退かれた後のことだった。たぶん「子どもの目」が主な活動になられた時期ではなかったか。

▼もとより、先生の過去がどうというよりは、子どもの教育の精髄を学ぶためサークルへの新参者と言うのが私のスタンスだった。しかし、先生や周りの方々は旧知のメンバーのように私を迎えてくれた。
 高校時代から尊敬する先生にことさら異論反論する悪い癖で(高校時代のその恩師は後に衆議院議員となられた)、大田先生に対しても同様のところがあった。しかし、先生はいつもにこやかに受け止めて下さった。

▼21日当日に先生が話されたことは、おおよそ次のようなこと。(以下、走り書きメモから)
 生き物はみな根元的自発性を持っている。そしてみな孤独にできている。人はみな自分の中に自分を閉じ込めている存在である。そうやってみんな違って生きている孤独な存在である。
 しかし、一方、みな他者に依存しなけれな生きていけない存在でもある。そして、折り合いをつけて生きている。
 人はみな変わり続けている。が、変わり続けているのに変わらない。変わらないように見えて、自ら変わる力を持っている。そこにあなたの設計図がある。

▼教育界を見て。教師や親はいつも子どもの興味や関心を大事にと言う。だが、実は絶えず同化を求めているのが親や教師のやっていること。
 2006年12月22日に、愛国心、郷土愛を規定した新たな教育基本法が明日で満7年になるが、元の教育基本法の前文は日本国憲法の前文を受けていた。憲法にはふつう価値観を書かないものだが、日本国憲法は先の大戦の反省からそれを入れている。旧帝国憲法では「天皇のために死ね」と国民の魂を政府が支配するものだった。

▼子どもは根元的な自発性を持っている。そして、みんな違う。人間には38億年の生命の歴史があり、そのDNAを持って生きている。
 石川啄木に次のような短歌がある。
  
 こころよく 我にはたらく仕事あれ
     それを仕遂げて 死なむと思ふ

 夢を分かち合う、品位の高い国を創造したい…

▼上記は、筆者の走り書きであり、メモである。省略だらけで、論理は勝手に繋いでいる。(だから、大田尭先生の言とはとても言えない)判読されたい。

▼大田先生のお話の後、いろいろな人がお祝いの言葉や自身の活動等を語られた。A養護の先生の話、カウンセラーだった奥様が病気になられたOさんの切実なお話、波の絵を献呈された画家のFさん、福島県の被災地の子ども達支援の活動をされているNさん、親子劇場のIさん、保育園経営のNさん、兄弟みんな学校の先生というSさん、不登校だった娘が今元気に高校に通っているKさん、S大学で教鞭を取っている先生…その他思い思いに近況を語った。
 そのどれもが大田尭先生のこれまでの活動と結び付いている。教育界だけじゃなく、様々な民間の人々もいる。そういう「子どもの目」の活動が新聞で報道されたこともある。主催者は春になって落ち着いてからまたやりたいとのことだった。

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「子どもの目」との出会い----「太田堯先生を囲む集い」に参加して(1)

2013年12月25日 | 日本の教育
「太田堯先生を囲む集い」に参加して(1)----「子どもの眼」との出会いなど…

▼「太田堯先生を囲む集い」 が、2013年12月21日,浦和の共済会館で開催された。呼びかけ人は中学や高校・大学で教鞭を取られていた倉持光好さんと野々垣務さん。

▼会は藤田昌士さん(元立教大学教授、子どもの人権ネット・さいたま代表)の開会の挨拶のあと、出版記念パーティの挨拶を兼ねて御歳95歳になられた太田堯先生が30分ほど(実際はもっと長かった)講話をされた。時代と子どもの命の輝きを見つめた95歳のご高齢とは思えない凛とした語りであった。

▼私は門外漢の一人だが、一部に〈大田教〉と揶揄されるくらい氏のファンは多い。稀有な人徳の賜物である。案内状が急であったにもかかわらず、会場には50名ほどの参加者があった。集まったのは私を含めて大田ファンがほとんどか。太田先生を媒介に様々な人達との繋がりも生まれた。先生とはしばらくお会いしていなかったが、覚えてくれていてお祝いの言葉を述べると先生の方から気軽に握手の手を差し出されたのには感激した。

 以下はその太田堯先生(先生と口から自然に出る数少ない方)のお話からのメモ書きによる。

※太田堯先生の歩みについては改めて記すまでもあるまい。東京大学名誉教授、元日本子どもを守る会名誉会長など、書籍やネットでご覧いただければ幸いだ。(私もお若い時のことはネット等で知るのみ)先生の歩みを知らずに埼玉の教育を論ずることはできないと思っている。

▼太田堯先生との出会いは子どもの人権ネット・さいたま(斎藤喜代美世話人)を通じてであったか?(子どもの権利条約の推進、埼玉県各地の親子劇場との交流、埼玉の様々な団体・組織・活動する人たちと共催した子どもフォーラムのイベントなども全てこのような出会いから生まれた)。本格的な出会いは氏が主宰していたオープンな学習会「こどもの目」への参加に始まる。不登校を中心テーマとする教育雑誌『ニコラ』の発行に踏み切ったのはこの出会いの後のことだった。

▼当時の私は、新しい教育の姿を求めて、元宮城教育大学の学長の林竹二さんの活動や映像等(林竹二さんの実践活道をフィルムで紹介する人達がいた)を調べたりしていた。林竹二さんの行状は素晴らしかった。それに影響されて教職を目指した人も多かったのではないか?しかし、私にはそれは古典的な教育方法に思えた。新しい教育の方法論が欲しかった。そのような時に太田堯先生の学習会「子どもの目」に出会ったのである。

※(2)に続く

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不登校の子どもの心に耳を傾けてみよう--不登校の子ども理解のために(1)

2013年12月10日 | 日本の教育
不登校の子どもの心に耳を傾けて--不登校の子ども理解のために(1)

Bob Dylanの「風に吹かれて」をカルメン・マキの替歌でどうぞ。
 不登校の子の秘めた思いをこの歌から聴き取ってください。


▼不登校になったお子さんを持つ親御さんは大抵予想外の事態にパニックになることが多い。本人はそれまでの自然の成り行きの帰結として意外に冷静に受け止めることが多いが、親御さんには事態を冷静に受け止められない。
 それは今までの子育てを根こそぎひっくり返されたような事態、時には自分の生き方そのものが問い直されたような事態なのだ。だから、それは容易に受け入れられない。是認できない。〈そんなはずがない。これは何かの間違いだ〉と思いたい。認めがたい現実がそこにある。その時、親御さんの多くはどうするか。

▼我が子が不登校になったという現実は、どんなに否定したくてもやがて認めざるを得なくなってくる。どうしてこんなことになったのか。その原因を外部に、我が子を取り巻く状況に見出そうとするのは自然のことである。そういう事態になった時、冷静に自分の顔を鏡に映して見ることは難しい。そこで学校生活のこと、友人関係、教師の対応、その他様々な周囲の要因を検討してみることになる。すると、普段は気にも掛けていなかったが、我が子の不登校のきっかけとして様々なことが思い当たるようになる。

▼子どもの不登校の原因がどこにあるかは正直とても難しい。どちらかに限定できないことも多い。ただ一般的に学校関係者の側は子どもにそれを求め、親御さんの側には学校生活の中に、学校という教育空間の中にそれを求めることが多くなる。これはごく自然なことで避けようがない。しかし、お互いにそうやっているうちはなかなか解決への方途は見つからない。
 不登校になった子どももどうしていいか分からない。ただ不甲斐ない自分を自覚させられるだけである。不登校の渦中にいる子どもは、自分で自分をどうすることもできないのだ。

▼親御さんと学校側と、この両者に共通したものがある。それはともに〈不登校は悪いこと〉という考え方である。大人の顔にそれが如実に表れているのを見て、子どもはただオロオロするしかない。それが長引き、進展がなく高じていくと、子どもは自分に対して肯定的な感情を持てなくなっていく。自己否定の感情でいっぱいになっていく。そして、何事にも自信をなくし、手に付かなくなる。ゲームやインターネットにはまりこんで行くのは、そういう自分を慰撫する行為であり、他に救いの手のないことの代償行為なのだ。

※不登校の子どもは理解されたがっている。でも、大人の誰も分かってくれない。

※時間の関係で推敲せず投稿しています。後で修正が入ることがあります。ご理解を。

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〈諦めの哲学・慰めの哲学〉(1)…〈保護者のための不登校セミナー〉について思うこと

2013年11月26日 | 日本の教育
〈諦めの哲学・慰めの哲学〉(1)…〈保護者のための不登校セミナー〉について思うこと

▼今年度も昨年に引き続き官民連携による「保護者のための不登校セミナー」その〈パート1〉を9月14日、その〈パート2〉を11月4日にそれぞれ開催した。〈パート1〉は埼玉県教委が主催で民間側がサポートにまわり子どもたちの不登校からの立ち直りの姿を披露し、〈パート2〉は逆に民間が主体で県教委の側がサポートにまわってオープニング・セレモニーで元不登校の子どもの歌、不登校の子どもを持つ親の体験談、不登校支援者側からの話などを組み入れた。
 不登校セミナー自体は〈分かり易かった〉と好評だったようで、それはパート2のセミナー後の民間側の懇親会でも確認できたことであった。

▼このセミナーはパート1ではその目的は明確であった。教育委員会側と民間の機関や団体が協力し合ってなるべく早期の不登校の状態からの脱却を図ることが暗黙の了解としてあった。しかし、パート2で見られた壇上での語りや懇親会で出てきた様々な問題は多々の疑問を残すものとなったのではないか。そういう意味でも、このセミナーが自画自賛の良かった良かったでまとめて良いものかどうか。
 特に早期の段階から月刊教育雑誌『ニコラ』やその読者の会(ニコラの会)を中心に埼玉県や東京都を舞台に長らく不登校相談会や実践報告会を開いてきた者からすれば、この20年間に及ぶ不登校支援の歳月は何であったのか、暗澹たる思いで眺めるものとなったことは否めない。

▼特に2部の親の話や3部の支援者側から出た「不登校から8年目で動き出した」「父母で勉強を教えている」というような話は、単に不登校になったというだけで〈失われたその子の8年〉を思う時、その両親の嬉しそうな笑顔とは逆に、何ともいたたまれない思いにさせられたものである。8年…余りにも長過ぎるのである。
 たとえば、樹木に喩えるならば8年経てばもう若木ではない。人としての生を形成する最も根本的な時期に、それが家庭という場所であれ、彼は実質的に一種の軟禁状態の中で8年間を過したのだ。それはもはや埋めようがない。取り返し用がない時間の流れである。

▼このセミナーが官民連携による〈不登校の子どもを持つ保護者のための公開セミナー〉である以上、少なくとも当日壇上で語る人達は、その〈成功者〉であるべきではなかったか。参加された保護者の方々も〈たとえ今不登校であろうとも、こうすればいいんだ〉という脱不登校の体験談を聞きたかったのではないか。
 しかし、実際にその時聞いたのは不登校になってから8年、それでもまだ完全に不登校を脱却できずにいる話や3人のお子さんが皆不登校となった事例などが当日のメインのように語られた(私どもから推薦した親御さんはお子さんが今映画の仕事に熱心に取り組んでいるが近親の葬儀が飛び込み参加中止となった)。今、不登校の子どもを抱え不安な思いに駆られている親御さん達に救いとなったであろうか。まずは親御さん達に元気になってもらおうという取り組みは成功したのだろうか。

▼そこで参加された親御さんが聞かされたことは、〈子どもを信じてひたすら待つ〉ということ。そうすれば子どもはやがて自分の足で歩き始める…というわけである。この心構えは決して間違ってはいない。我が子と接する時の大切な心構えである。だが、何かが足りない。お気付きだろうか。
 それはカウンセラーや精神科医が取る〈カウンセリング・マインド〉という技法ではないか?方法論としては実に正しい。しかし、それは飽くまでも技法なのである。そしてそこには〈技法はあるけれども心がない!〉
 不登校相談を職業とし、子どもやその家族の相談に役立てるならばそれでいいかも知れない。受容と共感の心を持って温かく見守りましょうというように。しかし、繰り返すが、それは当事者の思いにはなんにも答えていないのと同じである。
 当事者にとって、それは〈諦めの哲学〉であり〈慰めの哲学〉に他ならないのではないか。8年もひたすら待つと言うこと、それは一種の〈死の宣告〉に等しい。保護者達は〈不登校セミナー〉の会場に〈救い〉を求めてやって来たのではあるまいか?単なる慰めや諦めを聞きにやってきたのではあるまい。納得していただいただろうか?

▼〈救い〉の方法とは何か?それは次回に触れたいと思う。

(続く)

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