教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

私的繋がりからソーシャルネットワークの時代へ(1)

2011年02月15日 | 携帯電話

※「私」から「公」へ、「個」さら「集団」への道----を考える 

(1)携帯電話の黎明期から

▼最近の統計でもはっきり表れているが、今や携帯電話を持っているのは中高生くらいになれば当たり前、小学生でもかなりの子どもたちが手にしている。特に夜、進学塾等からの行き帰りには、子どもたちにとって親と連絡を取り合うための必須のアイテムとなっている。
 さらに、昨年の暮れ辺りからは高機能なスマートフォンの普及が急である。すでにガラパゴス携帯と揶揄される従来の携帯電話と出荷台数で並んだようである。多分この勢いは止まらないだろう。いや、もっと加速するとみていいのではないか。

携帯電話という簡便な個人の通信に適した文明の利器が世間の人びとに普及し始めた時、ご多分にもれず、それを歓迎する者と不安視する者と2つのリアクションがあった。受け止め方の違いは、多分に年齢に比例していたようにも見えた。一般に若い人たちは肯定的に受け止め、高齢者になるにしたがって保守的になる傾向があった。生理的に適応するのが難しくなるということもあるが(アクロバット的なテンキーの操作は中高齢者には難しい)、一方には自分たちが築き上げた既得の価値体系が揺るがされてしまうということもある。簡単に言えば、わけの分からないものが流行り始めたということになる。

▼たとえば、こんな映像がテレビで流されたことがある。携帯電話で親しくなった若者二人が待ち合わせの約束をする。互いに携帯電話で本人と確認し、寛げるお店に入って向き合って座る。ここまではよくある風景だ。が、その後が少々刺激的だった。彼らは互いに携帯電話を取り出し、目の前の相手はそっちのけに何やら話し始めた。その話し相手とは誰か?実は二人とも目も前にいる相手に向かって、携帯電話を通して話していたのである。
 直接、面と向かって話しかければ…と普通なら思うだろうし、そのために誘い合って今会っているはずではないか。が、彼らは初めから最後まで、「じゃあ…」と言って別れるまで一度も面と向かって話すことはなかった。

▼「そんなのはテレビのやらせではないの?パフォーマンスではないの?」とは思う。ニュースの報道はともかく(実はこれもかなり怪しい)、テレビ局が企画した報道であり、映像に登場する男女が全くの素人であり、完全なフィクションとは言えなくても、そこに演出・演技が入り込んでいることは否めない。しかし、そういう企画が成立するからには、やはり「さもありなん」という土壌があったということも事実だろう。「火のないところに煙は立たない」のである。

▼このように、一方にますます私的化するアイテムを手にして集団から離脱する傾向があったとすれば、一方にはそういう風潮を冷ややかに批判する上から目線の伝統的集団論理的マスコミ報道があったということである。そこではマスコミ報道=世論であった。
 そして、その見方を後追いするかのように日本の携帯は独自の進化を遂げた。だが、そのその進化の姿は国際化の道ではなく、日本のネット文化が2チャンネラーと称される独特のギルド的ネット文化を形成したように、携帯電話においてもガラパゴス化という独特の文化を作り上げるに至った。その先にあるのは進化の袋小路であり、未来には続かない道であった
 ところが、ますます孤立化を助長するかに見えた携帯電話が、当初は想像もしていなかった(多分、大部分の人たちは)変容を遂げ始めるのだ。それがスマートフォンの出現であった。

(2)へ続く

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