教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

第二第三の朝青龍を起こさないために

2007年08月27日 | 「大人のフリースクール」公開講座

横綱朝青龍の問題がなかなか決着がつかない。ことはもう朝青龍個人の問題ではなく、日本相撲協会のガバナンスの問題、国技や興行としての問題、伝統と国際化の問題、そして言葉や風俗や習慣・文化の問題など、彼個人の個性上の問題や一伝統スポーツの特異な性格の問題を遥かに超えて、広く国際的に注目を集めるようになっている。

今までは彼の出世があまりにも早く、伝統的な品格を身に付ける暇もなく横綱に上り詰めてしまったことの弊害や彼個人のエキセントリックな性格上の問題として語られることが多かったように思うが、今にして思えばその一つひとつが日本相撲協会の抱える問題であったということである。一方にタニマチの伝統による後援会組織や因習や古いしきたりが支配する相撲部屋組織があり、一方に外国出身の力士が横綱や大関の中心を占め、様々な国々の力士抜きには相撲を語れなくなったという現実がある。が、相撲協会の親方たちはまだ古い伝統的な感覚の中にあり、世界に開かれているというこの新しい現実にほとんど対応できていない。

問題の発端となった疲労骨折の診断が医師の誤診なのかそれとも仮病なのかは断定できないが、モンゴルで中田英寿と元気にサッカーに興じている映像が引き金となり、彼が鬱的な精神状況(「解離性障害」)になったのはまず間違いなかろう。問題はそれがどの程度のもので、どうするのがベターな方法かということである。医師は専門的な精神科医らしいが、本音の極めて内的な声を彼にとっては外国語である日本語でどこまで語ることが出来ているかである。そういう声は日本語では語れないということもある。その辺を了解せずに一般の日本人のような扱いに終始するならば、下手をすれば本当に彼を精神的な病に追い込んでしまう危険性がないわけではない。

言葉とは微妙なものである。田舎で育ち、田舎にその土地特有の方言が残っている人なら良く分かるだろうが、17才にもなって初めてであった日本語が彼の内省(内声)を語る言葉だとはどうしても思えない。彼が自分の本当の思いを言葉にするためには彼がそこで生まれ育ったモンゴル語がどうしても必要なのだ。そしてさらに付け加えれば、その空気と風景が。だから、もし彼を精神的に立ち直らせたいと真剣に考えるならば、一日も早くモンゴルへ帰らせるべきであろう。それがベストである。

ただし、今回の朝青龍の問題は日本相撲協会にとっては問題の端緒に過ぎない。世界には相撲に似た様々な格闘技がある。そういう人たちが力士になろうとしてやってくる。風俗も文化も習慣も違う人たちである。そういう人たちが横綱や大関や幕内の力士の多くを占める。そういう中で日本の国技としてどこまで伝統的な風習や考え方を守り通せるか。横綱は中卒であった時代と同じくいつも無口でいなければならないのか。相手を負かした時「よっしゃー」とガッツポーズをとってはいけないのか。日本の国技としての伝統を生かすと同時に、国際的に通用するルールやマナーを新たに作っていく必要があるのではないか

ここの問題を解決しない限り、第二、第三の朝青龍問題は生まれてくるのではないか。


埼玉県知事選挙について

2007年08月27日 | 「大人のフリースクール」公開講座

昨日(8月26日)は我が県・埼玉県の知事選挙であった。現職の上田清司知事のほか元参議院議員で共産党の吉川春子候補や元高校教諭の武田信弘氏が立候補したが、事実上現職知事の信任投票であった。土屋義彦前知事の辞任に端を発した前回知事選は投票率は35・80%で歴代埼玉知事選でワースト三位だった。今回はさらに低く、27.67%(暫定値)で過去最低となった。

参院選も終わり、夏休みでもあり、特に知事選として特筆すべき争点も明確でない出来レースの選挙であった。が、この投票率の低さは異常である。投票しないのも一つの意思表明だが、今回の場合は「投票してもしなくても何も変わらない」という投げやり的なもので、現職が再選されたからといって県民に積極的に新任されたわけではない

ただ、今回の選挙で分かったことは、政党支持者の動員だけではもはや選挙戦は戦えないということ(今回、自民支持層の9割、公明支持層の8割、民主支持層の7割が上田氏に投票したというが、せいぜいこの程度の動員である)、無党派層を主とする中間層の浮動票の動向は情勢に左右される気まぐれなものであること(無党派層は政治の流れを変えない。山が動くのは先の参議院選挙のように体制を支えている下層民までが動く時だ)、知事はNPO等の市民・民間組織の育成に意欲的な言動が目に付くが、主に行政に認可された市民活動を行っている市民団体は知事の方針に不満があるにもかかわらず動かなかった…ということなどがあげられる。

上田氏は盛んに「県民力」ということをいうが、民意に耳を傾けようという発想はあまりないように見える。民間に安い費用で丸投げしたり、行政の都合のよいように民間を使い捨てにしたり、民間が開発した手法を安易に行政に取り入れて取り繕おうとするようなやり方では(これが誤解であればあり難い)、本当の民間力は育てられないし、かえって民意をそぐ結果ともなるだろう。市民活動を行う側も、安易に行政に擦り寄ることなく、時には行政の厳しいチェック機関の役割も果たしながら、支援は受けながらも自立した活動を行っていきたいものだ。その先に埼玉県の未来があるのではないか。

上田知事には、先に「つくる会」の高橋史朗氏を県の教育委員に選んだ時に言った有名な語録がある。「教育に中立はありえない。私を知事に選んだということは私の教育方針を支持したということである」…「教育の中立性」などという誤魔化しごとは言わない。実に率直で正直である。(その正直さが時には「自衛隊は人殺しの練習をしている」などという言葉になって物議を醸すこともあるが)2期目の動向を見守りたい。


「学ぼう!算数」シリーズのできばえ 20070824

2007年08月24日 | 教育全般

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
 「知ることは共に生まれること」(ポール・クローデル)
 connaitre = con + naitre

 「学ぼう!算数」シリーズのできばえ

              小学校低学年用、中学年用、高学年用あり。
                (岡部恒時治・西村和雄編著、数研出版)
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

これは子どもの学力低下を憂える学者らが作成に参加した、「学ぼう!算数」という算数の「検定外教科書」である。「考える力がどんどん身につく」とサブタイトルの謳い文句にあるが、決して誇張ではないことは、実際にこの参考書・問題集に付き合ってみればよく分かる。意味もなく褒めるのは嫌いだが、本書に関しては抵抗なく薦められる。というよりは、小学生のいろいろな参考書や問題集を見てきて、それぞれの謳い文句とは裏腹に帯に短したすきに長し的なものがほとんどであった。教科書づくりは一見簡単そうで実は難しいのだろうが、この本はそこを見事にクリアーしている。

最初から余談と言うのも何だが、この本の監修者の一人・西村和雄氏は『分数ができない大学生』というタイトルの本で注目を集めた。大学生の10人のうち2人は小学生の算数ができないのだとか。氏は徹底した学力調査を行い、現在の教育の問題点を明らかにし、改善策を提言していた。本書はいわばその一つの解答書と言えるかもしれない。

市販のいろいろな問題集や塾関連の問題集などを検討してみると分かることだが、問題の組み方や難易度の違いはあっても、みな似たり寄ったりなのだ。ほとんどは教科書に準拠しているか入試問題の解き方に照準を合わせている。それが間違っているとは必ずしも思わないが、「算数・数学は得意だけれども嫌い」という日本人の数学への傾向をかえって助長するようなところさえある。これは文科省のカリキュラムそのものにも問題があるのだが、つまりは「学校で必要とされるからやっている」のであって、好きだからやっているのではない。だから、算数・数学の問題はそつなく処理するけれども、数学的思考は一向に育たない、という現象が生じている。

その最たる原因は何か? その一つは日本の学校の教科書の作り方にあると思っている。「いいか、ここは次のテストで出るから、よーく覚えておけよ」という学校の教師の言葉に代表されるように、生徒一人ひとりに無償で配られるあの教科書という代物は、生徒のためにあるものではない。生徒に教える教師のためにあるのである。だから、教師の目線には合っていても、必ずしも生徒の目線には合っていない。そこで用いられている用語や説明にしても、教師には自明のことであっても生徒には分かっていないことが意外に多いのである。だから、大部分の生徒は教科書を使って自分でじっくり考えて理解することは出来ず、教師の解説を聞いてはじめて理解するのである。

だが、このことが学校の教師の中でも余り問題にはされていない。なぜなら、大部分の教師は学校では自分が主役だと思っているし、学校では教師=教える人、生徒=教わる人という関係が自明のものだと思っている。そしてさらに、彼らは自分の得意分野を教える教師になっているからである。苦手な教科の教師になっているという学校の先生はまずいないのではないか。しかし、数学が必ずしも得意ではなかった元生徒が数学を教える立場になってみると、そこのところがよく見えてくる。数学の得意な子やそれが専門の教師は問題なく理解するのかもしれないが、それらの生徒は分からぬまま放置されている。何が分からないか? それは問題の解き方が分からないとともに数学をすることの意味や面白さが分からないのである。それは教材が早さや技能を競わせるようには出来ていても、そのようには出来ていないからである。とにかくついてくればよい…そう要求しているだけである。

ところが、この教材は違う。まず作業の早さや技能を競わせるようには出来ていない。目的はそこにはない。だから、全ての解説文や練習問題や例題には懇切丁寧な解き方が出ていて、それが本書の特色の一つともなっている。機械的に素早く解く作業が重要なのではない。だから、そこに頭を使う必要は一切ない。では、何が重要か? それは本書のサブタイトルに「考える力がどんどん身につく」とあるように数学的思考力を働かせることである。でも、本当のところ本書を見ているだけではこの教材の良さは分からない。そこには何の変哲もない問題と丁寧な解説があるだけである。だが、自分も一人の生徒の立場になってこの教材をたどってみて欲しい。単純作業に思考を中断されない分、数学的な考え方に集中できるのである。そうやってこの本を進めていくと、この本が何と数学的イマジネーションを刺激することかがよく分かってくる。

数学オリンピックに挑戦する青少年を指導している栗田哲也さんという人が『数学に感動する頭をつくる』という本の中で、数学的不思議さ、数学的感動、数学的なイメージ喚起力や構成力等の重要さを指摘していたが、小学生という今に相応しい形で、算数の不思議さ・数の多様な世界を垣間見させ、その面白さ・楽しさを本書は体感させてくれる。

蛇足になるが、最後に、本書の謳い文句を紹介しよう。 ************************************************************************* 本書の特色がもっとも顕著に表れているのは,「比の値」を早い段階から取り上げていることです。これらは,中学校,高等学校の数学・理科の理解には欠かせないものですが,「比の値」は現行の学習指導要領から削除されてしまいました。しかし,「比の値」は「分数」とともに,実は「単位当たりの量」すなわち「速度」や「濃度」,「割合」などを理解するのに,たいへん重要な概念です。
(数研出版株式会社のサイトから) ************************************************************************* 図らずも、スクールの子どもに小6の算数では比の値を理解させることが何よりも大事だと思って指導している時にこの本と出合った。正に我が意を得たりであった。

本書は生徒の自学自習用の教材として開発され、必ずしも受験用にはつくられてはいないが、数の世界の不思議さや面白さを体感したい全ての人にお勧めしたい。本書を紐解いていけば、自然に算数・数学的な考え方が身につくと同時に、知らず知らず算数・数学が好きになっている自分を見いだすことであろう。そのためには、どの教科についても言えることだが、まずは自分の頭で考え挑戦してみること、それが好きになるための大前提であろう。学習はまずは生徒自身がするものである。日本の義務教育はこの点を忘れてしまっている。


「美しい国」とは何か

2007年08月16日 | 「大人のフリースクール」公開講座

美しい国」づくりを掲げ、「小沢をとるか私をとるか」と言って選挙に挑んだ安部内閣は国民の冷静な審判によって、見事に惨敗しましたね。国会が正常に機能しない形での問答無用の強行採決の連発も気になっていましたが、「じっちゃんの名において」と彼の掲げる「美しい国」の観念が戦前への回帰を超えてどこかカルト的な匂いがしたのもとても気になっていた

「美しい国」とは何か……残念ながら、私は彼の本を買って読んでいない。他人の書評を覗いただけである。だから、余計そのカルト的な様相が気になっていた。

一昨日、NHK総合テレビで「東京裁判」をめぐる判事達の知られざる攻防を観た。欧米の論理で日本の戦争行為を断罪しようとしたイギリスのパトリック判事に対して、インドのパール判事は毅然と異議申し立てをした。この戦争を勝者の西欧の論理で裁くことは出来ない、「全員無罪」である、と。悲惨なアジアの現実を生きた判事は曇りない眼で戦争の実態を捉えたていた。もちろん、それで日本が行った数々の残虐行為が何ら免罪される訳もない。戦争指導者達は国民によってこそ裁かれるべきだ。A級戦犯は国民を誤った無謀な戦争へ引きずり込んだ首謀者としてやはりA級戦犯として裁かれねばならない。

しかし、勝者の欧米の論理で断罪しようとする判事達に純粋に国際法的な立場から敢然と立ち向かったパール判事のその心意気の爪の垢でも飲みたい気がする。広島・長崎と数十万人が被爆されながら、すっかり洗脳されてしまって、「はい、身から出た錆でございますから」なんて言っている年老いた黄色い猿の日本人さえいるのだから。

このパール判事が「東京裁判」のあと日本の各地を見て回り、次のような言葉を残している。「この美しい国をより美しくするために、宗教によってその魂を磨きあげていただきたい。広大なる慈悲の精神、妥協なき正義の精神、何ものをも恐れざる無畏の精神、この高められた精神によって、この美しい国を守っていただきたい。どうかこの美しい国土を、二度とふたたび破壊と殺戮の悪魔の手にゆだねないでいただきたい。"戦争によって、または武装することによって平和を守る"という虚言に決して迷つてはならない。私が日本を去るに際してみなさんに熱願するのは、ただこの一事である。」(「パール判事・中島岳志著・白水社」)

おそらく安部晋三氏の掲げる「美しい国」のイメージには東京裁判でのこのパール判事の言動が何らかの影響を与えていたのではないかと思われる。(用語の「偶然の一致」ということも考えられるが…)しかし、憲法9条のように絶対的な平和主義を唱えたパール博士と戦前の全体主義への回帰を意図しているのではないか思われる安部晋三氏とでは、国や生き方のベクトルについて雲泥の差がある。

ところがである。NHKの番組に触発されたのか、その安部氏が21日からのインド訪問中に極東国際軍事裁判で判事を務めた故パール氏の長男と会談することになったという。「パール判事は日本とゆかりのある方だ。お父さまの話をうかがえることを楽しみにしている」と述べたのだとか。

ちなみに、パールの息子であるブロサント・パール氏は、東条英機をはじめとする日本の戦争指導者を美化した映画『プライド』を観て、彼の「心を傷つけ、憤らせている」と言ったとインドの新聞「インディアン・エクスプレス」は報じているという。「父が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用しようとする者への怒りは、きわめて厳しかった」という。

うーん。さて、どんなことになるか。安部氏に少しでもパール博士の切なる思いを学ぼうという姿勢があればまだ救われるのだが…。望む方が無理というものだろうか。