教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

ぱいでぃあの社会体験学習の目指すもの

2010年05月28日 | 教育全般
▼アンティーク展とミニ・コンサート
一作日の午後は、「フリースクール・ぱいでぃあ」の子ども達とさいたま新都心のスーパー・アリーナへ。25日と26日の2日間に渡って和洋合わせて210店が参加してアンティーク展が開催された。そして、5月の「ぱいでぃあの社会体験学習」をここにしたのである。(「ぱいでぃあ」ではほぼ毎月社会体験学習を行っている)(ちなみに、「アンティーク」と呼ばれるには、100年以上の歴史の風雪をくぐり抜けたものでなければならない。)
メイン会場の一角では、何とか四重奏団(ヴァイオリン・ピアノ・チェロ・フルート)によるミニ・コンサートも開かれていた。子ども達を生のコンサートに連れて行くのは普段はなかなか難しい。だから、ポピュラーなクラッシク(?)を生で聴くのならこういうところも悪くはない。
▼誰でもが楽しめる発見の場
アンティーク展というと古臭くガビくさいイメージを持つかも知れない。しかし、見方によってはとても楽しめる面白い場所なのだ。昔の調度品、書物や絵画、絵巻物、流行り物など、昔の風俗や歴史を考察するにはもってこいの場所でもある。「新資料発見!」などというものがたまにあるが、それはこういうところが舞台であったりする。
こういうイベントに目がなく、毎回欠かさず足を運ぶ人や、何か面白いものや懐かしいもの、掘り出しものなどを求めてやって来る人もいる。やはり高齢者の割合が高く、その人自身が骨董品的ということもある。しかし、若い人や子どもには逆に何もかにもが新鮮に映る場であると言えなくもない。
▼全ては自分で決めること
また、自分という人間が試される場でもある。展示品は玉石混交である。血統書や保証書など殆どない。出店するには業者としての届け出が必要だが(フリーマーケットではないので、個人は不可)、その品物が偽物か本物か、タダ同然か目が飛び出るほど高価なものか、それを客観的に保証するものはない
他人が気に入っていても、自分は全然食指が動かないこともある。他人には二束三文の価値しかないものでも、自分にとっては大枚を叩いてでも手に入れたいものもある。全ては自分の嗜好と意思と眼力で決めること。代金を払うのも自分、値切るのも自分なのだ。他人の基準はあくまでも他人の基準。それに従うも従わぬも自分次第。全ては自分の判断に掛かっている
▼自分の眼力と自己の楽しみ
「ハンマー・プライス」という番組があった。その道のプロが素人が収集している骨董品や家宝の類を判定するという番組。「いい仕事をしているねえ~」と持ち物が評価され、ガラクタだったものがお宝に化けることもあれば、数100万円もの家宝が1万円もしないガラクタに化けることもある。それと同じことがここでも起こり得る。
自分の眼力がどこまで本物か試される場でもある。ルイ・ビトンの高級品が「made in China」の偽物になってしまうこともある。もちろん、自分で気に入ったなら「これは偽物」と割り切って買うもよし(価値は必ずしも値段で決まらない)、ガラクタはガラクタとして楽しむというようなことがあってもいいのだ。
▼とても買えない高価な湯呑み
残念ながら、私には骨董の陶磁器を見抜く眼力はない。それでも、自分なりにと感じるものがなかったわけではない。ある店頭にあった大きめの湯呑み茶碗。色合いといい、多少厚手の実在感といい、何ともいい感じだ。思わずじっと眺めていた。入れ物に何か書いてる。眼鏡でよく見ると、「八十万円、人間国宝****」とある。思わず唸って、首をふった。見ると、そこの店主(たぶん)も私に合わせて首をふっている。笑ってしまった。「いいなあ」と思うが、とても手が出せない。
▼私が買ったペルーのオカリナ
実際に私が買ったのは、100円の小物数点とオカリナ。このオカリナは会場に入って間もなく、ガラクタの中に見つけたもの。でも、その時は買わないでいた。そして会場を一周りして終りの時間が近くなったとき、やはりそれが欲しいと思った。もし売れないで残っていれば買おう─そう思って行ってみると、そのオカリナは私に買われるのを待っていた。100円の小物と同じ袋に入れて持ち帰ってよく見ると、そのオカリナは南米ペルー産のもの。しかも、そのケースには「The Metropolitan Museum of Art New York」と書かれている。そのオカリナの辿った歴史を見る気がした。このような出会いも何かの縁かも知れない。でも、日本のオカリナと違って特殊な構造をしており、説明書も楽譜もない。うまく吹けるようになるかどうか自信もない。
▼教育行為とコモンセンス
アンティーク展の後は、四重奏団の演奏に耳を傾けた。目の後は耳の保養である。デジタル化された音よりは、やはり生がいい。特に優れた演奏とは言えないが、肌触りというか、質感が違う。これが本物かイミテーションかの違いであろう。
これは教育と実際のこととの違いに似ている教育とは本質的にイミテーションの行為なのだ。なすことも触れるものも、みな複製か模倣の産物である。大人が開発し意味付けたものを子どもに理解させ、伝達させようという行為である。そこに生まれ育ちでもしない限り、まず、本物に直接触れるということはない。これは批判ではなく事実の確認である。そしてそれはそれで意味のある行為だと思っている。
しかし、教育的行為の中でも、時には本物に触れさせることが必要であろう。温室栽培の野菜や草花にも、時には覆いをとって外気に触れさせることが必要なように。フレネ教育の創始者・セレスタン・フレネがよく子ども達を校外へ連れ出したように、その流れを引く「フリースクール・ぱいでぃあ」においても、それを重視している。個性的な子ども達であるからこそ尚更に、社会人としての正常なコモンセンスを身につけてもらうために
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21世紀の国際社会で日本は生き残れるか

2010年05月24日 | 絵画鑑賞
▼国際社会で存在感を失う日本人
今日(2010年5月24日)の読売新聞の「思潮2010 5月」欄の見出しに「世界から姿消す日本人」、小見出しに「リスク取らず内向きに安住」とある。
お定まりの「今の若い奴らは…」論の一つと言えなくもない。一昔前ならば「また年寄りが…」と笑って済ませたかもしれない。「心配しなくても大丈夫だから」と。だが、今は笑い飛ばせなくなっている。それは杞憂でもなんでもなく事実だからである。
▼耐性に欠け、リスクを回避する若者達
ここには「異質なものに対する耐性」を失い、「リスク」を回避する日本の若者が紹介されている。国内だけではない。新聞の見出しにあるようなことが実際に国際社会の現場で進行しているのだいう。そして、その中で日本の存在感そのものが失われつつあるのだとか。
いろいろな意味で、この紙面で紹介されているイビチャ・オシム氏の日本人論は事の本質を捉えていて示唆的である。
「言葉を変えれば、自ら判断することの回避であり、リスクを犯すことの回避であり、責任を取ることの回避でもあった」
▼国際社会で先を越され始めた日本
アジアの中で、中国や韓国の存在感が高まっている。特に隣の韓国は先端技術においても日本を凌駕しつつあるようだ。これについて私的な例で申し訳ないが、個人的にも該当する事例がある。
例えば、私の愛用しているパソコンは小型のモバイル型の韓国製のパソコンである。ネットブック型だが、画面タッチ式のタブレットとしても使える。しかも薄型の標準電池と交換電池で約10数時間駆動し、アダプターを持ち歩かなくても十分だ。しかもストレージはSSDで、とても速く軽い。そういうパソコンを日本製で探したがどこにもなかった。韓国から輸入し日本語に対応させたものしかなかったのだ。
液晶テレビやスマートフォンにしてもそうだ。完全に韓国に先を越された状態だ。まだ国内では愛好者が多いが、国際社会に出れば「技術のソニー」も肩なしだ。やがてサムスン電子は日本をも席巻するかもしれない
▼日本の功罪から学ぶ韓国の人達
余談だが、私達の仕事場に2年連続で韓国からそれぞれ10人程度の訪問者があった。一つは、韓国で将来ワールド・リーダーを目指す中学生たちの一行。もう一つは、韓国のソーシャル・ワーカーの一行であった。私達の話を聞き、そして日本という国の社会、教育制度や福祉制度、そしてその病理を調査していった。
彼らに共通しているのは「アジアの先進国」としての日本からいろいろ吸収したいという欲求と同時に、日本と同じ轍は踏みたくないという思いである。言い換えれば、日本の功罪─日本の利点と病理を学ぶということ。それは日本を凌駕するための官民あげての戦略でもある。
▼非難の矛先は自分に向けよ
話をもとに戻そう。実のところ「出口なし」の日本の状況は今に始まったことではない。「そんな話はもう聞き飽きた」とも言える。問題はその先なのだ。実際のところ「今の若い奴らは…」という非難は当たらない。「日本人」全体の問題なのだ。「立ちあげれ日本」という政党が出来たが、「立ち枯れ」とか「立ち眩み」とか言って、自嘲気味に揶揄している場合ではないのだ。他人事ではない。我々自身に解決を突き付けられた問題なのである。
▼間違いを恐れずに挑戦すること
そのためにも、我々は多少のリスクには尻込みしない若者を育てなければならない。「挑戦」する若者を応援しなければならない。マスコミをはじめ、日本の社会全体が進むべき方向を示すことが必要だ。
今、ひとりの若者が飛び立とうとしている。それまでの学校教育の中でほとんど存在を認められなかった子どもである。私どものところに来た時、彼は「勉強のポーズ」を取った。テレビでお猿さんの「反省のポーズ」は知っていたが、子どもの「勉強のポーズ」は初めてだった。小学校6年間、中学校3年間、彼は学校でそれをやって来たらしい。先生にも「お客さん」扱いをされながら。これは何の病理か?
その子がやる気を出したきっかけは、自分でも認められる場があると知ったこと、そして、間違っても上から目線で咎められないと分かったことだ。
その子は今でも言う。「間違ったって、いいんだよね」。ある意味、日本はここからやり直すしかないだろう。
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閑話休題 「ラオス・フェスティバル 2010」に参加して

2010年05月23日 | 社会
「ラオス・フェスティバル」開催の代々木公園へ
5月22日、「ラオス・フェスティバル」(LAOS FESTIVAL 2010)(主催:ラオス人民民主主義共和国大使館、東京国際学園高等部、さくら国際高等学校)のオープンセレモニーに招かれ、イベント会場となった代々木公園の特設会場まで出かけた。JR原宿駅、この駅で下車するのは久し振りである。かつて地方から集まった若者達が「竹の子族」という集団を作って、踊っていた。原宿が注目を集めるようになったのはその頃からだろう。でも、今日の目的は代々木公園のイベント会場だ。
会場はどこもかしこも屋台だらけ。しかも殆どはラオス関係者のものらしい。昼時に向けての仕込みに余念がない(後で寄るからね)。本部の受付でリボンをもらい、なぜか許可制の特設の会場に入る。
▼壇上に並んだ人々は…
開演の時間となり、特設の壇上に並ぶ人を見て、あれっと思う。秋篠宮殿下がご臨席だ(許可制の特設会場設営はこのためか?)、ついでラオス人民民主共和国のブアソーン・ブッパーヴァン首相(怖そうな威厳がある)、そして日本政府の外務省副大臣(まだ若いなあ)…、最後に東京国際学園学園長・荒井裕司氏(少し年食ったかな)。そして、通訳&司会は…どこかで見た顔だと思ったら日本人の司会者はNHKの桜井洋子アナウンサーだ。ちなみに彼女は司会進行中に何回も「撮影は止めて」と言ったが、お年を召した方は強者ですな。その後も何人もの人が堂々と写真を撮っている。中にはビデオカメラの人もいたそうな。いや、ご立派な態度です。
メインのお話はもちろんラオスの首相。ところどころに通訳を交えながら用意した原稿を読み上げる。外務省のお役人も社交辞令添えてそれなりに自己アピール(鳩山政権となり、アジア重視の政策の一環ですでに会っているらしい)。
▼ラオスの小学校建設に関わって15年
最後は、荒井裕司氏のお話。荒井氏がラオスに最初の小学校を作ってから15年。今、全部で6校を作ったとか。最初はパフォーマンスとも思えたが、その後着実に運動を継続し、国際学園に関わる生徒や父兄をも巻き込んで、今日のこのイベントにまで発展させてきた。ビジネス的な側面も見せながら陰に陽に関わってきたが、基本はエンジンとなり、陰の役者に徹することだった。人形劇に例えれば、主役は命を吹き込まれて自在に動きまわる個々の人形であり、それを操作する黒子は匠の技に心血を注ぐ。黒子が主役となって前に出てはダメなのだ。そういう演出ができるのは、ひとえに彼の才覚であり人徳であろう。やはり誰にでも出来る業ではない。ラオスに行く度に癒されると何度も語った。「癒しの国ラオス」と。ラオスも以前とは大きく変わったが、今もそれは変わらないと。
▼ラオスの民族音楽や舞踊から考えたこと
イベントの後半は様々な歌や踊りのアトラクション。タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム…この5カ国を貫通するメコン川そこを流れる音楽や舞踊にはある共通のリズムがあり旋律がある。それは欧米の音楽ともアフリカ系のそれとも大きく異なる東南アジア特有のものである
が、よく聞くとそのリズムと旋律は海を渡って沖縄・琉球の音楽に連なり、さらに日本本土に渡って日本舞踊の型や旋律となった…そう聞こえる。あの手や腕、足の動き、腰のひねり…それは日本舞踊のそれと重なる。もし、あのきらびやかなラオスの民族衣装の代わりに日本の和服を着せたなら、彼女たちはそのまま日本の舞を踊れそうであった。ラオスの古い伝統の音楽と舞踊も紹介されたが、それはむしろ中国の音楽との繋がりを感じさせた。そして、それが朝鮮の怨歌となり、日本に渡って演歌なったのではないかとも。これはあり得ることか、またまた私の錯覚か幻か。(どなたかご存知の方がいたら教えてください)
「一衣帯水」──その言葉よりも、その音楽が、その民族舞踊が、その辺の事情を何よりも雄弁に語ってくれているように私には思われた。最後に、ラオスのスーパー・スターという歌姫が登場した。細面の今様の若い女性であった。やはり心のどこかでラオス民族・国家特有の彩りを求めている私には(他の日本人の場合はどうなのだろう?)、その歌そのものを含めて、逆にありふれた取り柄のない歌手に見えてしまった。
▼日ラオス友好とラオスの進むべき道
名目上は「日ラオス外交関係樹立55周年記念事業」「ラオスフェスティバル記念小学校建設」の2日間にわたる記念イベントとなっているが、先に見たように歴史的には国家形成以前の昔から深い繋がりがあったのだろうが、実質的な日本とラオスの道は荒井裕司氏など民間の人達の地道な努力によって開かれてきた言えるかも知れない。彼もまた両国の接着剤の役割を果すことに徹し、そうすることで自らの志向を実現してきた人間のひとりである。彼は単に思いを語る人ではなく、それを実践する人であった。あるいは言葉は後から付いてきたと言えるかもしれない。
ラオスという国が、日本という国をどう評価しているのか。そこに注目したい。見習うべきところもあろうが、踏んではならない轍もあるだろう。以前、日本の大学で学ぶバングラデシュの若者が言っていた言葉を思い出す。「自分の国は、日本のように急激な上昇は望まない。伝統も文化も失わずに、ゆっくりと前進したい」と。
▼お昼の食事は屋台でビール付き
さほどの酒好きではないが、「ラオスのビールは世界一」とあらば、見逃す訳にはいかない。コップであおる。うまい!本当にうまい!濃い味だが、これは行ける。しばし椅子に腰掛け、鶏肉や豚肉など旨そうなものを漁る。マンゴーなどのフルーツも売れ筋であった。でも、さすがにドリアンには手が出せなかった。
食べ物の屋台だけでなく、幾つかの出店の人とも言葉を交わす。日本の大学生が作った小物を売る店や、信州からやって来たという活動団体などもあった。改めて荒井氏の活動の広さを知る。そんな食べあるき、屋台巡りで出会った幾つかのエピソードや発見、それはまた機会があれば、どこかでね。
※「閑話休題」と名付けたが、さて、「どこが本題?」と訊かれても困る。すべてが「落書き」とも言える。するとまた、「教育は落書きでも雑学でもない」という声も聞こえてきそう。はて、どうしたものか…。
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4コマ漫画「コボちゃん」を通して視考力を養う(2)

2010年05月20日 | 教育全般
──今求められる国語力と視考力──

▼「映像イメージ」による思考方法
ここに一冊の学習参考書がある。「旺文社 中学 総合的研究 国語」とタイトルにある。執筆陣に私立開成中学・高校の教師陣を揃え、巻頭で「なぜ国語を学ぶのか」と問い掛け、「すべて言葉の力・国語の力だ」とするとても野心的な一冊である。「中学国語の参考書もここまで来たか!」という思いだ。一つの頂点を指し示す労作であろう。
特にこの中で、絶賛したいのは、「第6章 映像イメージの読み解き方を知る」という単元。わずか46ページ程度の記述だが(全体は576ページ)、極論するならこの単元をもってこの参考書の価値が決まり、この単元があるだけでこの参考書(2800円+税)を買っても損はないだろうと思う。
世間では、「右脳思考」だとか「あっは体験」だとか、脳科学ブームに乗って印税を荒稼ぎする人が多いようだが、話半分に聞いていた方がいいことが多い。それを軽く凌駕した内容がここには詰まっている。たとえば、「あっは思考」が新たな発見などではなく新たな思考の縛りでさえあることなどが具体的に納得できる形で記されている。
▼現代社会に生きる我々に必須の学び
だが、残念なことに、先の参考書には次のような断り書きがある。「この章は普通、学校では学習しない分野なので注意してください!」何ということ! 肝心の読解力を養う単元が学校教育の国語科からはすっぽりと抜け落ちているのだ。これが日本の「国語の授業」の実態である。ちなみに、その後にはこういう言葉が続く。「この章では、さまざまな映像イメージに潜んだ深い世界を国語力で読み解く訓練をします」
実は、この参考書ではこの単元で、漫画、映画、広告、写真(芸術・報道)などの特色やその読み解き方が丁寧に扱われている。そして「『漫画』→『映画』→『広告』→『写真』と文字が少なくなり、より純粋な映像イメージになっていることに注意」「学校の学習では触れられないカテゴリーだが、現代社会に生きる我々には必須の章」ともある。
▼学校の成績で国語力を錯覚するな
「国語力の低下」「言語を使った思考力の低下」というようなことが言われていながら、その処方箋の実態はこのようなものである。効き目のない薬をいくら塗りたくったところで病気は一向に改善しないだろう。根本から病理の見立てが間違っているのだから。
不登校になって「ぱいでぃあ」にやって来た生徒に言う時がある。「教師がいなくなった国語の勉強を、その教科書でどうやって勉強するつもり?」
生徒たちはその国語の教科書で勉強すれば国語力が向上すると思っている。大いなる錯覚である。国語の教師の言う通りに勉強していれば、学校の国語のテストの点数がよくなるのは確かだろう。国語の問題はその教科書に載っている文章を使って、教師が説明したようにテストには出るのだから。が、ここで誤解しないことだ。それは学校の国語の点数が取れただけで本当の国語力がついたわけではないのだと。まさに「教科書で勉強するのではなく教科書を勉強する」実態がそこにある。
それが嘘だと思う人は、試しに他の教科書会社の同学年の文章題をやってみるといい。結果は明らかだ。授業でその文章を習わなかった生徒としての成績が出るだけである。だから、その文章の授業を受けなかった生徒たちは受けた生徒たちよりも国語力が低いかというとそんなことはない。つまり、学校の国語の成績は本来の国語力とは全く別物であるということである。
▼自由な学びとフリースクールでの学び
では、本当の国語力を上げるにはどうすればいいか。先に見たように、学校教育の中にはその処方箋はない。文科省の掲げる学習指導要領の中にはないのである(「NIEでメディアリテラシーを学ぶ」などといったように、そろそろ主役の座を失いつつある新聞を題材に──新聞の魂胆が見え見えだ──未来に繋がる情報発信力など養えるのか)。むしろ、我々フリースクールのように必ずしも学校教育法に縛られない自由な学びや発想の中にこそあると見ていいのではないか。
しかし、そのイメージとは裏腹に、日本のフリースクールは特殊な形態をしている。その大部分は学校をドロップアウトした生徒の収容の場となっており、身体的・精神的・知的な障害を持っている子どもの割合がとても高い。だから、一般の人も一様にそういうイメージを描くようだ。
また、フリースクールには「学びの学園」とか「学びのコミュニティー」などと謳っていても、実際はそこの障害者を中心とする人達のレベルに合わせた学びであって、一般のイメージとは大きく異なることがある。
もちろん、それはそれで尊重されるべきだが、世間一般で言われる基準通りの学びの場や活動の場を求めている子ども達にとっては混乱のもととなる。実際に、そういう悲劇にあって私達「ぱいでぃあ」に転校してきた子ども達が今までに何人もいる。
(3)へ続く
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4コマ漫画「コボちゃん」を通して視考力を養う(1)

2010年05月19日 | 教育全般
▼「5歳の眼差し」という問題
この前は「クレヨンしんちゃん」の話題に触れたので、今回はそれと相照らし合う関係にある人気漫画の「コボちゃん」を取り上げたい。あえて指摘しなくてもご存知だと思うが、「コボちゃん」も「しんちゃん」も共に5歳の男の子である。これは故意か偶然かという問題ではなく、必然なのだと私は解釈している。そして、それを私は勝手に「5歳の眼差し」の問題と捉えている。ただし、作者たちもそう思っているかどうかは分からない。

▼4コマ漫画の稀代の天才・植田まさし
「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井儀人さんが不慮の死を遂げたとき、「コボちゃん」の作者・植田まさしさんの哀悼の言葉に注目した。あたら若き才能の早過ぎる死を誰よりも悼んだのは、「コボちゃん」の作者植田まさしさんだったかもしれない。人は人を見抜くものだから。
「コボちゃん」の作者に対する愛好者の評価は「クレヨンしんちゃん」の作者に対するものに負けず劣らず、いやそれ以上に高いとも言える。しかも、その支持は大人から子どもまでとても幅広い。しかも、「クレヨンしんちゃん」に対するPTAのおばさんのように、あからさまに敵対する人達もいない。「四コマ漫画家の中でずば抜けて面白い」「希代の天才漫画家」という評価は決して褒め過ぎとは言えない。

▼「コボちゃん」は4コマ漫画のバイブル
見方によっては、植田まさしの「コボちゃん」は4コマ漫画のバイブルなのである。言い方がダブルが、彼を評価する人は漫画愛好家だけでなはない。もしかするとこの4コマ漫画を掲載している新聞(読売新聞朝刊)の読者の多くが「今日はどんなマンガかな?」と思って真っ先に目を通しているかもしれない。そして、もしかすると…「コボちゃん」が載っているからその新聞を取り続けているなんてことも結構あったりして…。
その意味では「コボちゃん」は誰にでも愛された漫画「サザエさん」に極めて近い。ただし、「サザエさん」とは決定的な違いもある。それは、漫画「サザエさん」は良くも悪くも──それを作者がどれだけ意識していたかどうかは分からないが──純日本的で平均的な中流家庭をイメージして作られているということだ。「コボちゃん」にも似たような家族像があるにはあるが、意図しているところは全く違う。

▼「サザエさん」の「期待される家族像」的側面
かつて、天野貞祐という人が文部大臣であったとき、「国民実践要領」という冊子を出したことがある。そして、それで有名になった言葉がある。「期待される人間像」という言葉がそれだ(彼のそういう理想を具現化したものが「獨協大学」だとされる)。もし、「期待される家族像」「理想的な家族像」というものが想起されるとすれば、それは「サザエさん」一家である
「サザエさん」が変わらないのはそのためである。人も家族も社会も、本来は時とともに変化するものだが、「サザエさん」の時間は止まっていて、登場人物や家族像の変化や風化が描かれることはない。そのことからも、これは体制擁護の、現実是認派のイデオロギーの道具と見做される側面を持っている。

▼「コボちゃん」の「5歳という原点」
「コボちゃん」には「サザエさん」と同じような家族像が描かれてはいても、そういうイデオロギー的な側面はないように見える。その家庭は理想化されてはおらず、ただ彼が育つための環境として選ばれているに過ぎない。では、「コボちゃん」という漫画は人畜無害な非政治的な他愛のない漫画かというと、どうしてどうして、決してそう断言することは出来ない。人はどのような立場にいようとも──たとえば、何の意思表明をしなくても──その存在自体において政治的たらざるを得ない生き物なのだ。そういう意味においては「コボちゃん」もまた極めて政治的党派的なのである。
しかし、主人公である5歳のコボちゃんが政治的党派的であるというのは、まさにコボちゃんが「5歳」であるということにある。この点においては、奇しくも「クレヨンしんちゃん」もまた5歳であった。そして、緩やかに見れば、「コボちゃん」にせよ「しんちゃん」にせよ、本来は人(大人)への成長物語であるはずのものだが、彼らは「5歳」という原点にとどまり、そこから動こうとはしない。何故なのか。

(2)へ続く

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あなたは「クレヨンしんちゃん」をどう読むか!?

2010年05月16日 | 社会
▼「クレヨンしんちゃん」との向き合い方
つかぬことを伺うけれども、もしあなたが子どもなら、あなたは「クレヨンしんちゃん」が好きだろうか?もしあなたが大人なら、あなたは「クレヨンしんちゃん」が好きだろうか? あるいは、もしあなたが親であるならば、あなたは我が子が「クレヨンしんちゃん」を読んでいるのをどういう気持ちで受け止めるだろうか? 微笑ましく眺めているか、目を三角にしているだろうか?
もし、あなたが子どもであって、「クレヨンしんちゃん」がどうも好きになれないとか、親から禁止されていて普段は見られない環境にあるとか、親に厳禁されているとかというような場合には、子どもが育つ環境というものをちょっと考え直した方がいいかもしれない。私はそう思っている。これは、あなたが大人の場合や、親の場合であっても、状況は同じである。
もし、「クレヨンしんちゃん」があなたの周りで飛び跳ねていなかったり、バカな悪ふざけをしていなかったり、そもそも「しんちゃん」が寄り付こうともしなかったりするようであれば、そんなあなた、あなたは自身にどこか問題はないか振り返ってみた方がいいかもしれない。
「何が問題か」だって? それは、こうである。

▼PTAから嫌われるナンセンスギャグ漫画
まず、「クレヨンしんちゃん」を軽くおさらいしてみよう。「クレヨンしんちゃん」とは、野原しんのすけといういたずら好きで小生意気な5歳の幼稚園児を主人公とする面白おかしいナンセンスなギャグ漫画である。両親をはじめ周囲の大人達もみなその騒動に巻き込まれるが、見方によっては「クレヨンしんちゃん」の登場人物達はみなその世界の住人であり、みな独特のナンセンスキャラを持っているとも言えそうだ。
一見、これは子どもの漫画のようにも見えるが元々は青年向けのギャグ漫画雑誌「漫画アクション」から生まれたものである。テレビアニメ化され人気が爆発した。主人公の破天荒な常識破りの振る舞いは真面目に子どもの教育問題を考えることをモットーとする日本PTA全国協議会等には覚えめでたくない。アンケートではいつも「子どもに読ませたくない漫画「」の筆頭にランクする。情操豊かな子育てを考えている母親たちからはすこぶる評判が悪い。極悪マンガの最右翼である。

▼5歳の幼稚園児であるということ
一方では、「クレヨンしんちゃん」はテレビ化されたこともあって、老若男女の幅白い層に愛され親しまれている。「クレヨンしんちゃん」と言えば、まず知らない人は少ないのではないか。趣味や関心が年代化し、さらに個別化している現代の日本社会では稀なほど認知度は高い。
マンガ自体は何か特別なものを訴えているわけではない。逆にそれが幅広い支持を得られるカギかもしれない。5歳の幼稚園児である「しんちゃん」は子どもらしからぬ様々なギャグを連発する。そして、彼の周りにいる余所行き顔の大人の建前を次から次へと白日の下に曝け出し、茶化し、笑い飛ばし、ギャグにしてしまう。隠された本音の一面を5歳児のまだ社会化されていない眼差しはことごとく暴露してしまうのだ

▼成長しない5歳の子ども「しんちゃん」
「しんちゃん」はマンガ「サザエさん」と同じ方式で、回を重ねても年を取らない。ハリー・ポッターのような成長物語ではない。もちろん、妹が生まれるなどある程度の変化は描かれている。しかし、依然として彼は5歳のままである。なぜ「クレヨンしんちゃん」は年を取らないのか──この点については後日詳しく論じようと思うが──それは、簡単に言うと、「クレヨンしんちゃん」には「5歳の眼差し」が不可欠だからである。

▼臼井儀人の死を悼む
残念なことに、2009年9月20日、群馬・長野の県境の荒船山で、「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井儀人さんの死が確認された。崖からの滑落事故であるらしい。まだ51歳の若さであった。これから「クレヨンしんちゃん」は佳境に入るであろうと期待していたのに、ただ悲報を悼むしかなかった。
臼井さんの死はもちろんだが、ここで「クレヨンしんちゃん」が終わらざるを得ないのはとても残念である。というのは、「クレヨンしんちゃん」は日本の漫画史上でも稀有の存在であり、大きな可能性を秘めていたと思うからである。思うに、「クレヨンしんちゃん」はマンガでありながら、マンガを超えた可能性と意義を秘めていたのである。

▼優れた教育書としての「クレヨンしんちゃん」
何を隠そう、「フリースクール・ぱいでぃあ」には「クレヨンしんちゃん」が誰でもいつでも読めるようにたくさん置いてある。できたら出版されている全巻を揃えたいと思っていた。子ども達に──特に小学生の──読んでもらいたいからである。実際、「ぱいでぃあ」の子ども達は「しんちゃん」をよく読んでくれる。嬉しいことだ。
「クレヨンしんちゃん」は「マンガであって単なるマンガではない」と言ったが、その一つの意味は、学校で傷ついた子ども達に「クレヨンしんちゃん」は優れた「癒し」の効果をもたらすからである。子ども達が、誰に命令されることもなく、好んで「クレヨンしんちゃん」を読むということは、子どもが自ら癒しの活動に参加するのと同じだと思っている。「クレヨンしんちゃん」を読むことによって、その子は無意識の内に「しんちゃん」によって抱きしめられ癒されているのである。
子ども達が「クレヨンしんちゃん」のマンガに触発されて大きな笑い声を上げたり、微笑んだりしているとき、その子は今、大きな癒しの空間の中にいる時だ。そして、その効果は下手なカウンセリングよりもずっと大きいと私は思っている。そこには「縛られた自分、盆栽のように選定され撓められた自分」から解放され、「自由に思考し、自由に羽ばたき、自由に行動できる」ようになった子どもがいるのだ。

▼中国で愛された「クレヨンしんちゃん」
著作権法上の問題などいろいろあり、全体主義国家とも言えるお隣の擬似社会主義国の中国で、不思議なことに「クレヨンしんちゃん」が広く見られ、愛されている事実を知っているだろうか。過激な描写にはモザイクが入るなど、そこは中国人向けにアレンジされてはいるが、彼らは「クレヨンしんちゃん」をあたかも自分たちのアニメのように親しんでいるという(コピー天国らしい実態がそこにあるのは確かだが)。
これは日本のマンガやアニメが国際的に広がっていることの例証かもしれないが、作者・臼井儀人さんの悲報を知って、一番悲しがったのはもしかして彼ら中国人達かもしれない。そう思うと、どこか救われたような思いにもなる。
我々島国の住人である日本人は、極度に細分化され洗練された表現を好み、中国人特有の大陸的な大仰な振る舞いを時には「洗練されていないガサツな行動」として忌み嫌うことが多い。けれども、「クレヨンしんちゃん」を国民的アイドルのように愛する態度には、確かに中国には小皇帝の問題などあの国特有の問題はあるものの、まだ日本ほどには「社会的病理」が進行していない側面を見る思いがする

※それはなぜか──それはまた、機会を改めて記してみたいと思う。

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教科書の電子化で日本の教育が変わる!?

2010年05月15日 | 教育全般

教科書の電子化で日本の教育が変わる!?

▼電子辞書の普及と現代社会
 日本で電子辞書が普及し始めたのはいつからだったでしょう。私が子どもの頃は<岩波の「広辞苑」を枕にして寝る>なんて自慢していたものですが、この頃はすっかり電子辞書化して、あの分厚い辞書をほとんど見なくなりましたね。その代わり、かつて「辞書は読むもの」と言われてきましたが──その延長に「明解」さんもあったように思う──、今、辞書は完全に調べる物になりました。でも、その産物でしょうか、検索機能がとても充実していて重宝になりました。忙しい現代人にはピッタリかもしれません。

▼新学習指導要領で分厚くなる教科書
 ところで、新しい学習指導要領では「ゆとり教育」から完全に脱却して──「ゆとり教育」をどこまで徹底して実施し考察したのだろう?何かいつも中途半端で場当たり的な対応ばかりが行われている気がしてならない──削減された内容も復活し、場合によってはさらに積み上げた学習も行われるらしいですね。大人は「このままではいかん。何とかしなくちゃ」ということかもしれませんが、子どもにしてみれば「やれやれ、もっと大変になるんだあ~」というところでしょうか。その中で、一番大変なのは教科書が3割ほども分厚くなることでしょうか。子どもの側にしてみれば、毎日「広辞苑」を持ち帰りしているような感じかもしれませんね。

▼教科書を止めて電子ブックに換えたら?
 最近、「iPad」が話題ですね。アマゾンの「Kindle」と同じく電子書籍が読める端末ということで。日本での発売には行列もできたとか。これ、学校で使うのに良くないですか?新学習要領の改訂に合わせて教科書を持ち歩くのを止めて、いっそのこと全部キンドルかiPadのような電子ブックに替えてしまってはどうでしょうね。今後は何も重たく分厚い教科書を持ち歩くことはないんです。義務教育で教科書が無償配布ならば、その教科書を電子ブックに替えればいいだけのことですから。

▼教育界には一大事業仕分けが必要
 これって、教育界の大きな事業仕分けですよね。学校と家との往復には、重たい教科書を持ち歩く代わりに電子ブック一冊を持っていればいいんです。これを生徒全員に無償配布するか貸与するんです(宿題もノートも全部この中かSDカードの中です)。そして、卒業時には返却してもらうか安い値段で買い取ってもらうことにします。会社でやっているリースみたいなものですね。
 これでは教科書会社が悲鳴をあげるですって?それは時代の変化でやむを得ないですね。ランプから白熱電灯に代わり、さらに蛍光灯にかわり、さらにまたLEDに代わったように。いつまでもコバンザメ商法の言いなりになっている方がおかしいのです。他のもっと発展した道を考えてくださいと言うしかないですね。
 それよりも注目すべきは、これによって教育界に一大変革がもたらされる知れないってことです。学校教育のあり方そのものが大きく変わるかもしれないということです。

▼「教える教育から考えさせる学習へ」
 その一つは、教材は自分だけのもではなくなるということ。教科書にもうイタズラ書きは出来ないんです(もう、教科書そのものがないですね)。そして、生徒の勉強は教科書だけの学習に限定されなくてもよくなるということです。教科書に書かれていることだけが学習する全てではなくなるということです。必要なら他の出版社の内容を参照することもできるようにもなります。興味の旺盛な子は、学年単位に縛られることなくどんどん勉強してもいいんです。
 そして、教員側の変化も顕著です。学校での教育は「教科書を覚えさせる勉強から生徒に考えさせる勉強へ」と大きくかわることになります。もちろん、教員の役割も変わります。学習内容を上から強制し覚えこませる指導から、生徒の伴走者として関わり、生徒の学習の援助者として関わるようになります。そういう教員側のメリットとしては、もう「何でも知っている先生」を演じなくてもよくなることです。生徒と一緒に考える存在になればいいんです。あっ、でも、こういう風に生徒の考えをうまく引き出したり、コーディネートしたりする役割の方が先生には大変だったりして。
 いずれにしても、先生には「ゆとり」ではなく今まで以上に自己研鑽に励んでもらわなくてはなりませんね。先生は親に教育を委託されているプロなんですから。それで生計を立てているわけなんですから。

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ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)

2010年05月11日 | 教育全般

ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)

▼学校的時間と空間
 一方的に批判するのは私の趣味ではないが、「学校というところでは、どんな時間が流れているのかなあ」ということがとても気になる。私も消費期限や賞味期限のある話をしたつもりはないけれども、10年前に話したことを、今炊き上がったご飯や年代物の極上のワインのように話すことには抵抗がないわけではない。いや、これは話し手の問題ではなく聞く側により問題があるのだろう。その人たちは多分、話し手の地位や権威まで調味料に加えて美味しくいただくのだろうから。
 でも、万人に受けるどんなに素敵な話をされても、あるいは逆に極めて個性的な話をされても、あるいはまた心血を注いだ訓話を語ったとしても、「とっても結構なお味でございましたわ」的なまとめ方をされるならば、そこには保守もなければ革新もない、ただ「別に、どうってことも…」という事なかれ的な時間が流れ続けるだけであろう。おそらく学校というところもそういう時間の流れているところなのだろう。だから、10年前も今も大して変わりもなければ、変換可能なくらいなのだ。
 だから、その空間に「ノー」と言って飛び出して行った生徒や死を賭するほど悩みに悩む生徒がいるなどということは、「何かの間違い」で我が子が不登校にでもならない限り(不謹慎な言い方でゴメンなさい)、到底思い浮かぶ事柄ではないのだと思う。

▼「遊びの教育学」と「オリジナル」ということ
 「ところで、いったいお前は何を話したんだ?」と聞かれそうである。そう、肝心のことをみなさんにお話するのを忘れていた。それは「遊びの教育学」という話である。そう聞けば、ある人は「何だ、そんなことか」と思ったかも知れない。
 10年前と違って、今では幼児教育の園長さんや障害児教育の実践家だけでなく、大学で学生に教えを垂れる立場にいる方まで、本屋や図書館に行けばその実践報告や関係書物が結構目に付くようになった(10年前には、養護教育など、障害児の関わりに焦点を当てたものがほとんどだった)。中には、「遊びでIQ140」なんていうものまである。インターネットでも溢れている。「遊び」の価値がようやく復権されつつあるのかな~とも思う(それでも、まだ「教育」の本質と真正面から向き合ったものは少ない)。
 で、ちょっと興味を惹かれて覗いてみると、「あれ~、これは前に自分が言っていたことと…」というようなものもないわけではない。むしろ、市P連に書かれた教頭先生のように礼儀を尽くして連絡をくれるような方が珍しい。でも、自分は売文の徒ではないし、若い頃、「オリジナルとは…、著作権とは…」なんて愚にもつかぬことを考えたこともあるので、普通はあえて目くじらを立てるような野暮なことはしない。

▼「コロンブスの卵」と神話
 そう、いつもそうなのだ。「コロンブスの卵」と同じことである。彼はみんなと反対に西へ西へと向かい、アメリカ(西インド諸島)を発見した。「西へ西へ?そんなら俺でもできた」と人々は言ったそうな。そこで、「では、これはどうだ」と言って、コロンブスは卵を見せた。「これを立ててみろ」と。誰も卵を立てられない。横に倒れてしまう。「そんなの立つわけがないじゃないか」。そこでコロンブスは「こうするんだ」と言って、卵の底を割って立ててみせた。すると「何だ、それなら俺でもできる」と人々は言ったそうな。
 みなさんも知っているお話だろう。この話と同じである。「人が歩けば道になる」と言うけれども、「道なき原野に道をつける」ことは容易ではないのである。
 (後に、この話から今度は「卵は立たない」という神話が生まれたそうな。さらには「立春の日だけ卵が立つ」と言う神話が。が、実は、季節に関係なく、卵は辛抱強くやれば立つのである。何事も実際にやってみなくちゃね)

※お後がよろしいようで(話がエンドレスになりそうです)。

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(文責:ganbarujan)


ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(1)

2010年05月10日 | 「大人のフリースクール」公開講座

▼ある市P連の会報に載った講演のお話
 もう一昨年のことになるが、県内のある市P連に関わっている方(ある中学校の教頭先生
)からご連絡をいただいた。「そちらが公民館で講演されたお話が大変良いので、ぜひ『市P連』の会報に載せる記事に使わせてただけないか」という趣旨のお話であった。
 とても誠実な丁寧な依頼であったので、快く了解の返事を差し上げた。その後、しばらく連絡
がなかったが、数ヶ月後、こちらが半ば忘れかけていた頃、丁寧な礼状とともにその講演の話が引用された市P連の会報が届いた。
 そこに、記事はその方が書いたものだが、私が以前に講演で話したようなことが簡潔に
語られていた。その方が私の話に同感し、それを多くの親御さんが手にする雑誌で使ってくれたことはやはり小さな喜びではあった。元々はどこの誰がどんな思いで誰に向けて語った話なのかというようなことは、この際、半ばどうでもいいことである。

▼10年前の話を市P連の会報に
 「しかし、…」と、ここで少し考え込んでしまう。私の話を使って下さったのは嬉しいことだ
が(講演の内容は、今でも「いきいきニコラ」のサイトに載っている)、私がそれを私が在住する市の公民館講座でお話ししたのは、実はその10年も前に遡るのである。
 つまり、ある市立の中学校で教頭をやっていらっしゃる方が、インターネットで私の話を読ん
で、この話を市P連の会報で使いたい、そして、多くの子育て中の親御さん達に是非伝えておきたいと思ったのだろう。だから、その方にとってはそれが1999年初春に話したものだなどということは問題にならないことだったのだ。賞味期限のある話をしたかった訳ではないし、不易流行ということもあるのだから。
 でも、それにしても…。10年も前に話したことですよ。その間、私どもはその理念に従って、
フリースクールを運営してきて、今があるんですよ。学校では今それを親御さん達に理解してもらおうとしている!

(2)に続く

※長くなるので、一応ここまで。続きは後日。
(字数オーバーで全文が載せられません)

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(文責:ganbarujan)

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「うつ」と「運動」による回復を実践すること

2010年05月07日 | フリースクール
■「うつ」と「運動による回復」を実践する

▼抗うつ薬以外に良い方法はないものか
人間の文明が歪な発展を遂げたからだろうか、近頃、老若男女を問わず「うつ」に悩まされている人が多い。そして、医者にかかると決まって処方されるものが抗うつ薬である。しかし、多くの人が「薬以外に良い方法はないものか」と思っているのではないか。

▼読売新聞で紹介された運動療法
5月7日の読売新聞の「医療ルネッサンス」で紹介されていた女性もその一人。千葉県柏市の「うつを運動で改善する」という広報誌の記事に飛びついた。プログラムは千葉大予防医学センターと東大生涯スポーツ健康科学研究センターの共同研究とか。毎週水曜日、自転車こぎなど筋トレよりストレッチに近い運動を行った。結果、半年後には「問題なし」までになったという。
運動には、脳を刺激し、沈んだ気分を持ち上げ、意欲を呼ぶ可能性がある」という精神科医(千葉大教授・清水栄司さん)のコメントも紹介している。<軽い運動でも効果が期待できる>らしい。英国ではうつ病の治療に軽症者には運動やカウンセリングなどを勧めているとも紹介されている。

▼「ぱいでぃあ」での身体活動の実践
手前味噌になるが、フリースクール・ぱいでぃあでは、設立の当初から不登校生への運動の効用に着目していた。それ以前の教育雑誌『ニコラ』の時からの不登校生に対する考察の成果でもある。
だから、勉学とは別に(勉学も不登校生の自分づくりに欠かせないが)、運動のできる環境を重視した。たくさんのフリースクールの中で、2面のテニスコートやサッカーコートの他、幾つもの広い運動場をいつでも自由に使えるところはほとんどないのではないか。カリキュラムの中にも週3回、午後の時間をたっぷり取ってある。


▼運動を通じて立ち直りをはかる試み
医学的な見地からは、徹底的に検証をした結果が明らかにならねば軽々しくこうだとは言えないのだろう。しかし、長年不登校生達に専門的に接している中で、運動が効果的であることは感覚的に理解できたことである。
抗うつ薬が離せない状態の不登校生たちもいる。だからと言って、薬で気分を高揚させ、今度は上げすぎたと言って別の薬で抑えたりと、薬のさじ加減でバランスをとればいいというものでもあるまい。ある雑誌記者が「薬で治ったという人を俺は知らない」と言っていたのが印象的だ。ところが、今の薬物療法においても──どうも学校の先生からの要望もあるらしい──その子の立ち直りを支援するというよりは、とにかくみんなに合わせてくれればそれでいい、というような発想がないわけではない。薬に対する過信があるのかも知れない。
だから、そこにこういうような医学的な見地からの有用な情報が一般に知らされることの意味は大きい。

▼「ぱいでぃあ活動」の運動に関するもの
実際、うつっぽい傾向のある子だけでなく一般に不登校と言われる子どもたちにも、この運動を通じた身体の活性化がいかに効果的であるか、それは今までの経験からももはや論を待たない。よくエステの広告に「使用前・使用後」というのがよくあるが、運動をする前の子どもと運動をした後での同じ子どもを比較検討してみるとよく分かる。その子の内発的な活性度がまるで違うのだ。
もちろん、学校の部活のような特殊な指導はしないし、勝ち抜くことが目的ではなく、自分づくりが目的である。だから、運動の得手・不得手は問題ではない。まずは身体を動かすことが楽しみであり喜びであること、そして遊びの延長のように自由な活動がそのまま自立的な学びへと繋がっていること、それがぱいでぃあでの活動(「ぱいでぃあ活動」と呼んでいる)である。

▼勉強だけでなく運動を重視するフリースクール
フリースクール・ぱいでぃあは「勉強を重視するフリースクール」ということで通っているかもしれない。ホームページでもそんな雰囲気が強いかもしれない。確かに、「勉強を重視するフリースクール」というのが、その一つの特色ではある。
しかし、それ以前に、それ以上に重視しているのはこの運動を含むぱいでぃあ活動である。もし、学校を離れたことで集団との交わりを断ち、一人閉じこもり気味の生活を続けているのであれば、その先にあるのは「引きこもり」という極めて危ない境遇である。もし、真剣にそういう状態から脱したいのであれば、まずはこういう活動に参加することから初めてはどうだろうか。

▼自分と真正に向き合いCHANGEすること
「ぱいでぃあ」は受験進学塾のようなところでは全くないが──ではないからこそか──県内のトップの高校に進学して燃え尽きてしまったような子どもたちから、学校生活の中で全く自分を失い、自己卑下の塊のようになった子どもたち(結果として、学業が滅茶苦茶になっていることも多い)まで、その傷ついた羽を休めにやってくる
そういう子どもたちにとって自分を「CHANGE]する最も効果的な方法は、一旦はそういう自分に被せられた既製の服を脱ぎ捨てることであろう。そして、今一度、真正に自分と真正面から向き合うことであろう。まずそのことに運動を通してチャレンジしたい。もし、それを実行するならば、そこにはきっと予期せぬ望外の展望が開けているはずである。


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