この前は「クレヨンしんちゃん」の話題に触れたので、今回はそれと相照らし合う関係にある人気漫画の「コボちゃん」を取り上げたい。あえて指摘しなくてもご存知だと思うが、「コボちゃん」も「しんちゃん」も共に5歳の男の子である。これは故意か偶然かという問題ではなく、必然なのだと私は解釈している。そして、それを私は勝手に「5歳の眼差し」の問題と捉えている。ただし、作者たちもそう思っているかどうかは分からない。
▼4コマ漫画の稀代の天才・植田まさし
「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井儀人さんが不慮の死を遂げたとき、「コボちゃん」の作者・植田まさしさんの哀悼の言葉に注目した。あたら若き才能の早過ぎる死を誰よりも悼んだのは、「コボちゃん」の作者植田まさしさんだったかもしれない。人は人を見抜くものだから。
「コボちゃん」の作者に対する愛好者の評価は「クレヨンしんちゃん」の作者に対するものに負けず劣らず、いやそれ以上に高いとも言える。しかも、その支持は大人から子どもまでとても幅広い。しかも、「クレヨンしんちゃん」に対するPTAのおばさんのように、あからさまに敵対する人達もいない。「四コマ漫画家の中でずば抜けて面白い」「希代の天才漫画家」という評価は決して褒め過ぎとは言えない。
▼「コボちゃん」は4コマ漫画のバイブル
見方によっては、植田まさしの「コボちゃん」は4コマ漫画のバイブルなのである。言い方がダブルが、彼を評価する人は漫画愛好家だけでなはない。もしかするとこの4コマ漫画を掲載している新聞(読売新聞朝刊)の読者の多くが「今日はどんなマンガかな?」と思って真っ先に目を通しているかもしれない。そして、もしかすると…「コボちゃん」が載っているからその新聞を取り続けているなんてことも結構あったりして…。
その意味では「コボちゃん」は誰にでも愛された漫画「サザエさん」に極めて近い。ただし、「サザエさん」とは決定的な違いもある。それは、漫画「サザエさん」は良くも悪くも──それを作者がどれだけ意識していたかどうかは分からないが──純日本的で平均的な中流家庭をイメージして作られているということだ。「コボちゃん」にも似たような家族像があるにはあるが、意図しているところは全く違う。
▼「サザエさん」の「期待される家族像」的側面
かつて、天野貞祐という人が文部大臣であったとき、「国民実践要領」という冊子を出したことがある。そして、それで有名になった言葉がある。「期待される人間像」という言葉がそれだ(彼のそういう理想を具現化したものが「獨協大学」だとされる)。もし、「期待される家族像」「理想的な家族像」というものが想起されるとすれば、それは「サザエさん」一家である。
「サザエさん」が変わらないのはそのためである。人も家族も社会も、本来は時とともに変化するものだが、「サザエさん」の時間は止まっていて、登場人物や家族像の変化や風化が描かれることはない。そのことからも、これは体制擁護の、現実是認派のイデオロギーの道具と見做される側面を持っている。
▼「コボちゃん」の「5歳という原点」
「コボちゃん」には「サザエさん」と同じような家族像が描かれてはいても、そういうイデオロギー的な側面はないように見える。その家庭は理想化されてはおらず、ただ彼が育つための環境として選ばれているに過ぎない。では、「コボちゃん」という漫画は人畜無害な非政治的な他愛のない漫画かというと、どうしてどうして、決してそう断言することは出来ない。人はどのような立場にいようとも──たとえば、何の意思表明をしなくても──その存在自体において政治的たらざるを得ない生き物なのだ。そういう意味においては「コボちゃん」もまた極めて政治的党派的なのである。
しかし、主人公である5歳のコボちゃんが政治的党派的であるというのは、まさにコボちゃんが「5歳」であるということにある。この点においては、奇しくも「クレヨンしんちゃん」もまた5歳であった。そして、緩やかに見れば、「コボちゃん」にせよ「しんちゃん」にせよ、本来は人(大人)への成長物語であるはずのものだが、彼らは「5歳」という原点にとどまり、そこから動こうとはしない。何故なのか。
(2)へ続く
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教科書の電子化で日本の教育が変わる!?
▼電子辞書の普及と現代社会
日本で電子辞書が普及し始めたのはいつからだったでしょう。私が子どもの頃は<岩波の「広辞苑」を枕にして寝る>なんて自慢していたものですが、この頃はすっかり電子辞書化して、あの分厚い辞書をほとんど見なくなりましたね。その代わり、かつて「辞書は読むもの」と言われてきましたが──その延長に「明解」さんもあったように思う──、今、辞書は完全に調べる物になりました。でも、その産物でしょうか、検索機能がとても充実していて重宝になりました。忙しい現代人にはピッタリかもしれません。
▼新学習指導要領で分厚くなる教科書
ところで、新しい学習指導要領では「ゆとり教育」から完全に脱却して──「ゆとり教育」をどこまで徹底して実施し考察したのだろう?何かいつも中途半端で場当たり的な対応ばかりが行われている気がしてならない──削減された内容も復活し、場合によってはさらに積み上げた学習も行われるらしいですね。大人は「このままではいかん。何とかしなくちゃ」ということかもしれませんが、子どもにしてみれば「やれやれ、もっと大変になるんだあ~」というところでしょうか。その中で、一番大変なのは教科書が3割ほども分厚くなることでしょうか。子どもの側にしてみれば、毎日「広辞苑」を持ち帰りしているような感じかもしれませんね。
▼教科書を止めて電子ブックに換えたら?
最近、「iPad」が話題ですね。アマゾンの「Kindle」と同じく電子書籍が読める端末ということで。日本での発売には行列もできたとか。これ、学校で使うのに良くないですか?新学習要領の改訂に合わせて教科書を持ち歩くのを止めて、いっそのこと全部キンドルかiPadのような電子ブックに替えてしまってはどうでしょうね。今後は何も重たく分厚い教科書を持ち歩くことはないんです。義務教育で教科書が無償配布ならば、その教科書を電子ブックに替えればいいだけのことですから。
▼教育界には一大事業仕分けが必要
これって、教育界の大きな事業仕分けですよね。学校と家との往復には、重たい教科書を持ち歩く代わりに電子ブック一冊を持っていればいいんです。これを生徒全員に無償配布するか貸与するんです(宿題もノートも全部この中かSDカードの中です)。そして、卒業時には返却してもらうか安い値段で買い取ってもらうことにします。会社でやっているリースみたいなものですね。
これでは教科書会社が悲鳴をあげるですって?それは時代の変化でやむを得ないですね。ランプから白熱電灯に代わり、さらに蛍光灯にかわり、さらにまたLEDに代わったように。いつまでもコバンザメ商法の言いなりになっている方がおかしいのです。他のもっと発展した道を考えてくださいと言うしかないですね。
それよりも注目すべきは、これによって教育界に一大変革がもたらされる知れないってことです。学校教育のあり方そのものが大きく変わるかもしれないということです。
▼「教える教育から考えさせる学習へ」
その一つは、教材は自分だけのもではなくなるということ。教科書にもうイタズラ書きは出来ないんです(もう、教科書そのものがないですね)。そして、生徒の勉強は教科書だけの学習に限定されなくてもよくなるということです。教科書に書かれていることだけが学習する全てではなくなるということです。必要なら他の出版社の内容を参照することもできるようにもなります。興味の旺盛な子は、学年単位に縛られることなくどんどん勉強してもいいんです。
そして、教員側の変化も顕著です。学校での教育は「教科書を覚えさせる勉強から生徒に考えさせる勉強へ」と大きくかわることになります。もちろん、教員の役割も変わります。学習内容を上から強制し覚えこませる指導から、生徒の伴走者として関わり、生徒の学習の援助者として関わるようになります。そういう教員側のメリットとしては、もう「何でも知っている先生」を演じなくてもよくなることです。生徒と一緒に考える存在になればいいんです。あっ、でも、こういう風に生徒の考えをうまく引き出したり、コーディネートしたりする役割の方が先生には大変だったりして。
いずれにしても、先生には「ゆとり」ではなく今まで以上に自己研鑽に励んでもらわなくてはなりませんね。先生は親に教育を委託されているプロなんですから。それで生計を立てているわけなんですから。
ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)
▼学校的時間と空間
一方的に批判するのは私の趣味ではないが、「学校というところでは、どんな時間が流れているのかなあ」ということがとても気になる。私も消費期限や賞味期限のある話をしたつもりはないけれども、10年前に話したことを、今炊き上がったご飯や年代物の極上のワインのように話すことには抵抗がないわけではない。いや、これは話し手の問題ではなく聞く側により問題があるのだろう。その人たちは多分、話し手の地位や権威まで調味料に加えて美味しくいただくのだろうから。
でも、万人に受けるどんなに素敵な話をされても、あるいは逆に極めて個性的な話をされても、あるいはまた心血を注いだ訓話を語ったとしても、「とっても結構なお味でございましたわ」的なまとめ方をされるならば、そこには保守もなければ革新もない、ただ「別に、どうってことも…」という事なかれ的な時間が流れ続けるだけであろう。おそらく学校というところもそういう時間の流れているところなのだろう。だから、10年前も今も大して変わりもなければ、変換可能なくらいなのだ。
だから、その空間に「ノー」と言って飛び出して行った生徒や死を賭するほど悩みに悩む生徒がいるなどということは、「何かの間違い」で我が子が不登校にでもならない限り(不謹慎な言い方でゴメンなさい)、到底思い浮かぶ事柄ではないのだと思う。
▼「遊びの教育学」と「オリジナル」ということ
「ところで、いったいお前は何を話したんだ?」と聞かれそうである。そう、肝心のことをみなさんにお話するのを忘れていた。それは「遊びの教育学」という話である。そう聞けば、ある人は「何だ、そんなことか」と思ったかも知れない。
10年前と違って、今では幼児教育の園長さんや障害児教育の実践家だけでなく、大学で学生に教えを垂れる立場にいる方まで、本屋や図書館に行けばその実践報告や関係書物が結構目に付くようになった(10年前には、養護教育など、障害児の関わりに焦点を当てたものがほとんどだった)。中には、「遊びでIQ140」なんていうものまである。インターネットでも溢れている。「遊び」の価値がようやく復権されつつあるのかな~とも思う(それでも、まだ「教育」の本質と真正面から向き合ったものは少ない)。
で、ちょっと興味を惹かれて覗いてみると、「あれ~、これは前に自分が言っていたことと…」というようなものもないわけではない。むしろ、市P連に書かれた教頭先生のように礼儀を尽くして連絡をくれるような方が珍しい。でも、自分は売文の徒ではないし、若い頃、「オリジナルとは…、著作権とは…」なんて愚にもつかぬことを考えたこともあるので、普通はあえて目くじらを立てるような野暮なことはしない。
▼「コロンブスの卵」と神話
そう、いつもそうなのだ。「コロンブスの卵」と同じことである。彼はみんなと反対に西へ西へと向かい、アメリカ(西インド諸島)を発見した。「西へ西へ?そんなら俺でもできた」と人々は言ったそうな。そこで、「では、これはどうだ」と言って、コロンブスは卵を見せた。「これを立ててみろ」と。誰も卵を立てられない。横に倒れてしまう。「そんなの立つわけがないじゃないか」。そこでコロンブスは「こうするんだ」と言って、卵の底を割って立ててみせた。すると「何だ、それなら俺でもできる」と人々は言ったそうな。
みなさんも知っているお話だろう。この話と同じである。「人が歩けば道になる」と言うけれども、「道なき原野に道をつける」ことは容易ではないのである。
(後に、この話から今度は「卵は立たない」という神話が生まれたそうな。さらには「立春の日だけ卵が立つ」と言う神話が。が、実は、季節に関係なく、卵は辛抱強くやれば立つのである。何事も実際にやってみなくちゃね)
※お後がよろしいようで(話がエンドレスになりそうです)。
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(文責:ganbarujan)
▼ある市P連の会報に載った講演のお話
もう一昨年のことになるが、県内のある市P連に関わっている方(ある中学校の教頭先生)からご連絡をいただいた。「そちらが公民館で講演されたお話が大変良いので、ぜひ『市P連』の会報に載せる記事に使わせてただけないか」という趣旨のお話であった。
とても誠実な丁寧な依頼であったので、快く了解の返事を差し上げた。その後、しばらく連絡がなかったが、数ヶ月後、こちらが半ば忘れかけていた頃、丁寧な礼状とともにその講演の話が引用された市P連の会報が届いた。
そこに、記事はその方が書いたものだが、私が以前に講演で話したようなことが簡潔に語られていた。その方が私の話に同感し、それを多くの親御さんが手にする雑誌で使ってくれたことはやはり小さな喜びではあった。元々はどこの誰がどんな思いで誰に向けて語った話なのかというようなことは、この際、半ばどうでもいいことである。
▼10年前の話を市P連の会報に
「しかし、…」と、ここで少し考え込んでしまう。私の話を使って下さったのは嬉しいことだが(講演の内容は、今でも「いきいきニコラ」のサイトに載っている)、私がそれを私が在住する市の公民館講座でお話ししたのは、実はその10年も前に遡るのである。
つまり、ある市立の中学校で教頭をやっていらっしゃる方が、インターネットで私の話を読んで、この話を市P連の会報で使いたい、そして、多くの子育て中の親御さん達に是非伝えておきたいと思ったのだろう。だから、その方にとってはそれが1999年初春に話したものだなどということは問題にならないことだったのだ。賞味期限のある話をしたかった訳ではないし、不易流行ということもあるのだから。
でも、それにしても…。10年も前に話したことですよ。その間、私どもはその理念に従って、フリースクールを運営してきて、今があるんですよ。学校では今それを親御さん達に理解してもらおうとしている!
(2)に続く
※長くなるので、一応ここまで。続きは後日。
(字数オーバーで全文が載せられません)
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(文責:ganbarujan)
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▼抗うつ薬以外に良い方法はないものか
人間の文明が歪な発展を遂げたからだろうか、近頃、老若男女を問わず「うつ」に悩まされている人が多い。そして、医者にかかると決まって処方されるものが抗うつ薬である。しかし、多くの人が「薬以外に良い方法はないものか」と思っているのではないか。
▼読売新聞で紹介された運動療法
5月7日の読売新聞の「医療ルネッサンス」で紹介されていた女性もその一人。千葉県柏市の「うつを運動で改善する」という広報誌の記事に飛びついた。プログラムは千葉大予防医学センターと東大生涯スポーツ健康科学研究センターの共同研究とか。毎週水曜日、自転車こぎなど筋トレよりストレッチに近い運動を行った。結果、半年後には「問題なし」までになったという。
「運動には、脳を刺激し、沈んだ気分を持ち上げ、意欲を呼ぶ可能性がある」という精神科医(千葉大教授・清水栄司さん)のコメントも紹介している。<軽い運動でも効果が期待できる>らしい。英国ではうつ病の治療に軽症者には運動やカウンセリングなどを勧めているとも紹介されている。
▼「ぱいでぃあ」での身体活動の実践
手前味噌になるが、フリースクール・ぱいでぃあでは、設立の当初から不登校生への運動の効用に着目していた。それ以前の教育雑誌『ニコラ』の時からの不登校生に対する考察の成果でもある。
だから、勉学とは別に(勉学も不登校生の自分づくりに欠かせないが)、運動のできる環境を重視した。たくさんのフリースクールの中で、2面のテニスコートやサッカーコートの他、幾つもの広い運動場をいつでも自由に使えるところはほとんどないのではないか。カリキュラムの中にも週3回、午後の時間をたっぷり取ってある。
▼運動を通じて立ち直りをはかる試み
医学的な見地からは、徹底的に検証をした結果が明らかにならねば軽々しくこうだとは言えないのだろう。しかし、長年不登校生達に専門的に接している中で、運動が効果的であることは感覚的に理解できたことである。
抗うつ薬が離せない状態の不登校生たちもいる。だからと言って、薬で気分を高揚させ、今度は上げすぎたと言って別の薬で抑えたりと、薬のさじ加減でバランスをとればいいというものでもあるまい。ある雑誌記者が「薬で治ったという人を俺は知らない」と言っていたのが印象的だ。ところが、今の薬物療法においても──どうも学校の先生からの要望もあるらしい──その子の立ち直りを支援するというよりは、とにかくみんなに合わせてくれればそれでいい、というような発想がないわけではない。薬に対する過信があるのかも知れない。
だから、そこにこういうような医学的な見地からの有用な情報が一般に知らされることの意味は大きい。
▼「ぱいでぃあ活動」の運動に関するもの
実際、うつっぽい傾向のある子だけでなく一般に不登校と言われる子どもたちにも、この運動を通じた身体の活性化がいかに効果的であるか、それは今までの経験からももはや論を待たない。よくエステの広告に「使用前・使用後」というのがよくあるが、運動をする前の子どもと運動をした後での同じ子どもを比較検討してみるとよく分かる。その子の内発的な活性度がまるで違うのだ。
もちろん、学校の部活のような特殊な指導はしないし、勝ち抜くことが目的ではなく、自分づくりが目的である。だから、運動の得手・不得手は問題ではない。まずは身体を動かすことが楽しみであり喜びであること、そして遊びの延長のように自由な活動がそのまま自立的な学びへと繋がっていること、それがぱいでぃあでの活動(「ぱいでぃあ活動」と呼んでいる)である。
▼勉強だけでなく運動を重視するフリースクール
フリースクール・ぱいでぃあは「勉強を重視するフリースクール」ということで通っているかもしれない。ホームページでもそんな雰囲気が強いかもしれない。確かに、「勉強を重視するフリースクール」というのが、その一つの特色ではある。
しかし、それ以前に、それ以上に重視しているのはこの運動を含むぱいでぃあ活動である。もし、学校を離れたことで集団との交わりを断ち、一人閉じこもり気味の生活を続けているのであれば、その先にあるのは「引きこもり」という極めて危ない境遇である。もし、真剣にそういう状態から脱したいのであれば、まずはこういう活動に参加することから初めてはどうだろうか。
▼自分と真正に向き合いCHANGEすること
「ぱいでぃあ」は受験進学塾のようなところでは全くないが──ではないからこそか──県内のトップの高校に進学して燃え尽きてしまったような子どもたちから、学校生活の中で全く自分を失い、自己卑下の塊のようになった子どもたち(結果として、学業が滅茶苦茶になっていることも多い)まで、その傷ついた羽を休めにやってくる。
そういう子どもたちにとって自分を「CHANGE]する最も効果的な方法は、一旦はそういう自分に被せられた既製の服を脱ぎ捨てることであろう。そして、今一度、真正に自分と真正面から向き合うことであろう。まずそのことに運動を通してチャレンジしたい。もし、それを実行するならば、そこにはきっと予期せぬ望外の展望が開けているはずである。
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