教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

戦いの中で学び、変わった日本代表の選手たち─W杯デンマーク戦から

2010年06月27日 | スポーツ

【サッカーW杯】苦境越え心一つに 新たな伝説の始まり(産経新聞) - goo ニュース

  歓喜する;岡田武史監督

▼「言うは易く行うは難し」を実行
 サッカーの日本代表がオランダに負けたとき、オシム前監督の厳しい批判の言葉を紹介した。彼の見方が正鵠を得ているように思えたからである。ひと言で言うなら、「自分が認められ、自分の力を発揮したいと思うならば、自分から変わりなさい」ということになるか。が、「言うは易く行うは難し」である。
 ところが、デンマーク戦で、岡田監督以下ほぼ全員がオシム氏のその箴言をものの見事に実行して見せた。3-1の勝利の戦績はその結果である、という風に私には見えた。

▼素晴らしかった本田や遠藤の活躍
 本田がFKで蹴ったあの無回転の激しくぶれる球筋は素晴らしかった。が、二本目のFKの時は相手側にやる気満々の素振りを見せながら一瞬の早業でキッカーを遠藤に譲り、三本目のゴールの時はFWの岡崎のアシストに見事に徹してみせた。チームのために…そういう本田の姿があった。人を生かしてこそ自分も生きる、と。
 一本目の左足のキックは本田ならではの芸術作品であった。が、二本目の本田を上回るほどの遠藤の華麗で芸術的な右足のキックも、味方を見、敵方の心理状態を冷静にみる的確な判断力と両者の呼吸の一致から生まれている。岡崎のに関しても「俺も蹴るからお前も蹴れ」との事前の約束があったようである。

▼勝利の舞台を影で支えた役者たち
 本田や遠藤の陰に隠れて目立たないが、長友や阿部の働きも見逃せない。「キーマン封じ」の長友の働きにさすがに外国人のサッカー関係者の中に注目したした人がいたようだ。だが、それに劣らず、今回の勝利の陰にある阿部の働きにも注目したい。遠藤からの指示があったようだが、ブブセラが響き監督の指令の声が一切届かない中で、自ら判断して中盤の底で守備に徹したMF阿部の働きがなかったなら、日本の固い守りはスムーズに機能しなかったのではないか。勿論、DF中沢ら身体を張っての最終ラインの守りがそこにはあった。

▼君子豹変してみせた岡田監督
 そして、岡田監督。オシム前監督が倒れて以来、全責任を肩に背負ってまとまらない選手たちを引っ張ってきた。何かとオシム氏と比較され、批判されて来た。オシム氏から受け継ぐだけでなく、かれ独自の哲学や手法があったろう。が、なかなか結果が出せずに負けるたびに更迭論が噴出した。「高校サッカーの監督」とまで言われた。
 最後まで望みを託し、中心に据えようとした中村俊輔の体調がとうとう回復せず、迷いに迷った末に遂にその構想を断念し、自ら変わることを選択した節がある。その最終的に決定したのが今回の実戦部隊の布陣だった。

▼日本代表の活躍に期待する(自分で楽しんでね!)
 サッカーというスポーツは、野球やバスケなど職人的な技能を要求されるスポーツと比べると、極めて分かりやすい大衆性のあるスポーツである。だから、どの国や地域でも、どんな年齢層にも、男女を問わず、受け入れられる。W杯の成立する所以である(FIFA参加(国)>オリンピック参加(国)>国連加盟(191ヶ国)だという)。
 それだけに一方ではどのスポーツよりも激しく、結果、活躍できる期間も短い。昨日の王者はもういない。群雄割拠、下克上のスポーツでもある。その分だけ若い人の人気は高い。その一瞬に全てをかけ、燃焼する。日本はさらに輝き続けるのか、それとも鮮烈な光芒を描いて夜空に消えるのか。次の試合が楽しみである。

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オシム前監督の言葉から考えること─自分を生かすこと

2010年06月21日 | スポーツ
オシム、バッサリ!大久保は「エゴイスト」(スポーツニッポン) - goo ニュース
「本田は大きなオランダDF相手にレスリングをする時間が多かった。代わりにフレッシュでスピードのある選手を投入するべき。オランダのストッパーは大きくて遅くて弱点だった」

2010ワールドカップ 公式試合球

▼オシム前監督の選手への厳しい評価
イビチャ・オシム前日本代表監督が、マスコミが「惜敗」と伝える対オランダ戦に対して、かなり厳しい評価を下している。
いわく
「日本は相手をリスペクトしすぎた。殺し屋の本能がなかった」
「本田は大きなオランダDF相手にレスリングをする時間が多かった。代わりにフレッシュでスピードのある選手を投入するべき」。
「大久保はエゴイスト」「シュートを決めたかったのは分かるが、彼よりもっと有利な体勢でシュートを打てる味方が近くにいた」
オシム監督は今ひとつ覇気のなかった中村選手や遠藤選手にも慢心と懈怠の心があったと手厳しい。彼が褒めたのはGKの川島選手ただひとり。「失点を気にせず自信を持て」と。

▼彼はなぜ「走れ走れ」と言ったのか
なるほど、やはりミーハーの我々素人ファンとは違うな、オシム前代表監督はそういう目で見ていたのか、という感じで聞いた。高齢ということもあって、途中で倒れて今の岡田監督と交代したわけだが、彼が指導者であったとき、なぜあれほど選手に「走れ走れ」と言っていたのか、ボンクラな私は今にしてはっきり分かったような気がする。

▼長所は弱点に、短所は利点に変えよ
たとえば、今アルゼンチンの監督を務めるマラドーナにしても、今大活躍でまさに注目の的のメッシにしても、またあの神様と言われたペレにしても、また日本人にお馴染みのジーコにしても、決して大型の選手ではない。むしろ我々とさほど違わない背丈の小柄の選手である。それでいてあれだけ活躍する。その秘密は…。
オシム前監督言う、「彼らの背の高さを長所ではなく、弱点にしてしまうこと。一人がキープする時間を少なくして、パスのスピードを上げて、ボールをどんどん動かす。そうすると大きなディフェンダーは、反応することができない」と。

▼「常識」の思い込みを打ち破ること
サッカーには「前はこれでうまくいったから…」という前例主義は通用しない。今回の欧州勢の凋落ぶりを見るといい。ちょっと気を抜くと下克上は当たり前の世界である。また、アメフトやバスケのように体格や上背がそのまま反映するスポーツでもない。
ところが、日本人は外国人のDFなどを見て、とても敵わないと思う。上背が違う、ヘディングでもされたらお終いだ…と。
それなら、メッシのあの活躍は何と形容すればいいのか。サッカー選手としてはハンディともなる小柄な体でありながら、サッカーボールが磁石に吸い寄せられるように彼の体から離れない。あれこそはまさに小柄であるから、それゆえ機敏に動き回れるからであろう。

▼他者を生かしてこそ自分も生きる
個人の才能を活かせるのも、他者という存在があってのこと。だから、オシム前監督はいうのだろう。「本田の役割は自分が生きることではなく、ほかの選手を生かすことだったはず」と。
スポーツと学校教育とは分野が違うとはいえ、響き合うものがそこにある。今、日本の教育に求められているのも、実はこれではないか。「他人を見たら敵と思え!」そんなことを尤もらしく<出来る>生徒に説く学校教育からはろくな人材が育つはずがない。自分が生かされたいならば、まずは人を生かすことを学ばねばならない
これは単に日本の古臭い道徳ではない。グローバルなスタンダードなルールなのである。 
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NHKは日本相撲協会の放映を止めるべきだ

2010年06月18日 | 教科書

▼外国人ばかりが目立つ日本の国技
日本文化も十分に解さない外国人力士ばかりが横綱その他の上位陣を占め、形ばかりの猿真似の演技をさせておいて、それが日本の伝統を脈々と受け継ぐ国技だというのだから笑ってしまう。国技ではないが、Kー1などの方を、そのショーマンシップをも含めて真剣に見て楽しめる。この頃、毎日のように相撲の不祥事が取り上げられる。「琴光喜よ、お前もか!?」と思っていたら、今度は時津風親方その他も野球賭博に絡んでいたことが新たに発覚した。
▼死んだ弟子は力士たちの賭博を目撃していた!
時津風部屋は双葉山が起こした名門だが、先代の親方は弟子への傷害致死事件で解雇され、現親方は再起を誓ったはずだった。報道ではその死亡した序の口力士の父親が、自分の息子が生前、力士たちが賭博をやっている現場を目撃していたと証言している。もしかしたら、彼の死の背景にはそういう問題もあったのでは…とまで思ってしまう。
▼日本の誇るべき国技の精神はどこに?
弟子のリンチ殺人、八百長相撲の横行、暴力団との黒い繋がり、野球賭博、前時代的な人権感覚、外国人抜きに成り立たない国技、国際感覚の欠如、自浄能力の欠落、繰り返される不祥事…日本相撲協会の問題点をあげれば切りがない。暴力団との繋がりどころか、温床そのものではないか。これのどこが「日本の誇るべき国技」に値するのか。
▼大相撲の暗部に迫れなかった大相撲関係者
一時期、横綱・朝青龍の品格が問題となり、泥酔による暴行事件を契機に引退となったが、日本相撲協会の抱える様々な問題からすると、可愛い部類の極めて軽い類のものであったと感じる。むしろ、高見山以来朝青龍に至るまで、外国人力士に対してウヤムヤな態度を取り続けた日本相撲協会に対して、時代の要請に応える明確な答える求めなかったことの方が問題であった。
だが、内館牧子氏ややくみつる氏など横綱審議委員達も時代遅れの横綱の品格を問題にするばかりで、相撲協会の暗部には何の追求も行わなかった。それは何故なのか。知らなかったで通ることではあるまい。
▼NHKよ、大相撲の放送を切って捨てよ
私自身、もう大相撲を見なくなってから久しい。NHKのテレビでは国技ということで、相撲人気の大幅な下落にもかかわらず相変わらず放映を続けていたようだが、そんなNHKをとても支持出来ない。国民から受信料を半ば強制的に巻き上げておいて、こんな馬鹿なことに使わないで貰いたい。
NHKさん、いつまで大相撲にお付き合いするつもり?公共の電波を相撲放送よりももっと有意義に使う手立てはいくらでもあるはずだ。それとも、NHKもまた大相撲とは切っても切れない腐れ縁でもあるのだろうか?そんなことまで疑ってしまう。この際、いい潮時である。すっぱりと大相撲放送を切って捨ててはどうだろうか。きっと喜ぶ人の方が多いのではないだろうか。
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オレ流で夢実現─言い訳の要らない人生を─本田圭祐見て思うこと

2010年06月16日 | スポーツ

▼オレ流とチームプレー
野球の落合博満選手を持ち出すまでもなく、日本では「オレ流」の評判が悪い。特に集団競技の時にそう言われる。「チームープレーなのに個人記録にこだわる」と。サッカーの場合も例外ではない。そして、「チーム」優先の「自己犠牲」精神を人間ができている選手のようにスポーツ記者までが持てはやす。
▼個人の才能と集団の論理
だが、ちょっと待て。有能なチームの中にいたならその論理も成り立つかもしれないが、弱小集団の中に入れば、「お前はチームメートと同じく埋れたままいろ」と言うに等しい。個人競技では認められることが団体競技では認められないなら、個人の才能は花開くことはない。その論理に屈するならば、弱小チームから三冠王も生まれなければ、有名なストライカーも生まれない。出来合いの集団を優先すれば、突出した個人は潰される。環境が才能を潰すこともあるのだ。勿論、集団の向上もあり得ない。個人の力量が尊重される集団であってはじめて個人も集団も生かされる。これは何も学校教育だけの話に限らない。
▼夢実現へ向けて己の道を
サッカーW杯日本代表の本田圭祐選手は石川・星稜高時代、「将来レアルに」と豪語していたという。唖然とする周囲をよそに、本田選手は「夢」実現への道筋をひたすら進んだ。
念願の海外移籍を果たし、オランダのリーグに入ったとき、「丁寧ななパスを出しても、得点を挙げた選手しか評価されない現実」をまざまざと体感した。
▼すべては自分の決断と行動力に
学校教育の現場でも、スポーツの世界でも、その他の分野でも、個人を殺す悪しき集団主義を見直さないと日本の将来はない。だから、そこでは自分が生かされないと知ったなら、さっさと環境を変える勇気と決断も必要だろう。言い訳は負け犬の遠吠えに過ぎない。
自分の人生の主人公は自分でありたいなら、自分の人生を花開かせるか否かも自分の決断と行動力に掛かっている。そこに言い訳は要らないのだ。人から自己責任なんて言われる筋合いもない。
ああ、若い人達に彼を賞賛する気持ちがあるならば、その思いをまず自分に向けてみてはどうか。悔いのない自分を生き抜くために。
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小惑星探査機「はやぶさ」の成果を喜んだ後に…

2010年06月15日 | 学校教育
▼おかえり!はやぶさ!感動したよ!
小惑星探査機「はやぶさ」が7年間、約60億㌔㍍の宇宙の旅を終えて、日本時間2010年6月13日午後11時過ぎに地球に帰還した。小惑星「イトカワ」の砂を耐熱加工のカプセルで持ち帰ったという。もちろん、世界初の快挙である。
▼日本の科学技術の最先端を見た
詳しい情報は新聞やテレビに譲る。ただ、Ustreamの実況の映像と、ほぼ実況に近かったテレビの映像には少なからず感動した。イオンエンジンなどの日本の科学技術の素晴らしさ、数々のアクシデントを想定したスタッフの綿密な設計、そして生まれ故郷に遡上する鮭のようにロボロの身になりながら健気にも最後まで目的を遂行しボ帰還した「はやぶさ」!最高のドラマを堪能させていただいた!科学技術の最先端の出来事でありながら優れて人間的である。
▼ガラパゴスどころではない日本の教育
だが、日本のこういう優れた側面はいつまで、どこまで可能なのか。今日の日経(14日)を見ると、<日本の大学「ガラパゴス化」>という見出しの記事がある。慶応大学の前学長の記事である。だが、よく読むと──前に読売新聞にも載っていたことだが──「中韓の学生の方がよく勉強するし、元気もあってハングリー精神も旺盛」とある。これが実態だろう。もはや「ガラパゴス化」どころの騒ぎではないのだではないか。
▼日本の教育はどこに向かうのか
同じページに、運動に重きを置いたり、もと不登校だった子ども達が通える単位制・通信制高校の記事もある。これは高卒を実力とするよりは資格と考える(だから、学業的にはレベルはさほど問題ではない)高校の姿である。それを「多様化する高校の現実」と紹介している。
同じ高校段階の教育とは言え、この両者には越え難いほどのレベルの高低がある。そして、そのどちらも日本の教育の中で求められているものをそのまま反映しているとも言える。これらを統合する物差しはどこにあるのだろう。
学校教育ってなんだろう。世間の求める「高卒」って何だろう……そんなことを改めて考えた。
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「コボちゃん」10000回おめでとう! 

2010年06月15日 | 5歳の眼差し

▼コボちゃんに妹が誕生、おめでとう!
コボちゃんに待ちに待ったきょうだいが出来た。女の子の誕生である。6月14日時点でまだ名前は明かされていない。読者から募集した名前になるのだろうか。この赤ちゃんは3歳くらいまで成長するかもしれないと言われている。ということは、コボちゃんも同じく成長するのだろうか。今まではずっと「永遠の5歳」だったがコボちゃんが、8歳か9歳くらいまでは成長する? それもまた興味深い。
▼5歳の眼差しの問題について
「クレヨンしんちゃん」もそうだったが、「コボちゃん」の5歳という設定にも、重要な意味がある、と私は勝手に思っている。そして、勝手に「5歳の眼差しの問題」と名付けている。この辺の事情について、「こぼちゃんん」の作者・植田まさしさん自身が、6月14日の読売新聞で、今まではシニカルな4コマ漫画で人気を得てきたが、これまで「子どもは描いていなかったし、小学生より幼稚園児のほうがとっぴなことをするからと主人公を5歳にしたんです」と述べている。軽く語っているけれども、これはとても意味深い言葉だと私は思う。
▼「しんちゃん」と「コボちゃん」の違いとは?
ただし、同じ「5歳」とは言っても、しんちゃんとコボちゃんでは「5歳の意味」が大きく違っている。いや、「5歳というものに対する意味付け」が違っていると言った方が正確かもしれない。
これは大人の視点からは分かりにくいことかもしれない。しんちゃんとコボちゃんでどこが違うの?と思うかもしれない。が、世のお母さん方は「しんちゃん」を目の敵にすることはあっても、「コボちゃん」に目くじらを立てることはまずないのではないか。何故なのか。
逆を考えてみるといい。幼稚園や小学生の子どもは黙っていても「しんちゃん」を進んで読むかもしれないが、「コボちゃん」の場合にはそうは行かないのではないか。それは何故なのか。
▼ギャグ漫画と社会人としての眼差しと
その一つの答えは、「しんちゃん」は本質的にギャグ漫画であり、子どもの遊びの空間と同じくヴァーチャルな世界で成り立っているということ。登場人物の言動のすべてはそのお遊びを成立させるためにある。
ところが、「コボちゃん」は、新聞に毎日掲載される4コマ漫画であり、必ずコボちゃんが登場するとはいえ、すべてがコボちゃんの目を通して描かれてるわけではない。コボちゃんという5歳の子どもの目線に仮託した社会人としての大人の視線がそこにある。だから、間違っても反(非)社会的なオチで終わることはない。
▼家族構成の違い・成長物語か否か
その他にも、「しんちゃん」は核家族であるが、「コボちゃん」は祖父母やペットの犬猫と同居しており、望ましい伝統的な家族像に近い。それが両者に様々な違いを生んでいる。が、ここでは、あまり触れないでおく。機会を見て、もっと真正面から論じてみたい。
「クレヨンしんちゃん」の作者が不慮の事故でなくなり、連載が不可能になっただけに、同じ5歳の「コボちゃん」にはその分期待するものが大きい。しかし、今までは「永遠の5歳」であったコボちゃんも、妹が生まれたことによって、もしかするとある程度の成長物語になるのかもしれないな。そんな新たな楽しみも生まれてきた。
(続く)
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「視考力」の教育的可能性について(2)

2010年06月06日 | 視考力
「作文王」スタンダード(工藤順一著)

▼「絶対学力」の実際─視考力の運用

ちなみに、糸山氏が熱く説く「絶対学力」の実際は──教条主義的ではないが、私も高く買っている──市販の教材『絵で解く算数』や『三角計算』で多少なりとも知ることが出来る。もっと詳しく知りたい人はネット上のサイトを訪れてみるといい。通信教育もやっているようだ。(私は彼の宣伝マンではないが)
私はどちらかと言うと、陰山英男氏の「100マス計算」や公文式の算数には否定的な考えだが(あれは単純作業の繰り返しで創造性には繋がらない、場合によっては害悪でさえあると思っている)、糸山泰造氏の考えも同様のようだ。
『三角計算』にせよ『絵で解く算数』にせよ、一言でいえば、極めて「合理的である」ということだ。「合理的である」とは、面倒なことを楽してできるようになるというようなことではない。人間の頭脳の自然な作用に合っているということ、それを考える人間にとって、余計なことがなく自然で無理がないということである。

▼「視考力」は教科を問わない
実は、私自身はこの「視考力」という考え方をもっと広い範囲で考えている。例えば──これは別立てで話すことになると思うが──「コボちゃん」などを用いた「マンガ作文」でも援用している考え方である。
仮に、糸山氏が算数的「視考力」の提唱者だとすれば、「コボちゃん」作文の側には国語専科教室を営み、『作文王』シリーズを出している工藤順一氏などの面々がいる。そして、私の軸足もどちらかと言えばそちらに近い。(ただ、ここでも私はその子にあった独自のやり方をしている。)
たとえば、そこでは「見ることは考えること」などという単元があるが、これは見方を変えれば、糸山氏の「視考力」そのもの、その援用とでも言える類のものである。(ただし、どちらが先かは私は知らない)

▼「学力低下」の処方箋としての「視考力」
2003年のOECD加盟国によるPISA(国際学習到達度調査)で明らかになった日本の子ども達の「学力低下」(私はそれよりも、未来への希望を見出せない若者像の方が深刻だと思った。勿論、連動しているのだが)。その処方箋を教育行政の側は未だに見出していない。もっと授業時数を増やし、子ども達を無意味に学校に縛り付け、ますます受け身型の考えない子どもを作り出しているだけである。
その中で、民間の側からの、学校外のこのような「視考力」の試みは、大きな可能性を秘めていると思っている。人間の判断の8割程度は視覚に基づくと言われる。実際に、我々が生活する現実の多くは五感の中でもとりわけ視覚という感覚器官を通して脳にインプットされ、判断される。なかんずく、映像の時代と言われる現在、文字や活字さえもデジタル映像として取り込み理解していることが多い。教育活動もまたしかりなのだ。タッチパッドなどの登場はさらにそれに拍車をかけるだろう。

※これらについては、また別のところで。 
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「視考力」の教育的可能性について(1)

2010年06月05日 | 視考力
(今は新版が出ていますが、紹介です) 
▼「視考力」とは何か
“「思考力」なら分かるが「視考力」という言葉は知らない”という人が多いかもしれない。パソコンでの日本語変換でもまず登録されていないし、もちろん辞書にもない。私の知る限り、これは完全な造語なのだ。「誰が考えた造語か」と言えば、知る人ぞ知る「どんぐり倶楽部」を運営している糸山泰造さんという方の造語である。別の言葉で言えば、「イメージ・シンキング」とか「ヴィジュアル・シンキング」とかなるのかもしれない。が、私には「視考力」という漢字の響きが好きである。(「図解思考」というのもこの仲間かもしれない。)
▼「視考力」と「絶対学力」
糸山さんの考える「視考力」というものは、彼の経営する「どんぐり倶楽部」や彼の書かれた『絶対学力』、あるいは彼の手になる教材(手元には『三角計算』『絵で解く算数』などがある)などから察するに、もしかするともっと深い考え方に基づいているのかもしれない。
彼の守備範囲は算数・数学的思考とその周辺にあるようだが、それは論理的思考とか数理的図解思考という領域に留まらず、いわゆるロジカル・シンキングとかクリティカル・シンキングと呼ばれる領域にまで及んでいるように見える。
だから、彼の唱える「視考力」とは、算数・数理的な考え方とそれ以前の視覚による認識と考察とを統合したものと考えていいのではないか、と私は勝手に解釈している。そして、それは彼の唱えるもっとも根幹となる考え方=「絶対学力」(これもかれの造語ではないかな)に行き着くのだ。
▼「絶対学力」とは何か
では、「絶対学力」とは何なのか。これの詳しい解説は『絶対学力』『新絶対学力』(共に糸山泰造著)に譲りたい。私は彼の忠実な伝道者ではないから、勝手な解釈をしないとも限らない。いや、そもそも解釈とは勝手な読み替えなのだと思っている人間である。だから、正確を記する意味でも、関心があるなら是非、一読をお勧めする。確実にその価値はあると私は思っている。
ただ、私流に一言で要約させてもらえるならば、「絶対学力」とは「学力以前の学力」、人になる以前の人の器づくり&感覚の受容体づくり、パソコンに例えるならば様々なアプリケーションがサクサクと動くOSづくり、に当たるものだ、とこれまた勝手に解釈している。
(2)に続く
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