教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

自衛隊よ、お前もか――イージス艦事故に思う

2008年02月23日 | 「大人のフリースクール」公開講座
「事実明らかに」と強まる批判=防衛省に抗議電話1千本-イージス艦事故(時事通信) - goo ニュース

自衛隊よお前もか――イージス艦「あたご」の漁船衝突事故に思う

問題は何も沖縄の米軍だけではない。これも平和ボケといっていいのか、現実にはありえないような、漫画にしても嘘っぽいような事故が海上自衛隊の最新鋭イージス艦で起きた。場所は房総沖、多くの漁船が行き交う海域でのマグロはえ縄漁船清徳丸との衝突事故である。

しかもイージス艦から石破防衛大臣に連絡が入ったのはその90分後であったという。「連絡は後でいい」と石破防衛相や福田首相は軍人?に侮られ、文民統制ということを軽く見られていたのか、「報・連・相」の基本がまるで出来ていない。まさか「気が動転していて連絡が遅くなった」とは言うまい。救助に一生懸命でもやるべきことはあるはずだ。彼らは日本国を守るというトップ集団であるはずなのだ。

これでさえあり得ない行動なのに、渡辺喜美行政改革担当相は「万が一これが自爆テロの船ならどうするのか」と発言した。これがまだ行方不明親子を捜索中に行う大臣の発言かと耳を疑う。いやはや何ともTPOを弁えた名台詞であることか。まことに良く出来た大臣である。

なぜ事故は起きたか。「衝突事故の1~2分前に気付いた」というのはどうも嘘らしい。実は事故の12分前に視認されていたのだという。なのに何故事故は起きたか?どうも清徳丸に正面から乗り上げる形で衝突した疑いが強い。

それは偏にイージス艦の士気の緩み?驕り?によるもののようだ。あの海域に来てもイージス艦は手動ではなく自動操縦であったという。あり得ない操縦である。本来ならイージス艦の側が航路を避ける義務があった。ところが、イージス艦は自分から避けようとしなかったばかりか、漁船が避けて通るのが当たり前と思っていた節がある。

「オレたちは国を守る最新鋭のイージス艦だ、おらおらーイージス艦がお通りだ、どけどけー」とでもいうような意識がそこにはなかったか。官尊民卑の臭いがプンプンとする。イージス艦の彼らは漁船など一般の民間人を見下してはいなかったか。そんな連中が国を守っていると嘯いている。

後で分かったことだが、漁船・清徳丸で行方不明の息子・哲大氏はホームレスの足長おじさんだったようである。 ************************************************************************* 髪を短く刈り上げた1人の青年が運んだ魚は、東京・上野公園のホームレスに届いていた。「魚のお兄さん」。そう呼ばれていた青年こそが、イージス艦衝突事故で漁船「清徳丸」の吉清治夫さん(58)とともに行方不明となった長男の哲大さん(23)だった。 ************************************************************************* と報道は伝える。4年ほど前に、ホームレスに炊き出しなどの支援を行っている団体「赤銀杏会(あかぎんなんかい)」(東京都荒川区)に連絡が入り、それ以来年に数回、大量の魚を差し入れていたという。今時なかなかいない青年だと感謝されていたという。

幕僚長の中に「マスコミにしゃべるな」と漁民関係者に口封じを依頼した者がいたようだが、そういうことを含めて自衛隊の抜本的意識改革が必要だろう。

ただ冥福を祈る。そして一日も早い発見を待ち望む。この事件を無駄にしてはいけない。戦後60年、日本の社会は今こそ変わらねばならない。今まで良しとされてきたいろいろなことを、果たしてそれで良かったのか検証してみることが必要である。

「米軍」のアメリカも今オバマ氏によって大きく変わろうとしている。「自衛隊よ、お前もか」その日本の従来の意識では国は維持できないだろう。今回の事件もその転換の節目になってくれればと思う。

沖縄での米兵による女子中学生暴行事件に思う

2008年02月19日 | 「大人のフリースクール」公開講座

12日に沖縄で起きた米兵による女子中学生暴行事件は、一週間経った今も米兵は否認し続けている。「関係を迫ったら拒まれたので」「実際には関係を持っていない」と彼は言っている。最初に女子中学生は暴行されたと訴えたようだが、実際のところはどうなのか。もし米兵が否認し続ければ、今後は医師による検査も行われるのだろうか。

駐留米軍の米兵による暴行事件は今までにも何件も報道された。中には報道されぬまま泣き寝入りしたケースもあったかも知れない。今までは日米安保条約によって日本はアメリカに守ってもらっているのだから「仕方がないのだ」というのが一般の大人の反応であった。ここにも敗戦国日本の「諦めの哲学」が支配的であったBold

しかし、その日本も曲がりなりにも国際社会の中でそれなりの地歩を築いて先頭集団の一員を務めるようになった今、健全なナショナリズムの高揚もあって、単にアメリカに隷属するだけの国や国民ではなくなっている。ここに来て日本はアメリカと暴力団にみかじめ料を払い守ってもらう(?)というような関係ではなく、対等なパートナーとしての付き合いを求めるようになってきている。だから、今となっては米軍への思いやり予算というような日本政府のあり方は評判がよくない。日米安保や地位協定のあり方も変えるべき時に来ている、というのが多くの人の率直な感想ではあるまいか。

だから、もし今回の暴行事件の報道において、かつての政府の答弁のように福田首相が「仕方がない」というような腰砕けの答弁をしていたならば、もう福田首相の政治生命もそこで尽きていたかもしれない。さすがに今回は首相も強い口調で抗議の言葉を口にした。それは正解であった。

今時の中学生は部活動や塾通いなどもあり、夜の8時頃町中をうろついていても別におかしいとも思われないのかもしれない。男心を誘うような身なりをしいていてもそれだけで咎められる筋合いはないというのもありなのかもしれない。しかし、14歳の女子中学生が誘われるままにそんな夜中にバイクの後ろに乗って米兵の家に行ったり、気があると思われて誘われたことをきっぱりと拒絶せず車に乗ったりしたということは、やはりその子にも非があったと言われても仕方がないだろう。だから無理矢理レイプをしてもいいとは決してならないが、その米兵の感覚からすればその振る舞いは中学生のそれではなく成人のそれであったということなのだろうと思う。

この米兵と女子中学生の事件を通して、日米の関係の変化、日本の社会の変化、とりわけその社会で生きる日本の子どもたちの変化を見たように思う。この変化は日本の社会の望ましい変化では決してないであろう。もしかすると、日本という国は追いつき追い越せと爪先立った背伸びをした無理な歩みを続ける中で、何かとんでもない間違いを犯してきたのかもしれない。


国際ルールによる相撲への脱皮を

2008年02月10日 | 「大人のフリースクール」公開講座

もう許されない相撲協会“理事鎖国”(スポーツニッポン) - goo ニュース
朝青龍問題にとどまらずヤクザまがいのリンチ(おそらく)によって死者を出した時津風部屋問題(親方逮捕)によって、日本相撲協会のどうしようもない閉鎖体質が明らかになり、とうとう各界にメスが入ることになりそうだ。文科省に報告に出向いた伊勢ノ海親方(元関脇・藤ノ川)、九重親方(元横綱・千代の富士)の2人を前に、文部科学省の松浪健四郎副大臣は8日、協会の理事に外部の人材を登用するよう要請したという。

今は大人しくなってしまった朝青龍が勝ち名乗りを受けて賞金を受け取るしぐさを見ていると、右手で手刀を切っていた。彼は本来左利きであり、かつては左手で切っていたはずである。横綱に「伝統を守れ!」と批判する人間の要求することはそのレベルのものであるらしい。つまりは「型」が大事であり、型ができていれば「心」は自然に入ると考えているようだが、いかがなものか。日本の伝統とはそんな物真似レベルの仕草に支えられていたのか、とさえ思ってしまう。

今、日本の相撲が外国である程度もてはやされるところがあるとしたら、それはたぶんに物珍しさ・奇異さに基づくものではないか。メタボ症候群の典型とさえ目される体つきの男たちが一瞬の肉弾戦を繰り広げるのが奇妙な光景に映るからである。決して日本独特の国技や伝統を尊重してのことではない。海外においては数多くの格闘技の一つでしかないだろう。

東西の両横綱や大関や幕内の力士をはじめ、たくさんの外国出身の力士が各界を席巻している。強いと目され将来を期待される日本人の力士は数えるほどしかいない。だから、「国技」とされる相撲が今後生き残っていくとしたら、それは「国際化」の道しかないであろう。その時に日本の国技だの伝統だのにこだわり、「強いだけでは駄目だ」と言って「品格」を注文しておきながら、日本語や伝統文化の教育もろくに行わず(これは今の学校教育も同じだが)、ただ形だけの物真似を身につけることを要求し(おそらく相撲協会の理事たちの伝統文化に対する教養もそのレベルだろう)、意味も分からない外国出身の力士たちが、猿のように物真似をすればそれでよしとしているのが現状だろう

そうであるならば、いっそのこと、相撲に国際ルールを採用すればいいのだ。今のところ相撲は日本で行うこととしても、そのルールは万国に共通するものが欲しい。「伝統文化」に拘るのも結構だが、伝統や文化と言うものは絵に描いた餅でも木石でもない。伝統もまたその時代にふさわしく絶えず脱皮していく中で生き残っていくものである

日本相撲協会がこの不祥事を契機にどう進化発展・変貌を遂げていくのか楽しみでもある。それを愛すればこそ、時代に相応しく変わって欲しいと思う。


爪先立ちの日本の経済

2008年02月10日 | 「大人のフリースクール」公開講座

まだ中国産輸入餃子へのメタミドホスなどの殺虫剤混入事件の余波が続いている。たぶん中国で袋詰め作業の際に――故意か過失か定かではないが――混入したのではないかと素人考えとしては思う。

まことに食の安全は日本人の死活問題だが、なぜ中国産の食料がこれだけ大きく騒がれるかと言えば、一つには先進国の食の安全基準に到達できない中国製品の問題があるのは確かだが、他の製品にとどまらず日本の食糧事情もまた大きく中国に依存しているからである。

今や日本の食料自給率は40%を切ったと言う。そしてその多くは中国産である。先進諸国の中で自国の食料がこれほど他国に依存している国は他にはないのではないか。ということは日本は先進国とは言われているが、その実は先進国としての要件を満たしていないということになる。こんな食料事情で少子化解消などは夢のまた夢ではないか。国は食料に見合う人口しか持つことができないはずだ。

因みに先進諸国の食料事情はどうなっているのか、少し古いが、2007年7月25日付けの東京新聞に、次のような統計が乗っていた。日本40%、豪州237%、カナダ145%、米国128%、フランス122%、ドイツ84%、英国70%、イタリア62¥%、スイス49%、韓国47%……となっている。いかに日本が歪な国か一目瞭然である。日本に比較的近そうに見える英国でも70%の自給率、お隣の韓国でも47%である。

この自給率の低さの度合いは、その国の経済の爪先立った背伸び率、つまりは自国の経済事情を実際よりは高く見せようとして不自然に無理をしている姿に見える。本当は日本という国はもっともっと政治的にも経済的にも貧乏な国なのではないか。それを為政者たちは国民に“高いよ高いよ~”とやってみせていて、お人好しの国民はそれを真に受けて信じているいるというわけだ。

どうもそんな感じがしてならない。


アメリカで大統領の予備選に思う

2008年02月02日 | 「大人のフリースクール」公開講座

アメリカで大統領の予備選が進んでいる。現共和党出身の大統領ブッシュ氏に代わって今度は民主党から大統領が選ばれるというのが大方の予想だ。その中でエドワーズ氏が立候補を取り下げた今、オバマ氏かクリントン氏かの争いになっている。

どちらが大統領になっても、アメリカ史上黒人初の大統領、女性初の大統領ということになりアメリカ初であることには変わりない。だから、この選挙は「あれかこれか」の選択ではなく「どちらがよりベターか」の選択になる。オバマ氏は「変革と連帯」を、クリントン氏は「経験」を掲げているが、その両者に共通していることがある。それは「アメリカの変革」ということである。ブッシュ氏によって、そして911によってアメリカの自由と民主主義が危機に瀕している今、アメリカ人に働いているのは振り子の安定である。バランス感覚である。だから、「イラク戦争で“漂流”しながらも、米国が変化し再生する潜在力を持つことを実感させる。」(共同通信)という見方は正しい。ここにこそアメリカの自由と民主主義の成熟度があるといったらいいだろうか。

私個人はオバマ氏の大統領誕生に期待している。もちろん、夫君のもと大統領クリントン氏の実績と今のクリントン候補の力量に期待できるものもあるが、世界が大きく変わるには「アメリカの統合と変化」を掲げる黒人出身のオバマ氏の方が適任ではないかと考えている。さて実際に、アメリカはどちらを選択するだろうか。2月5日に開かれるカリフォルニア州予備選挙で凡そが決定するであろう。

何故オバマ氏により期待するか…。オバマ氏は米サウスカロライナ州で55%を獲得し、ヒラリー・クリントン候補に圧勝した。星としては2勝2敗ということだが、この勝利にはそれ以上の価値があったとみる。黒人票の8割、白人の24%がオバマ氏に投票したというが、クリントン氏に比べて若い層の支持が強かったという。

「この選挙は宗教や性別の選択でも、黒人か白人かの選択でもない」「過去か未来かの選択だ」とオバマ氏は言う。確かに人種の坩堝でもあるアメリカで「民族・宗教・肌色の違いを超えた国家の統合」という理念は外せないところだろう。また、黒人の利害に特化してしまえば逆に選挙戦は危うくなる。しかし、それでもなお黒人のオバマ氏がアメリカの大統領になるということはとてつもなく大きな意味を持っている

クリントン氏は支持基盤がリベラルにあるとは言っても、彼ら自身は上流階級に属している。それに比してオバマ氏は黒人の父、白人の母を持つというが、一時期は麻薬にも溺れ、父の出身地ケニアに「自分探しの旅」に出かけたこともあったようである。と同時に、ハーバード大法科大学院をも修了したクリントン氏と同じ弁護士でもあった。大統領になる資質に問題はない。クリントン氏が「化粧」について訪ねられ思わず涙して、その人間味を評価されて票を伸ばしたということもあったが、多様性を身上とするアメリカの国民がより身近な存在と感じ、よりアメリカ的と感じられるのはむしろオバマ氏の方かもしれない。そして、オバマ氏が選出される方が政治的のみならず文化的な領域においてもそのインパクトはより大きいのだ。

たとえば、女性の大統領はセイロン、イギリス、フィリピン、インドネシア、フィンランドなど多数誕生している。だから、アメリカに新たに女性の大統領が誕生してもさほどのインパクトは感じられない。日本においてもすんなりと受け入れられるだろう。日本にも女性の首相が誕生しても不思議ではない土壌は出来ている。しかし、アメリカに黒人の大統領が誕生したなら、戦後アメリカを基準としてきた日本の政治はともかく文化風土は今後大きく揺さぶられることになる。政治経済はともかく文化風土においてはいまだに三等国に甘んじているのが日本の姿であるが、今の日本人に黒人を組織のトップとして受け入れられる風土やその感覚があるだろうか?日本でそれが試されるだけでなく、それを受け入れなければ国際社会でやっていけなくなる時代がやがてやってくるのだ。

かつて、マルチン・ルーサー・キング牧師は黒人の公民権獲得する運動の中で“I have a dream.”と言って、いつか奴隷の子孫と奴隷の使用人であった子孫とが同じ仲間のテーブルについて共に語り合うことを「夢=希望」として大衆に語っていた。オバマ氏の登場はその夢の実現を象徴するものだと言えよう。(キング牧師は1964年にノーベル平和賞を受賞したが、その4年後に銃で暗殺された。)アメリカの「自由と民主主義」「統合と変革」がどこまで本物なのか今試されようとしている。