戦前のことは分からないが、戦後の日本の学校教育の中でいわば夏休みの定番となっているものに「夏休みの自由研究」なるものがある。自分が小学生の子どもだった時にも幾つかやった記憶が甦る。
「自由研究」とは言っても小学生の子どもが考えてやることだからたかが知れている。自分は木を削り出した駒や滑車を組み合わせた手回し扇風機なんていうものだったと記憶する。実に他愛ないものだが、やはり時代を反映している。
今もまだ、この悪しき伝統(?)は続いている。敢えて「悪しき」というのは、本当は学校から解放されて楽しいはずの夏休みがいささか憂鬱になるからである。「自由研究」と言いながら、子どもにとっては半ば強制の思いである。「自由」と言いながらちっとも自由じゃない。本来の趣旨に反する。
日本の場合、夏休みは1学期と2学期との学期の間にあたり、9月新年度新学期の欧米のような完全な休みには当たらない。でも、「自由研究」というのであれば、やるもやらないも子どもの自由にさせてはどうなのか?
子どもが自ら求めて「お仕事体験」をしたりタブレット等で自由に調べ物をするのならいいが、夏休みの宿題をお助け端末に頼ったり、宿題代行サービスの業者に任せるくらいなら、むしろない方がましだろう。ただ、勉強嫌い、学校嫌いの子どもを増やしているだけのような気もする。
それで多少仲間に差をつけたところで何になる?かえって国の貧しい教育行政を見るような気がする。
そろそろこの悪しき伝統を見直してはどうか?