教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

■大人の世界&子どもの世界─「子ども」とは何かの一考察(2)

2010年08月03日 | 「子ども」とは何か
「クレヨンしんちゃん」から 臼井儀人 作

▼大人の世界からは見えない風景
次元の問題とでも言えばいいのでしょうか、もし、この世がビッグバンによって誕生したとするなら、この宇宙の内部に生きる人間はそれ以前の世界やそれとは別の世界を見ることはできないでしょう。同じことが子どもである彼らにも言えそうです。彼らがもし、大人の常識の住人となったなら、もはや大人の常識を相対化する目で見ることはできなくなるはずです。そして、彼らの住んでいたかつての世界はガラス細工かおとぎの城かのように崩れ落ちてしまうことでしょう。もし、それでも彼らがそれを維持していたとするならば、それはもはやまともな大人とは見做されない、精神に障害のある人と見做されるか、奇人変人となるしかないでしょう。

▼「欠落」しているという価値の視点
ところが、5歳の子どもである彼らは、まだ5歳であるという年齢そのものによって大人の世界にいることを容認され、庇護されているのです。しかし、実は「クレヨンしんちゃん」と「コボちゃん」では大きな違いがあります。それぞれの作者の年代の違いから来る据える視点の違いとか、伝統的な家族であるか核家族か、もっと広く言えば作者自身の人生のスタンスが奈辺にあるか、というような作品が書かれる外的な要因だけに留まらず、二人の主人公の設定には大きな違いがあるように見えます。
「5歳児の欠落」とは言っても一様ではないのです。一つはまだ未発達の段階でそれを獲得していない場合、つまり今後学習することによってその欠落が補充されるという場合です。もう一つはそのような学習だけでは恐らく埋め切れないないだろうと考えられる場合、つまり大人とは別の価値基準を持っていて大人が良しと考える範疇では一つに統合できない場合です。例えば、「コボちゃん」は前者であり、「クレヨンしんちゃん」の場合は後者と言えるかもしれません。

▼コボちゃんとクレヨンしんちゃんの明日について
「コボちゃん」の場合には、今はただそこに立ち止まっているだけであり、その欠落は今後の「学習」によって容易に埋められ、問題なくそのまま大人の世界に入って行くことができます。彼はやはり「普通」の世界の住人なのです。
ところが、「クレヨンしんちゃん」の場合にはちょっと事情が違うように見えます。作者晩年のアニメではクレヨンしんちゃんが小学校に通うようになった場面も登場しますが、それでも彼は5歳のしんちゃんのままなのです。もし、彼がそのままつつがなく学校生活を送るとするならば、それは本来の彼の死を意味したはず。残念なことにしんちゃんの物語は作者の突然の死によって中断してしまいましたが、もし作者が存命であったとしても、5歳のしんちゃんには大人への成長物語はなかったのです。

▼大人に愛される「コボちゃん」と敬遠される「しんちゃん」
「コボちゃん」は読売新聞の朝刊の社会面のトップを飾り、多くの読者に愛されている四コマ漫画です。「コボちゃん」があるから読売新聞はやめられないという読者までいるようです。
それに対して、「クレヨンしんちゃん」の場合は、PTAのアンケートでも「子どもに読ませたくない」本のトップにランクされ、情操教育等を重視するお母さん方からはすこぶる評判が悪いようです。これはどういうことなのでしょう。

▼「クレヨンしんちゃん」とは何か!?
これは理屈というよりは本能的な嗅覚による判断でしょうか。でも、それは─その価値観の評価は置くとして─ほぼ正確に的を得ているように見えます。そして、さらにより本能的な地平を生きている子ども達の反応はもっと鋭い。
「コボちゃん」に例えられることには笑って応えられる彼らは、自分が「クレヨンしんちゃん」に例えられることには激しいい拒絶反応を示すのです。これは単に大人の価値観の反映とだけでは片付けられない問題を含んでいます。

▼子どもが子どものままでいられる世界
では、その子は「クレヨンしんちゃん」が嫌いかというと、決してそうではないのです。「クレヨンしんちゃん」が大好きで、暇があれば進んで「しんちゃん」を読む子なのです。一般に子ども達は「クレヨンしんちゃん」が好きです。放っておいても読んでいます。読みながら声をあげて笑ったりもします。
たとえ自分とは同じではなくても、そこには一緒に興じられる世界があり、仲間がいる。自分を飾らなくてもいい、ありのままの自分を受け入れてくれる心地良い世界がそこにある。そんな感じなのかもしれません。

▼大人になれない子どもを生きれば…
しかし、大人の論理からはそれはそのまま容認できない世界なのです。たとえ子どもに従って一時的に認めることはあっても、永続させてはいけない世界なのです。大人になるためには、やがては消えるべき、克服すべき世界なのです。特にママゴンの「教育的見地」からはそう見えるのでしょう。
「コボちゃん」の世界はやがて時が解決してくれます。児戯を微笑ましく見守ればいいのです。ところが、「クレヨンしんちゃん」の世界は大人の世界にそのまま繋がるレールがないように見えます。彼はいつまでも子どもであり続けるか、それが不可能ならば大人の領域にあって異物・異端としてあり続けるかです。人がそれをなんと呼ぶか、それは大人の都合の問題です。「正常な大人」ではないということで、時には「カッコ」を付けたりある種の病名で呼ぶことも出て来るのかもしれません。
(一応、終わり)
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■「5歳」という子どもの問題─「子ども」とは何かの一考察(1)

2010年08月02日 | 「子ども」とは何か
『クレヨンしんちゃん」№1 臼井儀人作

▼「5歳」という漫画の主人公たち
前にも述べたことがあるかも知れませんが、ギャグ漫画「クレヨンしんちゃん」の主人公も、四コマ漫画「コボちゃん」の主人公も、共に「5歳」です。この年齢設定は故意か偶然かという問題ではなく、必然なのだと私は見ています。そして、それを私は勝手に「5歳の眼差し」の問題と捉えています。ただし、作者たちもそう思っているかどうか私は知りません。

▼既成概念を持たない子どもの年代
「5歳」という問題に直接入る前に、上大岡トメ氏という漫画家が『しろのあお』(副題:小学生に学ぶ31のこと)という作品の中で、小学4年生を作品の主人公に据えた理由を次のように書いています。「コミュニケーションもしっかりできて、また既成概念も少ない小学生、特に小学校生活のちょうど中間地点であり、コドモらしさを残している4年生を主人公として選びました」
もし、小学4年生が上大岡氏の言うような存在だとすれば、5歳児のしんちゃんやコボちゃんはまだ小学生になる前のコドモです。上大岡氏の言を借りれば、「既成概念」を持たない「コドモ」そのものの存在なのです。ただし、「コミュニケーション」はまだ覚束ないという条件も備えて。

▼大人の論理の世界以前の子ども
言い換えるなら、小学生はまだ「らしさ」は残っているもののもはや「コドモ」そのものではない。学校に上がったというその時点から、曲がりなりにも「既成概念」を身にまとい、大人の論理の世界の約束事に従うことを受け入れた「コトナ」という存在なのです。
では、「しんちゃん」や「コボちゃん」という5歳を主人公とする漫画が、人畜無害な無党派的な非政治的な他愛のない漫画かというと、どうしてどうして、決してそう断言することは出来ません。人は人である限りにおいて政治的たらざるを得ない生き物なのです。そういう意味では「しんちゃん」も「コボちゃん」も極めて政治的党派的な存在なのだと言わざるを得ないのです。

▼漫画家の意図的必然的な選択?
ただし、彼ら子どもという存在が政治的党派的であるというのは、まさに彼らが「5歳」であるということそのものにあるのです。そして、彼らは本来は人(大人)への成長物語となるはずの入り口に立ち、「5歳」という原点にとどまり続け、そこから動こうとはしません。むしろ、これらの漫画ではこの「5歳」という設定が他では代替できない積極的な意味を持たされているように見えます。どういうことなのでしょうか。
その解答の一つは、その子ども達には大人の常識の世界に入るための決定的な条件が欠落しているということ、言い換えれば、まだその年齢に達していないということがあります。
もしかすると、彼らを主人公に据えた漫画の作者たちは、その欠落した条件をこそ、稀有の価値と認識して、大人にとって当たり前とされている価値観を、笑いとギャグによって相対化する意識革命を試みたのだと言えなくもありません。
(2)に続く

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