教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

フリースクールに関わるアシスタントたち(1)

2010年04月29日 | フリースクール
フリースクールに関わるアシスタントたち①

▼「悩み」を抱える教員たち
 読売新聞の「教育ルネッサンス」で「親と向き合う」シリーズが始まり、2010年4月17日(土)はその2回目。見出しに〈「復数担任」で負担軽減〉とある。
 1回目の前日は「モンスター・ペアレンツ」の親の悩みに向き合いながら対処する教員の姿が描かれていたが、今回は「中1ギャップ」にどう対処するか、である。だが、問題は中1ギャップのその当事者や親が訴えてくる問題への対処の仕方ではなく、それをうまく受け止められない教員の姿である。そこで「何か教員が支え合う仕組みはないか」と考え、始めたのが復数担任制だという。
 東京都新宿区には、「授業改善推進員の制度」があり、退職校長が若手教員の相談に乗るらしい(退職校長たちで大丈夫か?それも心配だ)。

▼生徒の問題は学校でつくられる
 何のことはない、そこから見えるのは、大学は出たとしてもそのまま教壇に立つ(この言葉はもう死語か?)にはとても不安である教員の姿である。若さに溢れ、問題がなければそれでいいのかも知れない。しかし、いわゆる「中1トラブル」(これも教師サイドの見方だ)を起こした生徒に向き合い親の要望を受け止めるには、あまりにも人生経験に乏しく頼りない。とても教科学習の指導以外は任せておけない。それが現状である(でも、教科学習だけなら学習塾の先生の方が上か?)。そういう教員のキャパの狭さから何割かの不登校生も生まれているとも言える。

▼薫陶を受けることもなく指導を任される新米教師
 一般の民間会社のような組織であれば、まずは新人教育があり社員教育がある。が、学校というところは、世間のルールも社会人としての感覚も十分に身につかないうちに、ベテランの教員(こういう人たちも井の中の蛙の場合が多い)と同様に教科の指導やクラスの運営を任される。自分の経験に照らして言うのも何だが、大学卒業の頃はおろか、大学院時代を含めた20代だけでなく30代になっても生徒の思いに向き合いその子に合った進路に導くということには未熟なことが山ほどあったように思う。一時、教員の社会での実習経験の必要性が叫ばれたのもそういう背景があったからである。

▼生徒の個性を受け止められない教師
 今になってようやく感じることだが、これから大人の世界に飛び立つ準備をしている子どもたちに向きあうには、豊富な人生経験の裏打ちがどうしても必要だと言うことである。学校の教科学習の下請け機関である学習塾や進学塾であれば、少なくともイキのいい教科指導があれば事足りる。が、成長の途上で様々な悩みや疑問を抱えたり、学校では十分に生かし切れない自分を感じたりする子どもに真正に向き合うには、それだけではとても足りない。しかし、現実にはそれを受け止められる先生が学校にどれだけいるだろうか。そういう個性的な生徒ではない大部分の生徒に重きを置かなければならない事情もあって、結局はそういう生徒は学校から離れてしまうことになる。

(②に続く)

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※おことわり::ブログ記事移動のお知らせ※

2010年04月29日 | 「大人のフリースクール」公開講座
※おことわり::ブログ記事移動のお知らせ※

 今まで教育を色々な角度から論じてきましたが、総じて周辺的外堀的な印象が強かったように思います。隔靴掻痒と言いますか、どこか評論家的な机上の論的な印象も強かったかなとも思います。

 そこで、今後はフリースクールという子どもたちのいる現場から日々感じたこと考えたことなども交えながら、日本の教育の問題は何なのか、なぜ日本の学校教育からこれほどの不登校生が生まれるのか、こどもの育ちと学びで大事なこと、教育と学びの違い、学校教育とフリースクールで異なること、教師主体の教育と子ども主体の学び、古典的教授法と現代、現代の子どもたちに必要とされるもの、今後の教育のあり方…など、より具体的に論じていきたいと思います。

 ただし、今までのようにあまり長文ではなく、日々子どもたちと触れ合う中で感じたこと、考えたことなどを──twitterなどが好まれるご時世でもありますから──肩肘張らず、比較的短文で、その分回数を多めにしていわばメモ書き風に書き綴って行きたいと思います。

 また、今まではこの「教育落書き帳」と「いきいきニコラ通信」とで、教育その他の記事をあまり分けることなくアップしてきましたが、今後は
教育関係の記事は主として
教育落書き帳」に
http://blog.goo.ne.jp/gootyokipapa/
その他の政治、社会、文化的なことは
ロゴス&パトス氏の日々の戯言
http://blogs.yahoo.co.jp/toppincho
というふうに分けたいと思います。
※「いきいきニコラ通信」は4月末日で終了したいと思います。
 引き続き読者でいて下さる方は、「教育落書き帳」か「ロゴス&パトス氏の日々の戯言」の方へ移動をお願いいたします)

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井上ひさしさんに合掌

2010年04月14日 | 社会

井上ひさしさんに合掌

▼「ひょうたん島」で言葉の表現に出会う
  当時子どもだった私がテレビドラマの楽しさを知ったのはたぶん「ひょっこりひょうたん島」が最初ではなかったかと思う。軽快な音楽に乗ってひょうたん島が海の上を移動しながら様々な事件に遭遇するという奇抜な発想のドラマは、子どもの私の気持ちを沸き立たせた。ドラヒゲ、ドンガバチョ、博士…当時としては斬新なエンターテインメント性に裏打ちされた豊かな日本語の表現の数々がそこにあった。日本語という言語がこんなに素敵な表現力を内包していること、そして人と言うものはこういう言葉を通して生き思考するのだと言うことを、井上ひさしさんの「ひょうたん島」は子どもの私に身体を揺すぶるような感覚の覚醒=感動を通して教えてくれたように思う。今思うと、それがその後の私の行動原理の基板のひとつになったのではなかったか。

▼一番ノーベル賞をとってほしかった人
 残念ながら私は作家・井上ひさしさんの忠実な読者ではなかった。しかし、机上の勉学を通してではなくその生きざまの中から叩き上げ開花させた類まれな日本語の才能はいつも畏敬の対象であった。だから、何人かの日本の文学者がノーベル賞を受賞したりその候補に上がる度に、「井上ひさしさんこそノーベル賞にふさわしい」と密かに思い、それが実現することを願っていた。しかし、何語にも置き換え可能なグローバル性のある日本語を駆使する作家が国際評価を得る中で、井上さんの日本語の仕事の偉大さはあまり海外では評価されていないようにも見えた。そのひとつの要因は、井上さんが紡ぎ出す日本語による表現の見事さは、その還元不能なほどの見事さにおいて、外国語への翻訳はとても難しかったのかもしれない。一時は翻訳家の怠慢とも考えたが、詩の言葉が翻訳不可能な場合が多々あるように、遅筆堂・井上ひさしさんの戯曲や小説の言葉も同様の困難さにぶつかったのだろうと考え直した。

▼ただ合掌
 井上ひさしさんの評伝的なことはここでは語らない。私の柄ではない。一読者としての私的な思いに留めておきたい。あの飾らない人懐っこそうな笑顔を思い浮かべながら、ただ合掌するだけである。それにしてもちょっと早過ぎはしないかい。もっともっと豊かな日本語を紡ぎ出してほしかった。井上ひさしさん、あなたが去った今、あなたが残した日本語をできるだけ私の身体を通して響かせてみたいと思っている。

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