教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

やめたいね大人による中傷やイジメ

2021年10月23日 | 日本社会
秋篠宮家の長女・眞子さん(敢えて「様」とは言わない)に対するネットによる誹謗中傷、いわゆる「ネットいじめ」が止まない。ますます過熱気味だ。

厄介なのは「正義感気取り」の奴だろう。自分の行為がもしかしたら加害行為かもという自覚がない。自省がない。「自分は良いことをした正しい人間」だと思って疑わないのだ。

個人的には、皇室を離れ、一市民になる決意を応援してあげたい。今までの人権のない人形はむしろ可愛そうだった。それに世間で二人を叩く理由は何ら彼らの責任でも落ち度ではない。置かれた条件の中での小室圭氏の努力も認めたい。

後は、このスマイリーキクチさんの言う通りだ。
クリックしてどうぞ。


今、敢えて「あたらしい憲法のはなし」を取り上げる--ぜひ一度は読んでみて!

2014年01月30日 | 日本社会
今、敢えて「あたらしい憲法のはなし」を取り上げる--ぜひ一度は読んでみて!

▼今、こういう文章を書かねばならないことをとても悔しく思う。自民党やその政権を陰陽の側面から支えてきたマスコミ等で「憲法改正」論議は起きてはいたが、現・安倍政権になってから、世論の反対の声にも何のその、問答無用で突っ走ろうとする空気が濃厚である。
 そういう人達の多くは「今の日本国憲法は時代遅れである」と言う。本当にそうであろうか。どこがどう時代遅れだと言うのだろうか?そう主張する人達の言動にも注意を払いながら、ぜひ検証してみたいものである。

▼ここに、太平洋戦争終結後の一時期、文部省自身のお墨付きによって(著作権所有 著作兼発行者 文部省)、中学校1年生用の社会科の教科書として配布された本の復刻本がある。題して『あたらしい憲法のはなし』(文部省)とある。その最初の見出しには「一 憲法」とあり、このように始まる。
「みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところで、みなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。…(以下、略)」

▼本書では、日本国憲法の大事なこととして、国の「最高法規」として国のやり方を規定すると同時に、国民の権利として「基本的的人権」を取り上げています。そして、憲法の前文にも触れ、「前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならない」と言っています。この前文にある考えとは「民主主義」「国際平和主義」「主権在民主義」の三つの考えであると。

▼先に「今、こういう文章を書かねばならないことをとても悔しく思う」と言ったのは、このことと関係があります。現在、政府と政府与党の間で「憲法改正」の動きが進んでいます。先の明治憲法(大日本帝国憲法)下で第二次世界大戦の戦禍を経験した日本が、その体験を踏まえ国際社会の一員として二度と戦争を起こさないという国際平和の祈りを込めて作り上げたのがこの「あたらしい憲法=日本国憲法」であったはず。

▼ところが、今、その憲法がなし崩し的に読み替えられ、改定されようとしています。先例として「教育基本法」の改変がありました。そして、今度は改変の本丸の日本国憲法が危機に晒されています。そして、戦前の日本への回帰さえ理想のように唱えられる。が。それは大多数の国民にとっては塗炭の苦しみであったはず。
 そこで、果たしてそれでいいのか、今一度「日本国憲法」を紐解いてみませんか?様々な小冊子が出ていますが、ここでは「童話屋版」「青空文庫版」(無料)を紹介しておきます。日本人としてどう生きるのがいいのかを考える教材としてもどうぞ。

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緊急ブログ「少年急死:障害支援施設の職員が暴行 10人に虐待(毎日新聞)」について思う

2013年12月13日 | 日本社会
">「少年急死:障害支援施設の職員が暴行 10人に虐待(毎日新聞)」について思う

▼毎日新聞の報道では、「千葉県は12日、同県袖ケ浦市の県立障害者支援施設「袖ケ浦福祉センター養育園」に入所していた知的障害のある19歳の少年が急死し、死亡前に施設職員から暴行を受けていたことを明らかにした。同園ではこの職員ら5人の男性職員が、死亡した少年を含む利用者計10人を繰り返し虐待していたという。県警も園関係者から事情聴取を進めており、暴行と死亡との因果関係などを調べている。」
 と報じている。
 「 同園は社会福祉法人・千葉県社会福祉事業団が運営。」「県警の司法解剖では、小腸に開いた穴に細菌が入ったことによる腹膜炎が死因だった。」
 ともある。他にも10人程度虐待されていたとある。

 
※他紙でも報道されている。参照されたい。

▼具体的に誰が調査し、審査し、認可したのか?これは潜りの施設ではない。公的に認可された施設である。曖昧な対応では許されない。しかし、このような報道はこれが初めてではない。似たような事例が各地の施設で見られる。報道は氷山の一角に過ぎない。これらの施設は「障害支援施設」と呼ぶには程遠い。ほとんどそこからの立ち直りを期待されない「知的障害者の収容施設」となっている。
 そういうところではほとんど人権も無視されている。ペットなら人になつけば可愛がられもするだろうが、知的障害の子ども達は時にはペット以下の動物の扱いも受ける。虐待が横行しているところが多い。職員たちの人権意識も低く、支援というよりは日常的な侮蔑や虐待であろう。

▼問題は、この種の「問題」は何も公的な福祉支援施設に限らないということである。「教育」を看板としている施設にも多い。そこで「支援」というのは名目上のことであって、実際は「収容施設」に成り果てていることが実に多いのだ。
 看板には「学習支援」を掲げてはいてもそれは宣伝上の建前に過ぎず、実際は制度の隙間を巧みに利用した収容施設になっている。なぜなら、「教育」の資格に関することは日本の場合、文科省が一手に引き受けており、教育ではほとんどビジネスにならないからである。だから、そこでは学習はほとんど行われていないか「学習」と呼ぶにはあまりにもお粗末な対応であったりすることが多い。。実際、その構成員、子ども達や職員たちを見ればそうならざるを得ないという現実もあったりする。

▼どうしてこういうことが日本の社会では横行しているのか?一つには障害者等に対する日本人の人権意識の低さにある。障害のある人達を頭から見下し、蔑み、インクルージョンという考えからはとても遠い。そして、「それでもよしとする風潮」がある。
 もう一つには、それを支援するのではなく、資本の論理で障害者を捉え「障害者ビジネス」とする悪しきあり方である。もちろん多くの人々が真剣に支援の活動に従事している。しかし、その評価は決して高くない。ほとんど当事者の献身に支えられ維持されている。それをよしとせずビジネスと考える人達は、その人達の弱みに巧みにつけ込みビジネスとする。そして、「悪貨が良貨を駆逐する」のだ。

▼だから、知的障害者を支援するという名目の福祉施設の話ではあるが、それは決して対岸の火ではない。既に教育を名乗る施設においても同種の問題は様々に起きている。そこは本当に「教育支援」の施設なのか、それとも障害者を食い物にする「ビジネス施設」なのか、よく見極めることが必要だ。これはそこが福祉施設なのか教育施設なのかを問わない問題である。当事者には任せきれない伴走者としての保護者としての眼識が問われる問題でもある。単なるパンフレットに惑わされてはいけない。当事者が安心して、意欲を持って関われる施設であるかよくよく見極めたい。

※緊急ブログです。文章の不備にご容赦を。気付き次第訂正します。

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《あしたは起きて巣をつくる》−−--あるアホウ鳥=寒苦鳥の雑感

2013年07月11日 | 日本社会

カッコーの《托卵》についてお話された方に誘われて…思いつくままに 

《托卵》と言って、自分では巣を作らず、自分の卵をこっそりと他の鳥の巣に産み付ける不埒な鳥がいる。カッコー(郭公)である。しかし、一方では《春告鳥》としてその鳴き声が珍重され愛される鳥でもある。この両義性が実に面白い。
 では、もしこんな鳥がいたらどうだろう?(随分前、まだ若い頃に仕入れた話の一つ)
「こいつはきっとアホに違いない。間抜けなのかも知れない。いや、足りないのかもしれない…」そんなことを思うのではあるまいか?その話はこうである。
 インドのヒマラヤの雪山にあるツガイの鳥がいた。人々はこの鳥を《寒苦鳥・かんくちょう》と呼んでいたそうな。奇妙な名前だが、その訳はこうである。る。

▼万年の雪山とはいえ、昼の間はとかく陽気がいい。鳥たちもポカポカとした日射しに誘われて野や山を巡り、日がな一日を暢気に過ごす。誠に結構なことには違いない。ところが、やがて夕方になり夜が来る。めっきりと寒さが身に染みてくる。そうすると、さすがに怠惰なこの鳥たちも「これではいかん」と思い直すのか、少しは真面目に考えるようになる。自分たちには眠る巣がないのだ。
 そこで、寒さでぶるぶる震えながら、雌鳥はこう鳴き叫ぶ。
 「寒いわ、凍えて死にそう」
 雄鳥も同意し、涙を流しながら固く決心する。
 「明日は起きて巣を作る。明日は起きて巣を作る」と。
 ところが、根っからの怠け癖が悪魔の囁きをする。「なあに、そのうちやればいいさ。何とかなるさ」と。
 それでまた次の日も、日中の暖かい間、うかうかと過ごしてしまう。そしてまた夕方となり突き刺すように冷たい風が吹き付けると、彼はまた鳴き叫び始める。
 「明日は起きて巣を作る。明日は起きて巣を作る」と。

 ▼何のことはない。毎日がこの繰り返しである。この結果、先のように呆れたような声があがることになる。寒苦鳥はアホウ鳥、というわけだ。
  しかし、これは《アホウ鳥》だけの話なのだろうか?実際には人々はそんな鳥は見たことがないし、どこに住んでいるかもよく分からない。どうやら架空の鳥らしいのだ。(でもネット上にその写真があるから面白い)         
 そんな話、どうして作られたのか?どこの誰が作ったのか?
 
▼それは我々の《共同幻想》なのかも知れない。我々の奥処に眠っている無意識の夢の物語なのかも。いやもしかしてそれは我々自身の姿なのかも知れない!夢と現実とがあざなえる縄のごとく絡み合い我々は生きている。
 自分にとって、我々にとって《アホウ鳥》とは何なのか?まさに夏の夜の酔狂として思惟を宙にさ迷わせる。
 
▼ちなみに、このアホウ鳥こと寒苦鳥は、ついに自分の巣を作ることなく寒さの中で死んでいく。これは仏教の法話で《懈怠の心》(なまけ心)の説明として用いられるとか。どんな人の心にも寒苦鳥は棲んでいる。仏教ではそう説くようだ。
 今やるべきことを明日へ明日へと先伸ばしして、遂にはやらずに終わってしまう。確かに《明日は明日の風が吹く》で、明日に伸ばせばいいものを、今日やってしまおうとして失敗することもある。ある程度の時間が必要なことも確かにある。
 しかし、《明日は起きて巣を作る、明日は起きて巣を作る》は、今やろうとしないことの逃げ口上で、やらなかったことの言い訳になることが多い。
 
不登校の相談を受けていても、そう思うことが多々ある。望んでいながら決心がつかない。態度を保留とする。今日いま直ぐにやるべき巣作りを明日に延ばしてしまう。明日やるということは結局やらないということに繋がる。《明日やろうは、バカやろう!》という言い方もあるようだ。
 《その時どう動く!?》相田みつを氏を持ち出すまでもなく、それが運命を決することもしばしばだ。
 今、自分たちがどういう状況にあるのか、どうすることが必要なのか?しかと見据えて行動したいものだ。
 
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「全国引きこもりKHJ親の会」代表・奥山雅久さんとの出会いと別れ

2011年10月08日 | 日本社会

在りし日の奥山雅久さん 2010年08月08日 ニコラ・ぱいでぃあ記念集会での講演から

▼私の中でずーっと気になっていたことだが、本当はもっともっと早く書かなければならないことがあった。それを書こうと思っていたちょうどその時、あの3・11の東日本大地震が起き、その後に福島第一原発事故が続いて起き、あれやこれやでとうとう今まで延び延びになってしまった。今も私には山のように雑用があり、中々落ち着いて書く余裕がない。でも、もうこれ以上触れないでいるわけには行かない。一言であれ、スチーブ・ジョブズ氏の死についてさえ言及したではないか。何でそれが出来ないか!?そう問われれば、もう、何としても言い訳が立たない。こうして今、自分は生きているのだから。

▼それは全国引きこもりKHJ親の会代表の奥山雅久さんの逝去についてである。今年の春、奥山さんは帯津三敬病院で亡くなった。数度の癌を戦い抜き、身障者の身体となり、杖をつきながらも自らで車を運転し、全国各地を可能な限り駆け回りながら次々と支部を結成し、全国に150万人もいると言われる引きこもりの人たちのために死の直前まで壮絶な戦いを繰り広げた末、ついには厚生労働省での「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」の制定にまで漕ぎ着けた上での、重要な懸案を使命を果たし終えての死であった。

▼私と奥山さんとの出会いは、奥山さんが全国引きこもりKHJ親の会を埼玉で立ち上げたことに始まる。以来、濃淡の違いはあるものの、親密なお付き合いは死の直前まで続いた。毎月岩槻市で開催された親の会には随分参加させていただいた。その間、私どもで発刊していた月刊教育ネットワーク誌『ニコラ』にも関心を持たれ、引きこもりとの共同編集の話もされたが、既に長らく不登校専門に限定して発行してきたこともあり辞退したということもあった。全国引きこもりKHJ親の会専門の機関紙『旅立ち』を出されたのはそれから少し後のことであった。また、奥山さんに請われて当時まだ衆議院議員であった上田清司氏(現・埼玉県知事)のいた衆議院議員会館に請願のため同行し、文科省や厚労省の責任者に要望書を提出するのに立ち会ったこともある。

▼また、病を持っているとはいえ超人的な活動をする奥山さんを援護する意味もあって、毎月「ぱいでぃあ広場」という引きこもりの当事者たちのフォーラムを開催もしてきた。そこに集まってきたのはみな大学生などの高学歴の青年たちであったのは、私たちの広場の特色だった。そして、引きこもりの人のための訪問サポート士の取得講座に招かれたりもした。また、共に県内の保健所の職員向けの講座にご一緒して、二人で県内の職員たちに話したこともあった。また、一昨年、韓国から10名ほどのソーシャルワーカーの人たちが不登校や引きこもりの問題を調査研究するためにやって来て(前年にはやはり韓国からワールドリーダー教育を受けているという10名ほどの中学生たちが訪問していた)、フリースクール・ぱいでぃあでの私たちとの話し合いの後、奥山さん達とのKHJ親の会とも合流し、日本のそういう問題について意見を交し合った。そして、最後にお会いしたのは、昨年の夏、私たち教育ネットワーク・ニコラ結成15周年&フリースクール・ぱいでぃあ設立10周年の記念集会の場であった。

▼その時、奥山さんはご夫人と一緒に来られ記念の会を祝って下さった。奥山さんは元気なお声で講演を行われた。機会があれば是非テープを起こして紹介したいが、とても凛としていて人間的滋養に満ちた講演であった。その講演の中でも、奥山さんは今3度目の癌に罹っているが克服するつもりであること、癌を患ったことによって瞬間瞬間意味ある人生を送っていることなども述べられた。だが、その癌が明るい表情とは裏腹に相当に酷い状態にあり、物凄い苦痛に耐えていることも、講演のあとの休憩時間の時に伺った。それが生前の奥山さんと直にお話した最後となった。訃報が舞い込み、岩槻のお通夜の席で、まるで生きているかのようににこやかに笑いかけてくる祭壇の写真と対面した。しばし無言で合掌した。祭壇の横にはご夫人だけでなく、奥山さんが最後の最後まで心に掛けていたであろう息子さんもその横に座っていた。

奥山さんはその死によって、全国引きこもりKHJ親の会(家族連合会)の職を全うしただけでなく、親子の愛憎のドラマにもまた終止符を打ったのかも知れなかった。母親の側に大人しく腰掛け、献花する人たちに会釈を繰り返すまだ初々しさの残る好青年の息子さんの姿を見て、何故か熱いものがこみ上げてきた。互いに激しく罵倒し合い、遂にあなたとの和解はならなかったけれど、奥山さんの行動の陰にはいつもあなたの存在があったのだ。帰り際、副代表の中村氏との会話から出てきたことだが、国会で法制化に漕ぎ着けたことで、奥山さんの心の中には会長としての一つの大きな仕事を成し遂げたという思いが今回の死去と繋がるのではないかということであった。それには私も頷けるものがあった。よくぞここまで満身創痍の身体に鞭打ってきたものだと思う。「奥山さん、もうゆっくり休んでください。後はみんなが引き受けてくれるでしょうから」そう思ったことであった。合掌。


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効率・マネーの支配する社会~日本人の4度目の被爆体験から思うこと~

2011年08月09日 | 日本社会

▼今日8月9日は2個目の核爆弾が長崎に投下された日。各地で核廃絶平和のための式典が、広島に続き行われる。1個目の広島への投下で人間業とは思えない破壊力を確認した米国がなぜ手持ちの2個目までも敢えて投下しようとしたか…?
 そこには諸説があり、もし日本が白人国であればそもそも原爆を投下するという発想は生まれてこなかっただろうとも言われている。
(しかし、実際は二度の原爆投下で日本が終戦を決意したわけではなかった。日本が完全に白旗を掲げたのは樺太等へのソ連の参戦・南下があったからであった。)

▼いづれにせよそのような二度の大惨禍(第五福竜丸の事件を入れれば3度の核被爆)をくぐり抜け非核反戦を固く誓ったはずの日本が、いつの間にかアメリカの核戦略の傘下に入り、アメリカの指導を受けて世界有数の原発大国に変身してしまっていた。そこに国際社会に翻弄される日本、天然資源に乏しい日本の悲哀がある。
 しかし、それにしても…という思いは以前からずっとあった。私が関わっていた太田堯先生(元日本子どもを守る会会長・東大名誉教授)主催の「子どもの目」の学習会でも、先生は「マネーが第一となった日本社会」ということを何度も口にされていた。

▼今月から購読し始めた東京新聞の今日の記事に、今年の6月9日スペイン・カタルーニャ国際賞授賞式(カタルーニャと言えば、ピカソ・ミロ・ダリ・カザルス・ガウディ…様々な芸術家を想起する)での作家・村上春樹氏のスピーチが全文掲載されている(時に注目記事が全文載るのが三大紙以外のいいとこだ)。
 そこに「核への「ノー」の叫び続けるべきだった」という横断のサブ見出しが挿入されている。負けた元凶は何か。「効率」だと氏は言う。これは太田堯氏の言った「マネー」と同じことである。

▼先日、さいたま市浦和コルソ7Fで開催された「戦争平和展」に行ってきたが、今回は会場の半分以上が原発関係の出し物で占められていた。第二次世界大戦について体験的に知っている人もだんだん少なくなり、記録作業も急がれる。会場には若い人も訪れ訊ねるが伝達作業も困難があるようだ。やはりやがて風化してしまうのだろうか。
 ここでもやはり来場者の第一の関心は原発にある。福島第一原発の事故で日本は計4度目の原子力災害を体験したことになる。今回で改めて思うことは、それが今までは廃絶に向かうよりはまがい物の「安心」「安全」「免疫力」を過信するように向かっていたのではないかということ。被爆国としての使命を放棄し、日本は国際社会の「効率」の論理に飲み込まれて来てしまったのである。

▼「効率」「マネー」の論理に対抗できる指針を国家目標として打ち出せるのか否か…。そういう価値観の目標設定が今日本国に課せられている。とても重たい課題である。もし、それが打ち出せなければ、一時期抗ってはみるものの、日本はやはりもとの「効率」「マネーの」論理に捻じ伏せられていってしまうだろう。
 もちろん、それは国家としての目標だから、個人がどんな選択をしようとそれは個人の自由であるということは可能なレベルの社会に我々は生きている。それが最後の救いかもしれない。


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原発の火はプロメテウスの火ではないか? ─人と原子力と─

2011年04月24日 | 日本社会

▼今なお進行しつつある東日本大地震に誘発された惨状を前にして、この地球上に君臨することになった「人類とは何か」ということについて、改めて考えさせられる。
 「人類」を定義付ける言い方は今までも幾つも挙げられてきた。ホモ・サピエンス、ホモ・ファーベル、ホモ・エレクトス、ホモ・ルーデンス…等々。知的存在、物を作る人、立って歩く人、遊べる動物…。確かに我々人類は他の動物達と比べると一等抜きん出ている存在と言えそうだ。それは疑いようがない。そして、こういう人間存在の捉え方の延長線上に「火を使う動物」という定義もまた成り立つ。

▼他の動物は火を恐れはするが使いこなせない。チンパンジーでも無理である。つまり、人は火を使いこなすことによって文明・社会を発展させてきたとも言えそうだ。この「人間と火」との話に関するいろいろな言い伝えも残っている。ゼウスの神殿から火を盗み出し人間に与えたというプロメテウスのギリシャ神話の話もその一つ。その結果、彼はゼウスの怒りを買い、永遠の苦悩を受けることになる。シジフォスの永遠の徒労の苦役もまた同じことだろう。なぜ、ゼウスはプロメテウスをそれほどまでに苦しめるのか?

▼幸か不幸か、我々人間は他の動物達が従属する本能の連環を脱し、最も高度に進化した知的生命体として地球上に誕生したのは地球誕生の歴史から数えて46億年、生命の誕生から38億年近くたってからのことである。だから、人類の歴史はせいぜい500万年くらいなもの。それが瞬く間に進化を遂げ、今や人類は実質的に神の領域の火=原子力さえ扱い始めたのである。

ゼウスは人類に火を与えたプロメテウスになぜ永遠の苦悩を与えるほど怒ったのか。今にしてよく分かる気がする知的レベルに置いて、人類は神の領域にまで手を触れるようになったのは間違いない。もしかすると今後さらに様々な叡智を働かせて、それをほぼ完全に制御する技術も取得するかもしれない。それは学問の研究・進化によって可能となるかもしれない。だが、肝心なことはことは我々は人間であって神ではないということである。神の心は持っていないということである。自然の力を前にちっぽけな人知で自惚れない方がいい。我々はせいぜい3次元4次元の世界でしか物を見ることができない。
たとえるならば、我々裸の猿である人類が原子力を扱うということは、チンパンジーが人から盗んだ火を弄ぶ行為に等しいということである。

▼つまり、どんなに科学が進み、技術革新がなされようと原子力を扱うのは神ならぬ不完全な人間存在であるということである。これが抑えるべき大前提である。もし、我々が今後それでもなお原子力利用を推し進めるというのであれば、もともと神の火である原子力を盗み使用する我々は絶えずゼウスの永劫の怒りに触れていることを忘れてはなるまい。

※これは3月31日、計画停電の切れ目に急遽挙行した卒業式での祝辞・訓示の一部を加筆訂正したものです。


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「想定」した人と「想定外」の人と「フリースクール」の活動と

2011年04月05日 | 日本社会


▼今回、未曾有の大地震と大津波で命を失ったり、被災された方々に相応しい言葉が思い浮かばない。その事実の前にただ頭を垂れ、合掌するのみである。そして人知を超えた自然の非情さを思う。助かった人たちには、何はともあれ「助かってよかったね」と素直に喜びたい。
 しかし他方で、その大津波から辛くも逃れた人たちの話も幾つも聞こえてくる。それで、より一層複雑な気持ちにさせられる。これは本当に天災だったのだろうかと。そんな素朴な疑問がわいて来る。

▼大津波や福島原発事故にしろ、大勢の人だけでなく行政の人間や専門家までもが「想定外」と言えば、一部の反対派勢力が声を荒げて「想定していたこと」と批判したとしても、「誰もが避けようがなかった」「仕方のないこと」だったのだと納得させられてしまう、そんな風潮がないわけではない。「想定外」と言ったら聞こえはいいが、そもそも対策の不備があったということであって、本当はみな「人災」というべきもなのではないのか。

▼最初に読売新聞が報じたことだと思うが、「生存した人たちのエピソードが多く報道されるにしたがい、津波に対する意識の高い人が、生存確率に明らかな差があることが、分かってきた」というのである。「たとえば岩手県宮古市の姉吉地区では、明治と昭和の三陸津波の経験から、先人が『此処(ここ)より下に家を建てるな』と、標高60メートルの地点に石碑を建てていた。住民たちはその警告を守ってきたため、今回の津波でもすべての住宅が被害を受けなかった」。(読売新聞3/30報道)

▼これに類することは、翌日の朝日新聞でも報じられた。東松島市の野蒜(のびる)地区の「佐藤山」の話である。この地震が起きるまで佐藤さんが私財を投げ打って私設の避難所を設けたことを、誰もが笑っていた。だが、結局はこの「バカな行為」が70人もの人々の命を救うこととなった。「周辺では(行政の)指定(した)避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった」という。だが、「佐藤山」は指定されなかった。他にも、市議の遺言となった非常用避難通路設置が小学生たちの命を救ったという例もある。

▼ここに、どういうわけか、私はあの「ノアの箱舟」や「炭鉱のカナリヤ」の話などを脈絡なく重ね合わせてイメージしてしまう。そして、自分たちがやってきた不登校生支援のフリースクールの活動も
 おそらく、これらの活動は「常人」にとっては、かなり「奇妙」な「馬鹿げた」行為にしか見えなかったことだろう。それらを「想定」して活動する人間に、「常人」の誰がまともに相手しただろうか。非難はしなくても「理解不能」の眼差しで眺めていたのではなかろうか。不幸にも「想定」が現実化した結果から見ることでスポットライトが当てらることになったが、でなければ酔狂の戯れ事として一笑に付されたに違いない。だから、思いは複雑なのだ。

▼今この辺りは、市議選、県議選のための選挙カーが行き交っている。この時とばかりに様々な公約を掲げて市民に媚びている。日本の危機的状況さえも選挙運動の餌にして。だが、我々の活動にさえどの政党も何の寄与も支援もて来なかったという事実がある。今、どの政党も掲げる「わが党の成果」の一つに駅のエレベーター設置工事がある。私たちのところに車椅子の子どもが通ってきていた時は聞く耳を持たなかったのに。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というが、「前例のないこと」には想定外どころか想定そのものが出来ないのだ。
 大津波という想定外の災難にじっと堪える日本人の姿を海外で《我慢》と称えられたが、福島原発事故のような人災さえも天災のように受け入れるだけだと分かったら、やがてその賞賛は「怒りを忘れた日本人」として国際的に激しい批判と揶揄に変わるのではないか。それでも「従順な国民」と持ち上げるのはたぶん一党独裁の全体主義国家くらいのものだろう。ふとそんなことを思ってしまう。
 唯一の嬉しい「想定外」の出来事は、行政が戸惑うほどのボランティアの若者たちが生まれているということである。縮み志向の日本社会の中で若者が指弾されることが多いが、決して捨てたものではない、そんな希望を持たせてくれる。

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原発パニックの買い占めと助け合いのCMと

2011年03月28日 | 日本社会


▼「被災地の姉からガスコンロとボンベが欲しいと頼まれたが、どこにもない」と友人は嘆いた。彼のお姉さんは仙台の大学病院の医師。ちょうど仕事で三陸にある病院に出向いていたところ、巨大地震と大津波に襲われた。水は四階まで迫ったが、幸い五階に逃れて助かったという。

▼今の自分には被災地の惨状にはただ祈ることしかできない。が、彼らを物心両面で後方支援することはできる。そんな我々が我欲にまみれ、買いだめに走って互いの首を絞め合っている。どういうことか、これは。被災者の《我慢》や《自立への努力》に比べて余りにも浅ましい。

人は一人で生きているのではなく、社会の中で《お互い様》の中で生きている。人生、山もあれば谷もある。だから、くじけずに頑張ろう、応援するから…。― 今、そんな他人として当たり前のことが見直されているのかもしれない。それなら、そんな風潮に関係なくNPO関連法案のできるずっと前から今まで一市民の立場で、誰に指示されるでもなく黙々とやって来た身として、とても嬉しいことだ。

▼しかし、ちょっと待て。どこかおかしい。「公共広告機構」をはじめ、なぜこんなに似たようなCMが溢れてきたのだ?口当たりのいい言葉、目を和ませる映像…誰かが仕組んだものではないか?
 それが、「これが次の流行でーす!」のように、作られたブームなら、日本人の特性として、津波のように打ち寄せては津波のように引いていくことだろう、一過性の現象として。それは内実として、原発パニックの買い占めと何ら変わらないものではなかろうか。

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