教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

《蚤の調教》から《不登校》の問題を考える(2)--騙されたと思ってもう一度跳んでみろ!

2013年04月22日 | 日本の教育
《蚤の調教》から《不登校》の問題を考える(2)--騙されたと思ってもう一度跳んでみろ!

▼「ぱいでぃあ」に相談にやってくる子ども達の様子を見ていても、その大部分が(失礼な言い方で申し訳ないが)調教されたノミのようになって来ることが多い。。本来はもっと朗らかで、大らかで、好奇心いっぱいであったはず。小さい頃は《ねえ、どうして?》《ねえ、教えて!》と興味や疑問を次々とぶつけて両親を困らせたはず。ところが、今は《嫌い》《怖い》《○○たくない》等の人との関係性の否定と《どうせ自分なんて…》という自己卑下の塊となってしまっている。それでいて、自分が非難されるのを何よりも恐れ、悪いのは全て他人であり、一切の責任は他者にあると自己保身の思いで必死になっている。しかし、自分からは変わる等ということはまるで考えられず、棚からぼた餅のようにひたすら待ちの姿勢になってしまっている--そういうことがとても多い。

▼こういう調教された《ノミ》のような状況に陥ってしまった不登校の子どもを、いかにその状態から掬い上げるか?それが伴奏者・支援者としての我々の大きな課題となる。幸いにして私達のところに来て最後まで取り組んだ子どもの場合にはほとんどそういう例はない。が、不幸にして引きこもりの袋小路に入り込んで這い上がれなくなってしまった子ども達の事例を様々見てきた。ここで敢えて言うが、そういう子ども達に共通しているものがある(批判や利害の関係が絡んでか、こういう問題に関わる人達は直接言及することを避けることが多い)。何だと思いますか?そもそも、不登校になる子ども達は総じて素直で真面目である。だから、周りの人が「こうしたらいいよ」ということには素直に従ってしまう。逆らえない。たとえそれが自分の意に反することであっても。その結果、ますます不如意な結果に陥ってしまう。その反動で、心を許せる者達には手当たり次第に当り散らす。時には自爆してしまう。堂々巡りの出口なしの悪循環である。

▼素直で真面目であることは悪いことではない。だが、結果としてそれが自分という人間を生かさず自分を否定し自分を殺すことになる。不登校の子ども達が陥る落とし穴がここにある。一時代前の道徳律、《滅私奉公》等がこれに当たるだろうか。人に尽くすために己を虚しくするということは、人に良く尽くすために己を磨くのとはベクトルの向きが正反対である。誰からも良く思われようとして結局は自分育てをお留守にしてしまう。不登校の場合にこういうパターンが多い。もし、不登校になってからもそういう《善意》に従うならば、結局はこれまでと何も変わらないことになる。前の時には嫌な思いで不登校になったのだとしたら、この場合には善意にほだされてさらに深みにはまってしまったということになる。形は違うが構造は同じなのだ。

▼では、《不登校はどう考えるべきなのか?》《「脱・不登校」を実現するためにはどうしたらいいのか?》それが不登校問題の最大の課題だ。人の善意に従うことが結果として自分を殺すことになるならば、《自分を生かす》ためにはむしろその《善意》の甘い言葉を跳ね除ける勇気を持たねばならない。そして《一体、自分は何をしたいのか?》と自分の内心の声にじっくりと耳を傾けるべきである。もしかすると、非難を浴びることもあるかもしれない。しかし、《不登校》という《蟻地獄》状態から抜け出すためには、《自分で自分の意思で動く》しかないのである。もし、《自分の意思で動きたいけれども動けない》とか《動き出すのに自分や親の力だけでは不可能》ということであれば、自分の力になると思われるフリースクールなどを当たってみるといい(その意味でもフリースクール選びはとても大事)。長くてもほんの数年間、自分を生かすために頑張ってみればいい。それが免疫力となって後は自分の足で歩いていけるようになるはずである。だから、ノミの状態にある不登校の子どもたちに言いたい。「自分の人生を捨ててしまうな。撓められた自分に屈服するな。跳べ!跳んでみろ!自分でもう出来ないと思わされているだけなんだから。ガラスの蓋はもうない。思いっ切り跳んでみろ。そうすれば君はその地獄から脱することが出来る。全ては君が本来の自分を思い出して跳ぶかどうかにかかっている」と。

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《蚤の調教》から《不登校》の問題を考える(1/2)--ノミはいかにして調教されるか

2013年04月18日 | 不登校
《蚤の調教》から《不登校》の問題を達を考える

▼《蚤のサーカス》という言葉を、最近になって立て続けに聞いた。一つはドイツの「ノミのサーカス団」で「芸を見せていたノミたち」が今年の厳しい寒さで一匹残らず死んでしまったという4月3日のAP通信の記事。もう一つはこの《ノミの調教》に関連した教育の話(たぶん)。ノミのサーカス団の監督は朝、可愛いノミたち300匹がずべて輸送用の箱の中で死んでいたのを発見してショックを受けたという。幸い近くの大学の昆虫専門家から50匹のノミを調達することが出来て予定の公演に穴を開けずに済んだというのだが…。「今でもノミの調教師なんているんだなあ」と妙に感心してその記事を読んだ。ただ、その事件が起きたのは4月1日というのがちょいと気になる。

▼《ノミの調教》の話を初めて聞いたのはいつだったか?もう数十年前、私がまだ20代の頃である。記憶すべき重要なことはずいぶん忘却の彼方にあるのに、その時読んだくだらない文章の記憶が今でも残っている。人間の記憶って不思議だ。しかし、実際の《ノミ・シラミ》とはどんなものか。恵まれた時代を生きる今の人達にはあまり馴染みがないかもしれない。残念ながら(?)実は私もほとんどその体験はない。しかし、周りには確実にそういう子ども達がいたようだ。だから、うっすら残っている記憶の引き出しを開けて見るような感じだ。とにかく《蚤虱 馬の尿(ばり)する 枕もと》と「奥の細道」で芭蕉が読んだあの《のみ・しらみ》である。

▼そのノミは1~2ミリの小さな体ながら30~100センチほども跳び上がるらしい。画像を見ると、翅はないが後ろ足がとても発達している。野生の動物やペットに寄生するための生得的な能力であるらしい。ノミの調教師はこの類まれな能力=本能を巧みに利用する。まずノミたちを透明なガラスの容器に入れて仕込む。普段はおとなしくてもいざという時に発動するのが本能。ドンとテーブルを叩くとノミはびっくりして跳びはねる。はねるとノミはしたたかに頭や体を天井のガラスにぶち当てる。《イタタタタ…何だこれは!》そう思うはず。それを幾度ともなく調教師は繰り返す。その度にノミは何度も何度もガラスにぶち当たる。そうしているうちに、飛び跳ねるのが彼等の本能であるはずなのに、それを疑い出す。《跳ぶのは何かの間違いではないか?跳ぶのはいけないことなのではないか?》そうして、ノミは本来の本能の発動を制御し、わずかしか跳ばないことが本当なんだ、という風に調教されていく。そして、遂にはノミたちは絶対に高く跳ぶことをやめてしまう。そうなったら、もう透明なガラスの上蓋を取り外しても大丈夫である。ノミたちは二度と高く跳ぶことをしないのだから。

▼この話を書こうと思ったのは、facebookで「ノミは1ミリたらずの体で、1メートルジャンプが可能。しかし、一度10センチのコップをかぶせられるとその後はずーっと10センチしか飛べなくなる。あなたに見えないコップをかぶせているのは誰ですか?」という記事に接したからである。調べてみると、結構いろいろな方がこのノミの調教の話を取り上げている。本来はいろいろな能力を持っているはずなのだが、生まれや環境、ものの捉え方、仕向けられ方などによって、「自分はそんな能力はない」「自分にできるはずがない」と思い込んでしまう。そういう洗脳の仕掛けがいたるところに働いていることへの警告なのかもしれない。

▼一般に教育には《洗脳》と《覚醒》の働きがあると言われる。その秩序に従うことを望む場合には、意識的か無意識的かは別にして、《洗脳》的な教育を行うことが多い。それがペットや芸を仕込む動物などの場合には《調教》という言い方になる。困ったことにこれが対象を《可愛がる》という美名の下になされることがある。たとえば、北海道であったことだが、旅行者が《善意》で野生の熊のためにために食べ物を置いて帰った。それを食べた熊は人間のところへ行けば労せず食べ物が手に入ると思い、山を降り民家に出没するようになった。結果、その熊は射殺されてしまった。《可愛がる》行為がその熊を殺すことになった例である。

▼私たちは教育の持つこういう側面を絶えず考えなくてはいけない。学校というところは知らず知らず結果的にそういう子ども達を作り出してしまっていることがある。どこかに《ボタンの掛け違い》があるのだ。現在の福島での原発事故後の動きを見ても、子ども達を思う《善意》が結果として子ども達の命を削ることに与してしまったかのように見える。《不登校》の子ども達の場合もまた、そういうことの結果であることが多い。学校の先生が意図して不登校を引き起こす教育を行っているとは考えにくい。しかし、結果として12万人に及ぶ不登校の小中学生が全国の公立の小中学校から出ることになる。

(2に続く)

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《教育村》から避難する意味での《不登校》という現象

2013年04月14日 | 日本の教育
《教育村》から避難する意味での《不登校》という現象

▼福島の原発に批判的な人々はしばしば原発推進派の人達を一括りにして《原発村の人々》と称する。原発を推進することによって利益を得る集団に属する人達と言い換えてもいいかも知れない。そこに一定の決まり事がある訳ではないが、目には見えない、不文律があるのだと。

▼この《○○村》的思考は原発に限らない。日本の至るところにある。ごくありふれたーーそれが良いか悪いかは別にーー最も日本的な伝統的思考形態なのだ。例えば、学校内での決まり事、会社や仕事場でのルール、地域・町内会での決めごと、その土地独特の風土…等、枚挙にいとまがない。しかし、私達がそれを《○○村》と称する時、いい意味で使うことはまずない。そこにどんな批判が込められているのか?

▼日本人にとって《村》という存在との関係は複雑だ。悲喜愛憎こもごもである。現在、どの地方でも過疎化が進行して昔の面影はない。それには様々な理由が挙げられるが、その一つに--灯りにひかれた羽虫のように--若者達が都会のネオンに憧れ新しい生活を求めて《村》を捨て去った結果でもある。「なぜ若者達は《村》を嫌ったのか?」「いや、嫌ったのではなく追い出されたのだ」という人もいるだろうが、結論は同じようなものだろう。若者の居場所はそこになかったのだ。《○○村》という言い方には、そういう複雑な思いが秘められていて、単純ではない。

▼私達の関わっている不登校の問題もしかリである。それまでの学校的日常のあり方を《村》的と見るなら、不登校とはそこに居場所や自分らしい生き方を見出だせず、避難のため逃れた(はじき出された)子ども達なのである。それは単に学業が振るわなかったからというような単純な問題だけではない。しかし、原発推進派の人達から批判する人達に《原発病》という反論が返ってくることがあるように、もしかすると《○○村》の人達からは、自分達は精一杯一生懸命やっている、なぜ批判されるのかよく判らない、彼等は我が儘を言っている、くらいの認識でしか理解されないのかも知れない。

▼批判する人々には、そこでは生きていけないという思いがあるのに、《○○村》と批判される人達からは一向にその問題点が見えないということ、ここに互いに議論し理解し合うことの難しさがある。不登校に限って言えば、それを批判し合うことは実に不毛なのである。理解を得られないのに学校を批判しても消耗なのである。適正な理解を得るには《百年河清を待つ》覚悟が必要だ。だが、実際には不可能なこと。子どもは日々変化している。論争にエネルギーを費やするよりは自分に合った居場所や勉学・活動の場所を探す方がずっと得策なのだ。

▼ところが、ここにも困難がある。親御さんは不登校の我が子にどのように関わるか?親御さんが子どもの味方であるか学校的論理の代弁者であるかで、子どもの位置付けは180度変わる。親御さんが学校神話にはまっている場合には辛いプレッシャーが次々と子どもにふりかかる。結果、益々立ち直れなくなる。だから、不登校支援の場合には、まずは親御さんの理解を得て、子どものサポーターになってもらうことが何よりも大事なことになる。この要件が満たされているならば、最終的にはその子は必ず救われると断言してもいい。

▼だから、私達はフリースクールの場において日々不登校の子ども達と接するのは勿論、親御さんとの会合(教育広場&親の会)も毎月開いている。この両輪がうまく噛み合った時、たとえその子が今どういう状況にあろうとも、家庭内で親子の良好な状態が保たれ、その後の子どもの心身状態に不安を持つことはなくなる。そういう家庭の状態がバックにあるならば、フリースクールでの日々の活動は、同質性を前提とする学校では中々認められない様々な個性のある仲間と触れ合え、各々が個として認められる体験を持つことは、その後の子どもの感性に実り豊かな心を醸成することになるだろう。

▼ことさらに不登校を誇示する必要はないし、また自己卑下することも無用のことである。それこそが自分らしい生き方であると理解し、それができる今の幸せな状態を噛み締め、それを応援してくれた親御さん等に対しても感謝の気持ちを持てるようになるといい。そういう思いが確かになるならば、安定した気持ちで自分の未来へ挑戦する気持ちも湧いてくるはずである。《情けは人のためならず》である。その時、「不登校も過ぎてみれば貴重な体験だった」と思うはずである。

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