教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

国技から国際ルールのスポーツへ

2007年10月04日 | 「大人のフリースクール」公開講座

時津風部屋の序ノ口力士の時太山がけいこ中に急死した問題で時津風部屋だけでなく日本相撲協会そのものの存立が問われている。朝青龍の仮病疑惑どころの話ではない。ところがこの期に及んでも親方や部屋の処遇をはじめ、相撲協会や北の海理事長は今後どうしようとするのか、方向性がさっぱりと見えてこない

第一、「国技」とは何なのか、相撲の伝統とは何なのか、問われなければならない。17~8才で日本にやって来て、20代前半で大関や横綱にまで登りつめてしまう外国人出身の力士たち。日本語も満足に使いこなせない段階で彼らは日本の国技の頂点に立ってしまう。しかし、相撲もスポーツであり、スポーツは強いものが勝つのは当然といえば当然である。野茂秀雄投手やイチローや松井外野手が英語ができないから認められないということはスポーツの世界ではあり得ない。

ところが、相撲の世界は奇妙である。今や相撲という国技でもある日本のスポーツを支えているのは外国人であるのに、彼らに奇妙な作法を要求しそれがうまくできなければ力士として失格のような扱いをする。たとえば、賞金を受け取る時左手で手刀を切るなとか、勝ってもレスリングやボクシングのようにガッツポーズを取るなとか、女は土俵に上がってはいけないだとか、嬉しくてもニコニコするなだとか、当たり前の人間感情で考えた時、あまりにも馬鹿げた不自然な決まりごとを、国籍も、人種も、文化も、宗教も、価値観も違う外国人に要求している。そして、それを形式的に上辺だけでも真似ができるようになった時、まるで小学生が先生の言う通りに振舞えた言うように満足そうに褒め称えるのだ。相撲の求める伝統や文化、国技とはそのレベルのものだったのか。外国人が意味も分からず見よう見真似で形だけなぞるようなもので満足できるようなレベルのものであるならば、いっそのことない方がましであろう。

ここで話は一気に日本の柔道のことに移す。つい最近、国際柔道連盟(IJF)の役員改選が行われ、教育・コーチング理事の再選を目指した山下泰裕氏が落選してしまい、IJFの執行部から日本人が一人もいなくなってしまった。日本人にとって柔道は相撲と同様に単なるスポーツではなく「礼に始まって礼に終わる」「武道」の一つである。その精神こそが大事であり勝敗は二の次とされる。ただ勝てばいいというものではなかった。ところが、海外では、そして特に欧州においては日本の「柔道」も「JUDO」というスポーツの一つであり、どんな形であれ勝つことがすべてに優先する。講道館ルールは海外では通用しないのだ。そして今やスポーツはテレビと結びついている。スポンサー受けする柔道着も要求される。神聖な「白」などという武道の観念は外国人には無縁である。

ローカルルールは国際社会では通用しない。今のところ確かに相撲は国技というローカルな領域に留まっている。だがそれも外見だけであり、相撲の求める品格などというものも、いわば張子の虎に等しい。彼らに日本の国家の品格を求めることの可笑しさを知るべきだ。第一、日本人だって「品格とは何か」知ってはいないのだ。それを外国人に頼るなら、それこそ国家の品格が廃るというものだろう。この際、相撲は閉鎖的な国技の枠組みを打ち壊し、国際ルールに基づくスポーツへと脱皮してはどうか。最早そこにしか生き残る道はない。それでダメなら、潔く消え去るべきだろう。