ひと 人を訓じて、どういう意味であったか。人に充てる字には、人間、人類、そして他人をあらわす。指示語、複合語となってその人についての人格、人柄などを示す。漢字は現代中国語で、人、人間、他人、人手、人柄、体を表す。古代に漢字をとりいれて、日本語の ひと について、人としての自らと、月の人、家の人と対比して捉えることがある。ひと の存在と、その特徴は、かんがえることにある。対象となる人をあらわし、ひとびとも意味した。万葉集の ひと 平安時代の ひと には、いまいうところの社会的な関係を含む人の捉え方がある。時代的な変遷に、ひと についての用法も広がりを見せる。日本国語大辞典には、生物中の一類としての人間、社会的に生存する人間、ある人物、またはある種の人間を、一般化、または客観化して表現する、という意義に解説をする。 . . . 本文を読む
語彙を見て、日本語の語をいくつぐらい、理解語彙にし発表語彙にしているのだろうか。日本語では表現と理解を対比させるので、表現語彙ともいう。英語語彙について学習のサイトに英米人の語彙数とあって、理解語彙 passive vocabulary と、使用語彙 active vocabulary について述べるところがあった。それは、ケンブリッジ英語百科事典による、成人の理解語彙数と使用語彙数の関係を示したものである。秘書 理解語彙数 38,300 使用語彙数 31,500 並んで、読書家 73,500 63,000 そして大学教師 76,250 56,250 となって、読書家と大学教授は理解語彙に比べて使用語彙に差があったことがわかる。それぞれの理解語彙と使用語彙は25%の違いがあると結論付けているようだ。さらにある調査で、頻度の高い語がどれくらいを覆うことができるかについて言及する資料から、興味のある事実を述べている。最高頻度語彙数 135語 で、カバー率50%であるという。順次、頻度語数を増やすと彙どうなるか。
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週刊日本語教育批評22号―30号 日本語を教える、ということの、内実は何か。また自律学習の違和感について、あるいは実践研究の教師について議論をしている。批評とはその方法があり、文芸時評にはそれなりのスタイルがあったりして、そのうえで外在批評だとか内在批評だとかあるらしい、このSF空間には何が当てはまるか。日本語を教えるというのは、日本語を話せるように教えるとか、日本語を書くことができるように教えるとか、そういうのでいいはずだけれども、どうなんだろう。いま、発音を教えているとも、文法を教えているとも、とにかく方法はどうであれ、使うことができる日本語を教えているはずであるから、教える場がある、学習者とともにある、それが日本語教育であるし、教育はそういうものだろうと思う。自律学習は議論の共通認識をどこで図るか、次を見ておこう。http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No12/04-Umeda.pdf 学習者の自律性を重視した 日本語教育コースにおける教師の役割 。
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現代日本語「誤」百科 838 失点を許す を例題にしている。失点は点をなくすことだ。得失の関係で言えば相手の得点は自分の失点になるから、得点を許すことはない。つまり、みすみす点を失うようなことがあれば、それは本意ではないことなので、自らに失点を許す結果となる。失の字義は手からこぼれ落ちることであるから、この字を使う時にはそれなりの準備なり対策があってのことで、その状態にあったものを失うことになる。得点をしてリードをしていればその状態で得点差があれば勝利するわけである。そのときに、失点を許していけばついには招かれざる敗北がやってきて、得点を許したことどころではない結果になるから、失点は許されないのである。 . . . 本文を読む