日本語は太古の昔に民族の移動とともに大和として中央国家が誕生したときに、文字を言葉とした。いつごろか。昔、昔々、昔々のその昔、またその昔である。太古は有史以前であるから、ひとむかしは10年、むかしむかしは100年、むかしむかしのそのむかしは1000年、またその昔は1000年をさかのぼり、言うところの大和朝廷の誕生であり、それは有史以前の民族の争いがあってからのことだったのだろう、そのころのことからである。大和の地に歌をうたい言葉を唱えるものがあって言霊を信じた。言霊の幸わう国と歌い上げた。文字は漢字でありそれを訓じて大和のことばにした。ことは言であり事であり、それをとらえると漢字には謡う辞があり、大和のことばには漢字にない日本語のことばがあったので、 も の は など六個の辞を欠くうたで意識して、それをまた文字として辞と呼んだのだった。歌人は歌謡にそれをあらわした。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 830 おわびの気持ちの限りをつくす を、例題にしている。限りがないとつくすことはできないことから、おわびの気持ちは最大限を示すことができないとすると、この表現は不適であるとコラムは解説する。さて、例題のこの言葉を用いるようなことはないだろうか。力の限りを尽くす、と言えば、全部の力を出し尽くす、限度いっぱいに力を出すことである。悪の限りを尽くす、と言えば、悪を極めることだ。限り、と言う語に、限度内と限度範囲のすべてという使い方があり、さらには限度ぎりぎり、いっぱいの意味がある。そして、つくす の意味に、情理、心、勧、気、意などの、用法としての結びつきがあって、おわびの気持ちに類すると考えられる。限度を示すことができないものにも、そのすべてを使い切るという、日本語らしい表現である。 . . . 本文を読む
言語観とは、また言語についての意識とは、何かである。
これは国語審議会のなかで議論があったのだろう、報告にこの語が見える。それによると、日本人の言語意識としたものは、心の通い合い、英語に高い価値を置いた、日本語は非論理的だ、話し言葉より書き言葉が大切である、と言われているというものである。そして、その報告は言語観や意識に変化があって、次の点で再認識されるべきであるとする。語種が複数あること、表記法が複雑であること、敬語の使い方に対して、音素の数が少ないこと、音節構造が単純な形式であること、文法規則に比較的例外が少ないこと、などを、認識しなおそうと指摘する。日本語の語順を持つ言語の数が世界の言語で多いことをあげて、言語として無視できない存在であるとも言う。ここに現れた言語観そして意識はどういうことを言おうとしているのか、諮問に対する審議経過での議論がどうだったかと思われるが、いずれにしても日本人の言語観をとらえようとしたということであろう。はて言語観はそういうものであったか。言語学に言語学者が唱える言語観はもうすこし議論があり、それを見ることになる。 . . . 本文を読む