平成21年11月靖国神社社頭に掲示された遺書
新潟県出身 陸軍少佐 池亀 重作 (40歳)
昭和17年11月23日 九〇三高地附近にて戦死 合掌
靖国神社デ祈ッテヰマス とお嬢様に宛てられました遺書に涙が溢れます。
父ヨリ
恵子ヨ、可愛イ恵子ヨ。 (中 略)
「努力ハ天才ニ優ル」 ト言フ事ヲ念ニ収メ、偉イ人ニナッテ母ニ孝行ヲシナクテハナリマセン。
父ハ東京ノ靖国神社デソレバカリ祈ッテヰマス。
何故こんな惨い事に、戦後64年経た今も遺族の悲しみは失せることはありません。新しい政権は靖国神社に代わる 「国立追悼施設建設」 に意欲を示しているようですが、
鳩山首相を初め、議員の皆様はこのような多くの遺書に目を通しているのでしょうか。多くの英霊の皆様よ安らかに 願っております一人です。
私達遺族は散華された多くの英霊に追悼の誠を捧げ、後世に語り継ぐ使命が有ると存じます。
夫を、父を、親族を永久に偲び、悲しみを歌に詠んでおります。
今号にも全国から鎮魂の歌が寄せられましたのでご紹介させて頂きます。
ご一読頂けましたら有難く宜しくお願い申し上げます。
「里の秋」 共にうたひし母も逝き想いはめぐる父眠る島 奈良市 男性
盆花も元気よく咲きありがたく自分で歩き参る幸せ 米子市 女性
夫在すごとき顔して夫婦茶碗選りき宇品港もう一度訪ひたし 横手市 女性
戦ひに行かねば百二歳になる父の暮らしの事を今日は思ひぬ 大阪市 女性
映さるる靖国の妻百二才全国戦没者追悼式に 南相馬市 男性
バイカル湖を眼下に見下ろす丘の上に兵の墓標は傾きて並ぶ 出雲市 女性
ひたすらに武勇尚び戦死せり青春の夢かかはりもなく 篠山市 男性
七夕の願ひはひとつ再びの戦いのなき世を世界の平和を 名古屋市 女性
端整な戦死の父は小柄なりと吾は父に似ず想ひ出もなき うきは市 男性
中支にて兄は戦死と知らせあり吾は戦陣明日発つと言ふ 京都市 男性
神苑を隈なく照らす万燈は戦に果てし兵を慰さむ 常滑市 女性
正座して玉音放送聴きし日はわれ六歳のあの夏座敷 千葉市 私
この度も貴重な紙面を拝借できましたこと、心から感謝を申し上げて居ります。全国に広がる遺児の輪に励みを頂きながら、今後も父を偲んで参りたく思っております。
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今、涙が溢れそうです。
お父さまが愛娘に充てられた遺書
そして、戦争で肉親を失われたご家族の鎮魂の歌、魂。
どの方のお声も胸に沁み入る寂しさ、悲しさ、悔しさが感じられて
そして、何よりも亡くなられた方への思慕、愛情、尊敬・・・
okoさまの声も私の心に届きました。
当時、6才だったokoさまはどのような思いで玉音放送を聴かれたのでしょうか?
その事を思いますと胸が痛くなります。
今、つくづく思います。
平和の大切さを。
戦争は絶対にしてはいけませんね。
亡き母の「戦争は絶対したらあかん」の声が聞こえます。
あの時は6才でいらっしゃいましたか~~
お歌を拝見して走馬燈のように目に
浮かびました。
毎日心和む思いでございます。
何よりも優しい紅葉に魅せられました。
コメント拝見させていただきました。
戦争がだんだん遠くの事になりつつありますが、事実を記憶に残し、
平和な日本を築いて欲しいと念願しております。
8月15日はとても暑かったように記憶しております。
京都の素敵な佇まいには及びませんが、田舎の広い座敷に大勢の
家族が頭を垂れていた様子が思い出されます。
私は翌21年小学校入学です。
今でも父との幻の生活を夢に見ます。残念!
戦死は19年10月27日でしたが、公報が後ですので、母は
かすかな希望を抱いていたのではと思います。
7歳祝いをやってもらい、21年4月小学校入学でした。
その入学直後の4月10日に戦死の公報を受けたのでした。
思われると悔いがあったことでしょう。
これまで20代の人の紹介が多くて
独身で逝かれるのも痛ましかったのですが・・・
okoさまのお父様もどんなに心残り
だったことでしょう。
残念でございました。
いつもご丁寧に有り難うございます。
このような遺書を書かれた時のお気持ちはと、考えさせられます。
父からも最後の手紙があったのではと思いますが、手元には残っておりません。
この度の遺書に父が重なりました。