戦争や戦災による千葉市の戦没者を追悼し、平和を祈念する千葉市戦没者追悼式が11月4日(金)千葉市民会館(中央区)で開かれた。追悼式には遺族約100人と、神谷俊一市長や国会議員、
県議、市議ら来賓約70人が参列し、献花などを行った。(産経新聞の巻頭言より)
式 壇 「式 辞」千葉市長 神谷 俊一様
神谷 俊一市長式辞より
「先の大戦で、祖国を思い戦場に散った戦没者や、度重なる空襲で戦禍の犠牲となった戦災死没者など、多くの尊い命が失われた。心より哀悼の意を表する」と述べ、「戦争の事実、追悼の思いを
次世代に伝え、恒久平和に向けて取り組む」と強調した。
「追悼のことば」 千葉市遺族会会長 川島 義美様
川島 義美会長の「追悼のことば」より
令和5年は、千葉市遺族会設立75周年を迎える千葉市遺族会会長の川島義美さん(81歳)は「戦後77年が経過し、戦争の記憶は風化する一方だ」と警鐘を鳴らし、「戦争の悲惨さ、平和の
尊さを後世へと語り継ぐことが遺族に課せられた責務だと思う」と述べた。
又、令和4年6月3日に千葉市若葉区桜木町に 千葉県護国神社 新社殿造営竣功 されましたことをはじめ、コロナ禍に種々の行事が縮小されました折の市、県、国の1年間の行事を丁寧に報告
されました。
「思い出のことば」遺族代表 三上 誉之様 「思い出のことば」の三上 誉之様と会長・女性役員の皆様 ↑
「思い出のことば」三上 誉之(よしゆき)様は
お父様の戦死にお姉様と生後8ヶ月の誉之様が遺されましたが名前の「誉之」様はお父様が当時のお住まいの誉田町の「誉」に「之」をつけて今の市原市鶴舞にあります「ねじゃが様」(涅槃様)
へ朝まだ薄暗い5時頃、砂利道に自転車を走らせて「誉之」を見て頂きましたうえで命名されましたことをお母さまから聞いておられました事にお父様との想い出がない唯一の絆と語られました。
又、お母様は農業の過労から59歳にご逝去のご無念を語られましたが、お母様のご丹精のおかげで食べ物に満たされておりました事への感謝を述べました。
そして7年前の2015年(平成27年)にお父様が散華されましたミンダナオ島へ慰霊巡拝に参加され、最終日にはマニラ市内の小高い丘に整備されておりました「カリラヤ比島戦没者の碑」の前
に参加者全員が参列してフイリピン全戦没者への追悼式を行い、50万余名の英霊に献花と黙祷を捧げました事。
最後はお父様の思い出を語る機会を頂きました事に御礼を申し上げます。と結ばれました。
献花をしてくださいました千葉市立葛城中学校の生徒会の皆様
献花をされる遺族代表女性会員及び男性会員
献花は千葉市長・来賓の国会議員・県議会議員・市議会議員・諸団体代表の皆様・青少年代表 千葉市立葛城中学校生徒会の皆様・最後は遺族代表16名の皆様が行いました
「御礼のことば」 千葉市遺族会副会長 宍倉 操様 お供物と供花の一部を頂きました
会場にカメラが見当たらなく、千葉テレビニュースから写真を頂けませんことに雰囲気だけでもと収めて参りまして記念に綴ることができました。
遺族関係者の高齢化に、年々参列者が減少してまいりましたことに一抹の寂しさを禁じえませんが、千葉市関係者のご尽力に感謝を申し上げ、生ある限り父を偲び、多くのご英霊に哀悼の誠を
捧げたく参列させて頂きたく考えております。
又、嬉しいお言葉にも出会いました。
私のように高齢になりますと知人にブログを綴る方は皆無状態ですが、初めてお会いしました数人のお方が駆け寄ってくださいまして○○さんですよね「ブログを楽しみに拝見しております」と
お声をかけて下さいました。
その折に「遺族通信」の九段短歌も楽しみにしておりますが長い間、掲載が無く残念に思っておりますなど、会員の皆様に励まされました感謝の一日でした。
末席ながら役員に名を連ねておりますと会員の皆様は「役員」と思いますことに今後も健康に留意して遺族会に尽力できますように力を注ぎたく思いました。
これからもご健勝であられますようにと祈ります。
千葉県と千葉市と両方執り行われるのですね。
前の記事で知事さんが変わられたことを知りました。
前の知事は森田健作様で有名でしたが、この度は市長経験者で落ち着いたお方と存じます。
まだお若いですのでご活躍が期待されております。
私事ですが、おかげさまで健康に感謝をして過ごしております。
県、市の追悼式が続き、何もしませんのに少々疲れました。
献花の時に壇上を歩けるのかしら?などと、哀しいかな心配するようになりました。
中学生の代表は令和元年に末広中学校の生徒会の皆様に献花をお願いしましてから
3年ぶりに葛城中学校の生徒会の皆様に献花をお願いすることができました。
写真を収めさせていただきました時に戦後77年を迎えましたことはご存じでした。