津和野、津和野と続けて行ったけぇ、GW前半は萩へ行って来たよ(^^)
昔はGWと言えばバイクで萩へ来て、レンタサイクル借りてプラプラしよったよ(^^)
ということで、今回も自転車を持ってきて散歩じゃ。
車は中央公園の駐車場(310円/一回)へ止めて、この近くから責めるぞ。
というても、何度も来とるけぇノープランでお散歩じゃ(^^)
ジャジャーン。
円政寺
「利助!」
晋作くんの声が聞こえてきそうじゃね(^^)
円政寺は高杉くんの家のすぐ近くじゃけ、利助(伊藤博文)と遊びに来とったみたい。
晋作くんが苦手じゃった天狗の面。
晋作くんと利助が鼻を撫でとったって書いてあるけど、、、
きっと晋作くんがまたっがって、ビビリ(シツレイ(^^;慎重派)の利助が「やめようやぁ、おこられるよぉ~」なんて言よったんじゃない(笑)
菊屋家住宅
菊屋横町
高杉くんや、利助、木戸孝允も近所じゃけぇ、こんな景色を見たんじゃろうねぇ。
おっ!人力車。
ほいじゃが、これは明治とか大正っぽいよね(^^)
高杉晋作生家
200石取りじゃけぇ、それほど大きな家じゃないね。
近くに晋作広場っていうのがあって、晋作くんの銅像がある。
珍しく、まげ姿じゃ。
ざんぎり頭のイメージが強いよねぇ。
つづいて、「北の総門」
これより中は三の丸で、通称「堀内地区」と言われとる。
暮れ六ツから明け六ツまではこの門は閉められて、鑑札のある人以外は入れんらしい。
ちなみに明け六ツは夜明け前の明るくなる頃、暮れ六ツは日没後の薄明るい頃じゃけぇ、季節によって違うんじゃ。
ほいじゃ、日が暮れたら飲みに行かれんじゃん( ̄▽ ̄;)!!ガーン
大丈夫じゃ、ワシはきっと下級武士じゃけぇ堀の外に住んどるわぁハハハ(^▽^)
益田家物見矢倉
となっとるけど、蛤御門の後御腹を召された三家老の一人、「益田親施(ちかのぶ)」の旧宅です。
やはりでかい。
ほいで、その近くにあったのが
周布家長屋門
周布家と言えば、周布政之助を思い出すが、ここは政之助の本家です。
知行は1350石とけっこうもらっとる。
家老ではなく、大組筆頭の家格で分家の政之助の所は200石あまりもらっとった。
ほいで、問田益田氏の白壁。
益田氏の分家とはいえ、知行は4000石あまり。
本家は12000石じゃけぇ~(^^;
これは旧郵便ポストではなく、その隣の石碑。
ここは「国司親相(ちかすけ)(信濃)旧宅地」
おぉー、でた例の三家老の二人目「国司氏」
二人とも、徳山で御腹を召されたよね。
そこからすぐの所に、「福原家屋敷門」
三家老の三人目、福原越後の屋敷じゃね。
当たり前じゃけど、みんな近くに住んどったんじゃねぇ。
萩城のすぐ近く、天樹院。
移封されたときの藩主、輝元の墓です。
堀内の鍵曲(かいまがり)
平安橋
この橋のたもとに「平安古の総門」があった。
三の丸へ入る門は全部で3つ。
#もう一つの「中の総門」の場所はようわからんかった(^^ゞ
児玉家長屋門
徳山の児玉源太郎もここと同じ「安芸児玉氏」の末裔みたいじゃ。
忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至る迄憐愍(れんみん)
を加ふべし、若(もし)不忠不孝之者あらば可為重罪事(じゅうざいたるべきこと)。
こんな感じで、幕府や藩からの「御触」が掲げれられる。
萩往還、赤間関街道、石州街道の起点で、防長の一里塚の基点にもなっとった。
高札場は2010年に、江戸時代当時のものが復元されとる。
堀内界隈をグルッと回った感じじゃね(^^)
天気が良かったら、自転車で巡るとちょうどエエね。
萩は何べん来てもええわぁ~(^^)
昔はGWと言えばバイクで萩へ来て、レンタサイクル借りてプラプラしよったよ(^^)
ということで、今回も自転車を持ってきて散歩じゃ。
車は中央公園の駐車場(310円/一回)へ止めて、この近くから責めるぞ。
というても、何度も来とるけぇノープランでお散歩じゃ(^^)
ジャジャーン。
円政寺
「利助!」
晋作くんの声が聞こえてきそうじゃね(^^)
円政寺は高杉くんの家のすぐ近くじゃけ、利助(伊藤博文)と遊びに来とったみたい。
晋作くんが苦手じゃった天狗の面。
晋作くんと利助が鼻を撫でとったって書いてあるけど、、、
きっと晋作くんがまたっがって、ビビリ(シツレイ(^^;慎重派)の利助が「やめようやぁ、おこられるよぉ~」なんて言よったんじゃない(笑)
菊屋家住宅
菊屋横町
高杉くんや、利助、木戸孝允も近所じゃけぇ、こんな景色を見たんじゃろうねぇ。
おっ!人力車。
ほいじゃが、これは明治とか大正っぽいよね(^^)
高杉晋作生家
200石取りじゃけぇ、それほど大きな家じゃないね。
近くに晋作広場っていうのがあって、晋作くんの銅像がある。
珍しく、まげ姿じゃ。
ざんぎり頭のイメージが強いよねぇ。
つづいて、「北の総門」
これより中は三の丸で、通称「堀内地区」と言われとる。
暮れ六ツから明け六ツまではこの門は閉められて、鑑札のある人以外は入れんらしい。
ちなみに明け六ツは夜明け前の明るくなる頃、暮れ六ツは日没後の薄明るい頃じゃけぇ、季節によって違うんじゃ。
ほいじゃ、日が暮れたら飲みに行かれんじゃん( ̄▽ ̄;)!!ガーン
大丈夫じゃ、ワシはきっと下級武士じゃけぇ堀の外に住んどるわぁハハハ(^▽^)
益田家物見矢倉
となっとるけど、蛤御門の後御腹を召された三家老の一人、「益田親施(ちかのぶ)」の旧宅です。
やはりでかい。
ほいで、その近くにあったのが
周布家長屋門
周布家と言えば、周布政之助を思い出すが、ここは政之助の本家です。
知行は1350石とけっこうもらっとる。
家老ではなく、大組筆頭の家格で分家の政之助の所は200石あまりもらっとった。
ほいで、問田益田氏の白壁。
益田氏の分家とはいえ、知行は4000石あまり。
本家は12000石じゃけぇ~(^^;
これは旧郵便ポストではなく、その隣の石碑。
ここは「国司親相(ちかすけ)(信濃)旧宅地」
おぉー、でた例の三家老の二人目「国司氏」
二人とも、徳山で御腹を召されたよね。
そこからすぐの所に、「福原家屋敷門」
三家老の三人目、福原越後の屋敷じゃね。
当たり前じゃけど、みんな近くに住んどったんじゃねぇ。
萩城のすぐ近く、天樹院。
移封されたときの藩主、輝元の墓です。
堀内の鍵曲(かいまがり)
平安橋
この橋のたもとに「平安古の総門」があった。
三の丸へ入る門は全部で3つ。
#もう一つの「中の総門」の場所はようわからんかった(^^ゞ
児玉家長屋門
徳山の児玉源太郎もここと同じ「安芸児玉氏」の末裔みたいじゃ。
忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至る迄憐愍(れんみん)
を加ふべし、若(もし)不忠不孝之者あらば可為重罪事(じゅうざいたるべきこと)。
こんな感じで、幕府や藩からの「御触」が掲げれられる。
萩往還、赤間関街道、石州街道の起点で、防長の一里塚の基点にもなっとった。
高札場は2010年に、江戸時代当時のものが復元されとる。
堀内界隈をグルッと回った感じじゃね(^^)
天気が良かったら、自転車で巡るとちょうどエエね。
萩は何べん来てもええわぁ~(^^)
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