日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

四境戦争「芸州口の戦い」 今、四境戦争がマイブームじゃけぇ(笑)

2016年08月02日 | 歴史
「あれ~?・・・、おかしいのぉ~??」

何度も写真と見比べたけど、大砲の跡なんか見あたらん。

「あぁ~!w( ̄o ̄)w 、なんか違う。」

「こりゃ、西念寺違いじゃ!(笑)」


今日はマッキーと「四境戦争 芸州口の戦い」の戦跡を見に来たんじゃ。

ほんで、長州の本陣といえば、てっきり小瀬川より西の山口県側だと思うたじゃん(^^ゞ


ちょっと勘違いから始まったんじゃけど、まぁ長州側から見ていけばええかぁ(笑)

とまぁ、そういうことで、まず長州側のお寺「安禅寺」から。


裏へ回ると、ここへは彦根藩士の墓がある。

立て看板には、『彦根藩士「竹原七郎平」が従者2人とともに先陣を切って小瀬川を渡ろうとしたところを、長州軍(しょう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れた・・・』

書いてあるんじゃけど・・・なんで、幕軍の中でも彼らだけ特別扱いなんかなぁ??


気になって大竹側のサイトで見ると、「幕府軍の使者として封書を高く掲げて川を渡っていて・・・」となっとる。

そうか、使者を撃っちゃってちょっと申し訳ない感じで特別に弔ったんかな。

そこから、ちょっと歩いて和木小学校の東側に「竹原七郎平徒渉地点」っていう碑がある。

この辺へ向かって渡ってくる途中で撃たれたんじゃ。

道路を隔てて反対側(川側)に「四境之役 封境之地」っていう石碑がある。

「激戦は2ヶ月に及んだが幕軍はついに小瀬川を渡ることができなかった。」てなっとる。

幕軍はこの川を渡れんかったんじゃね。

逆に長州軍は、いくつかのルートで広島藩へ攻め込んどる。

ほいで、ここの対岸あたりに青木公園(青木神社横)があり、広島藩側の石碑があった。

これは以前行ったときに撮ったもの。


ほいで、次はしゅう翼団や各隊が定宿としとった浄蓮寺。

和木小学校から少し上流、さらに支流の瀬田川を上ったところへある。

ちょっと小さめかな(^^)

ほいで、小瀬川沿いに戻ってさらに上流へ行くと「籌勝院(ちゅうしょういん)」がある。

ここは、かの遊撃隊の本陣となった所じゃけぇ。

遊撃隊といえば、来島 又兵衛(きじま またべえ)が奇兵隊に対抗して作ったんじゃ。

もっとも、来島 又兵衛は蛤御門で亡くなっとるけぇ、この時はもうおらんかったんじゃけどね。

本堂の裏へ回ると、遊撃隊士の墓がある。

隊士の数が多かったのか?それとも最前線で戦ったからか?沢山の墓がならんどる。


ほいで、いよいよお待ちかね、本物の「西念寺」じゃ~(笑)

場所は、ちょうど大竹のゆめタウンから山側を向いて少し小高くなった所にあるんよ。

幕末には、ゆめタウンはまだ海じゃったろうけぇ、あの辺から幕軍が軍艦から撃ってきたんかのぉ・・・

などと考えながら、眺めてみる(^^)

さて、いよいよ本堂へ


「ほうほう、これが砲弾の跡かぁ・・・」(笑)


○印の場所に本来は、右側矢印のように「肘木(ひじき)」と呼ばれる木があるんじゃけど、砲弾で壊れて穴だけふさいである。

本堂の柱に、説明が貼ってあった。


大島のお寺の石垣の砲弾跡に比べると、被害が小さく見えるなぁ。

大島では石垣の石が一つ無くなっとったけぇ、この程度の壁ならドーンっと一枚無くなりそう(^^ゞ

それとも、無くなった壁を修復するときに肘木の所だけ色を変えたんかね。

芸州口・・・
近場じゃけぇ、あまり気にしとらんかったけど、調べたらけっこうあるんじゃね(^^;

近場は見尽くしたかと思っとったわぁ(笑)

「花神」を見てから始まった、四境戦争 戦跡巡りじゃけど、小倉口は遠いけぇひとまず、これで終わりかな(^^;

次は何シリーズを始めようかぁ(笑)

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