今回は、前から気になっとった長門へ行ってきたよ(^^)
ほいじゃが、その前に・・・
山県有朋 木戸孝允 伊藤博文
萩も覗いてきた(^^;
萩いうても、今回は浜崎地区なんよ。
萩藩御船倉の近くにある「浜崎伝統的建造物群保存地区」いうところ。
浜崎といえば、今は漁師町のイメージじゃけど、港町じゃけぇ当時は流通の拠点として商家がたくさんあって賑わっとったみたい。
ほいで、今も江戸時代の建物が複数残っとるんじゃ。
「山村家」元は船具屋さんらしい。
江戸時代は間口で税金がかかっとったけぇ、この間口の建物がどんだけリッチかわかるよねぇ。
今は資料館的な感じで無料開放されとった。
ボランティアのおばちゃんの解説付き(^^)
同じ建物の奥行きです。
すぐ近くに今も現役の船具店がある。
小さな町に船具店が複数あったというだけでも、昔の賑わいが感じられるよね。
このあたりは、過去に何度か来たことがあったんじゃけど、少しずつ整備されて今の方が古い町並がきれいなよ(^^)
まだまだ見所はたくさんあったんじゃけど、今回はメインディッシュが別にあるけぇ次に行った(^^ゞ
次回は、自転車持っていってもうちょっと詳しく回って来るね。
浜崎から少し東にある、「芳和荘」
旅館ってなってるけど、元々は遊郭じゃったんよ。
当時の建物がそのまま、旅館として使われとるんじゃ。
真ん中が吹き抜けになっとって、そこをグルッと回るように廊下がついとる・・・
幕末の志士たちが、斬り合いを始めそうな場所じゃけぇ(笑)
中は宿泊せんと見られんかったけぇ、気になった人は検索してみて。
こんな建物じゃけぇ。
「芳和荘」のすぐ近くに「浮島遊郭跡」っていうのをグーグルマップでみつけたけぇ行ってみた。
ほいじゃが何にもないのぉ・・・ってグーグルマップを航空写真に切り替えたら、もう何もないパチンコ屋の駐車場じゃった(^^ゞ
さて、萩から移動して今度は長門。
長門といえば、数年前に安部さんがプーチンさんをもてなした「大谷山荘」がある温泉じゃ。
今回は大谷山荘からもほど近い「大寧寺」へ行って来た。
大寧寺は大内氏最後の当主「大内義隆」の最期の地です。
そう「陶晴賢」によって自刃に追い込まれたんよね。
寺の入り口付近に
「かぶと掛けの岩」
「姿見の池」
さぁ、大内氏の墓へ・・・
あれ?
こんな所に、「関東管領(かんとうかんれい) 上杉憲実(うえすぎのりざね)」の墓があるじゃん。
関東管領といえば、上杉謙信もやっとったよねぇ。
大河ドラマ「風林火山」でガクトがやっとったわぁ(^^;
なんで、こんな所に・・・
なんか、いろいろあって諸国を旅して最後は大内氏を頼ってこっちで亡くなったんだって。ふーん。
さぁ、いよいよ大内義隆の墓所
「大内義隆主従の墓所」
さっきの所から少し上がって、墓所の一番奥にある。
昼間でも日があまり入らない薄暗いところにあった。
一緒にある墓の中に、「二条」「三条」って言う名前がある。
大内義隆って山口に京を作って、公家のような生活をしとったっていうけど、本当の公家も呼んどったんじゃねぇ。
大内義隆、義尊親子の墓が正面に、周りには家臣の墓が並んどる。
ちなみに、普通の墓石っぽいのは墓石じゃなく名前が書いてある墓標で、本当の墓石はその横や後ろにある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」じゃけぇ。
三条公頼卿の墓石には石室がついとる。
この中でも特別身分が高かったんじゃろうねぇ。
大内義隆が陶によって滅ぼされたのは知っとったけど、山口市から逃げてここへ来て、自刃したんじゃね。
そのときに寺も焼失したらしい。
その後、お寺は毛利氏によって再建された。
ふぅー、これで気になっとった大内氏の最期の地は見れたわぁ(^^)
ほいじゃが、その前に・・・
山県有朋 木戸孝允 伊藤博文
萩も覗いてきた(^^;
萩いうても、今回は浜崎地区なんよ。
萩藩御船倉の近くにある「浜崎伝統的建造物群保存地区」いうところ。
浜崎といえば、今は漁師町のイメージじゃけど、港町じゃけぇ当時は流通の拠点として商家がたくさんあって賑わっとったみたい。
ほいで、今も江戸時代の建物が複数残っとるんじゃ。
「山村家」元は船具屋さんらしい。
江戸時代は間口で税金がかかっとったけぇ、この間口の建物がどんだけリッチかわかるよねぇ。
今は資料館的な感じで無料開放されとった。
ボランティアのおばちゃんの解説付き(^^)
同じ建物の奥行きです。
すぐ近くに今も現役の船具店がある。
小さな町に船具店が複数あったというだけでも、昔の賑わいが感じられるよね。
このあたりは、過去に何度か来たことがあったんじゃけど、少しずつ整備されて今の方が古い町並がきれいなよ(^^)
まだまだ見所はたくさんあったんじゃけど、今回はメインディッシュが別にあるけぇ次に行った(^^ゞ
次回は、自転車持っていってもうちょっと詳しく回って来るね。
浜崎から少し東にある、「芳和荘」
旅館ってなってるけど、元々は遊郭じゃったんよ。
当時の建物がそのまま、旅館として使われとるんじゃ。
真ん中が吹き抜けになっとって、そこをグルッと回るように廊下がついとる・・・
幕末の志士たちが、斬り合いを始めそうな場所じゃけぇ(笑)
中は宿泊せんと見られんかったけぇ、気になった人は検索してみて。
こんな建物じゃけぇ。
「芳和荘」のすぐ近くに「浮島遊郭跡」っていうのをグーグルマップでみつけたけぇ行ってみた。
ほいじゃが何にもないのぉ・・・ってグーグルマップを航空写真に切り替えたら、もう何もないパチンコ屋の駐車場じゃった(^^ゞ
さて、萩から移動して今度は長門。
長門といえば、数年前に安部さんがプーチンさんをもてなした「大谷山荘」がある温泉じゃ。
今回は大谷山荘からもほど近い「大寧寺」へ行って来た。
大寧寺は大内氏最後の当主「大内義隆」の最期の地です。
そう「陶晴賢」によって自刃に追い込まれたんよね。
寺の入り口付近に
「かぶと掛けの岩」
「姿見の池」
さぁ、大内氏の墓へ・・・
あれ?
こんな所に、「関東管領(かんとうかんれい) 上杉憲実(うえすぎのりざね)」の墓があるじゃん。
関東管領といえば、上杉謙信もやっとったよねぇ。
大河ドラマ「風林火山」でガクトがやっとったわぁ(^^;
なんで、こんな所に・・・
なんか、いろいろあって諸国を旅して最後は大内氏を頼ってこっちで亡くなったんだって。ふーん。
さぁ、いよいよ大内義隆の墓所
「大内義隆主従の墓所」
さっきの所から少し上がって、墓所の一番奥にある。
昼間でも日があまり入らない薄暗いところにあった。
一緒にある墓の中に、「二条」「三条」って言う名前がある。
大内義隆って山口に京を作って、公家のような生活をしとったっていうけど、本当の公家も呼んどったんじゃねぇ。
大内義隆、義尊親子の墓が正面に、周りには家臣の墓が並んどる。
ちなみに、普通の墓石っぽいのは墓石じゃなく名前が書いてある墓標で、本当の墓石はその横や後ろにある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」じゃけぇ。
三条公頼卿の墓石には石室がついとる。
この中でも特別身分が高かったんじゃろうねぇ。
大内義隆が陶によって滅ぼされたのは知っとったけど、山口市から逃げてここへ来て、自刃したんじゃね。
そのときに寺も焼失したらしい。
その後、お寺は毛利氏によって再建された。
ふぅー、これで気になっとった大内氏の最期の地は見れたわぁ(^^)
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