日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

シシドシ

2018年06月05日 | 歴史
シシドシ?

宍戸といえば 「宍戸錠」!?フルーハハハ(^▽^)

いやいや、 「宍戸刑馬」ムムムこれはまた、マニアックな名前(^^;

#高杉晋作が馬関戦争の講話談判へ行くときに名のった名前じゃね。「アメツチノハジメノトキ、タカマノハラニナリマセルカミノナハ、・・・」
#古事記を暗唱したというあれのとき(^^;

さて、今回は毛利の家臣「宍戸氏」の縁の地へ行ってきたよ(^^)

長州藩で宍戸氏といえば一門家老の筆頭になっとる。

晋作が名のった「宍戸刑馬」からさかのぼること300年。

安芸の国におった頃の宍戸氏、縁の地へ行って来たよ(○゚ε^○)v ィェィ♪


もともと、宍戸氏と毛利氏は仲が悪く何度も抗争を繰り返しとったんよ。

宍戸元源の時代にも、毛利氏と争っとる。




宍戸元源(もとよし)夫妻の墓

ほんで、元就の代に元源の嫡孫「隆家」に元就の娘(五龍局)を嫁に出して和睦したんじゃ。

力を付けてきた元就が、贈り物を持っていったんじゃけどね。


これ以降、宍戸氏は毛利の中で吉川、小早川と並ぶ立場になったんじゃ。


隆家夫妻の墓

元源の嫡男「元家」は元源より先に亡くなっていたため、元源の跡を継いだのはこの隆家じゃった。

隆家は叔父の隆忠を家臣の讒言(ざんげん 人を陥れようとして事実を曲げて告げ口すること。)により殺害しとる。


隆忠の墓

元源、隆忠の墓は、理窓院っていう寺にあるんじゃけど、場所が分からず寺の中をウロウロしとったら、

ちょうど住職が出てきて案内してくれた。

そのとき、寺の歴史とかもちょっと説明してくれたよ。

親切な住職じゃった(^^)


続いて、理窓院から川を渡って隣の山にある、宍戸氏の居城 「五龍城」へ。

五龍城は江の川と本村川と二本の川に挟まれた場所にあるんよ。



川の流れに削られたのか、崖が急で山城にはもってこいの地形じゃ。


山城全体はこんな感じで、かなり本格的?(^^;

なぜかGoogleマップと向きが反対じゃ。

登り口は山城の先端で、今は神社の参道になっとる。



参道を上ると最初の曲輪「尾崎丸」に神社がある


宍戸司箭神社


ここの「五龍城址図」がわかりやすかったけぇ、貼っとくね。

五龍城は間伐してあって、曲輪や堀切、竪堀がわかりやすかった。



これが本丸、向こうに見える段は土塁。

これを越えると、10メートルはあろうかという堀切がある。

大変な工事じゃったろうなぁ。

写真じゃ分かりづらいけぇ、気になった人は行ってみて(笑)

これは、五龍城址図がわかりやすいよ。

一番奥の足軽ノ段まで行って引き返した。

この山城はロケの良いところはあまり無く、そういう意味ではイマイチじゃったけど、

当時の面影が沢山残っとって、タイムスリップは出来たよ(^^)


さて、元就が宍戸氏と和睦する際に贈り物を持っていったと書いたけど、

そのときの贈り物が、高橋氏を謀略により滅ぼし手に入れた領地の一部じゃった。

高橋氏の所領は「石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部」といわれとる。

毛利は手に入れた領地を、石見・出雲進出への足掛りにした



説明文は下の「高橋盛光の墓」入り口にたっとった。


高橋盛光の墓


ここは「軍原」と言われる場所で、この岩の上で「高橋興光」が切腹をしたといわれとる。通称「腹切り岩」

説明文だけ読むと元就が悪い奴に見えるけど、元就の兄「興元」に高橋久光の孫を嫁にだし、

興元の死後は、嫡男「幸松丸」の外祖父として後見人なり毛利家ににらみをきかせとったらしい。

「幸松丸」死後、元就が毛利の当主となるとき、元就の異母弟、相合四郎元綱が謀反をしようとして粛正されとるが、

このとき尼子氏がからんでいたのは有名な話しじゃけど、高橋氏も一枚かんどったという話しもある。

高橋氏の系図に関しては諸説あるみたいじゃけど、元就の「謀略恐るべし」じゃね(^^ゞ

この時代は生き残るためにみんな必死じゃけぇねぇ。

でも、いろんな話が出てきて面白いね(^^)

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