シシドシ?
宍戸といえば 「宍戸錠」!?フルーハハハ(^▽^)
いやいや、 「宍戸刑馬」ムムムこれはまた、マニアックな名前(^^;
#高杉晋作が馬関戦争の講話談判へ行くときに名のった名前じゃね。「アメツチノハジメノトキ、タカマノハラニナリマセルカミノナハ、・・・」
#古事記を暗唱したというあれのとき(^^;
さて、今回は毛利の家臣「宍戸氏」の縁の地へ行ってきたよ(^^)
長州藩で宍戸氏といえば一門家老の筆頭になっとる。
晋作が名のった「宍戸刑馬」からさかのぼること300年。
安芸の国におった頃の宍戸氏、縁の地へ行って来たよ(○゚ε^○)v ィェィ♪
もともと、宍戸氏と毛利氏は仲が悪く何度も抗争を繰り返しとったんよ。
宍戸元源の時代にも、毛利氏と争っとる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/24/51958b4220807fbc4b926bcbc4b0c0f6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/35/806b04fafafbd07b0be58a69cae2b282.jpg)
宍戸元源(もとよし)夫妻の墓
ほんで、元就の代に元源の嫡孫「隆家」に元就の娘(五龍局)を嫁に出して和睦したんじゃ。
力を付けてきた元就が、贈り物を持っていったんじゃけどね。
これ以降、宍戸氏は毛利の中で吉川、小早川と並ぶ立場になったんじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/e9/36b0b65aebec51cc78749d3150a6d27c.jpg)
隆家夫妻の墓
元源の嫡男「元家」は元源より先に亡くなっていたため、元源の跡を継いだのはこの隆家じゃった。
隆家は叔父の隆忠を家臣の讒言(ざんげん 人を陥れようとして事実を曲げて告げ口すること。)により殺害しとる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5e/67c402c05038454a36c15c92db4682b7.jpg)
隆忠の墓
元源、隆忠の墓は、理窓院っていう寺にあるんじゃけど、場所が分からず寺の中をウロウロしとったら、
ちょうど住職が出てきて案内してくれた。
そのとき、寺の歴史とかもちょっと説明してくれたよ。
親切な住職じゃった(^^)
続いて、理窓院から川を渡って隣の山にある、宍戸氏の居城 「五龍城」へ。
五龍城は江の川と本村川と二本の川に挟まれた場所にあるんよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/db/caf7b3ce5185bf3602823452e9ade2fc.jpg)
川の流れに削られたのか、崖が急で山城にはもってこいの地形じゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/11/0ef62f2bfc31bff3efed7c06cfe803af.jpg)
山城全体はこんな感じで、かなり本格的?(^^;
なぜかGoogleマップと向きが反対じゃ。
登り口は山城の先端で、今は神社の参道になっとる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/8c/c194c2044c44682b4839afaf96fd39ae.jpg)
参道を上ると最初の曲輪「尾崎丸」に神社がある
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/49/eab1b0902cd49e02ff29ddc3db54a19e.jpg)
宍戸司箭神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/6f/17458c0014ce31218b526705f3599f73.jpg)
ここの「五龍城址図」がわかりやすかったけぇ、貼っとくね。
五龍城は間伐してあって、曲輪や堀切、竪堀がわかりやすかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/cc/e2207d2823302d5ebe207e00a7a715c0.jpg)
これが本丸、向こうに見える段は土塁。
これを越えると、10メートルはあろうかという堀切がある。
大変な工事じゃったろうなぁ。
写真じゃ分かりづらいけぇ、気になった人は行ってみて(笑)
これは、五龍城址図がわかりやすいよ。
一番奥の足軽ノ段まで行って引き返した。
この山城はロケの良いところはあまり無く、そういう意味ではイマイチじゃったけど、
当時の面影が沢山残っとって、タイムスリップは出来たよ(^^)
さて、元就が宍戸氏と和睦する際に贈り物を持っていったと書いたけど、
そのときの贈り物が、高橋氏を謀略により滅ぼし手に入れた領地の一部じゃった。
高橋氏の所領は「石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部」といわれとる。
毛利は手に入れた領地を、石見・出雲進出への足掛りにした
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/fc/9ec06dc3beef8d1c5b9ff369d37c369e.jpg)
説明文は下の「高橋盛光の墓」入り口にたっとった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/12/4df807a5a7679b2490877ffcdd4f560f.jpg)
高橋盛光の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/29/19d54ae9f5b57f8fb940b4ca1ad62811.jpg)
ここは「軍原」と言われる場所で、この岩の上で「高橋興光」が切腹をしたといわれとる。通称「腹切り岩」
説明文だけ読むと元就が悪い奴に見えるけど、元就の兄「興元」に高橋久光の孫を嫁にだし、
興元の死後は、嫡男「幸松丸」の外祖父として後見人なり毛利家ににらみをきかせとったらしい。
「幸松丸」死後、元就が毛利の当主となるとき、元就の異母弟、相合四郎元綱が謀反をしようとして粛正されとるが、
このとき尼子氏がからんでいたのは有名な話しじゃけど、高橋氏も一枚かんどったという話しもある。
高橋氏の系図に関しては諸説あるみたいじゃけど、元就の「謀略恐るべし」じゃね(^^ゞ
この時代は生き残るためにみんな必死じゃけぇねぇ。
でも、いろんな話が出てきて面白いね(^^)
宍戸といえば 「宍戸錠」!?フルーハハハ(^▽^)
いやいや、 「宍戸刑馬」ムムムこれはまた、マニアックな名前(^^;
#高杉晋作が馬関戦争の講話談判へ行くときに名のった名前じゃね。「アメツチノハジメノトキ、タカマノハラニナリマセルカミノナハ、・・・」
#古事記を暗唱したというあれのとき(^^;
さて、今回は毛利の家臣「宍戸氏」の縁の地へ行ってきたよ(^^)
長州藩で宍戸氏といえば一門家老の筆頭になっとる。
晋作が名のった「宍戸刑馬」からさかのぼること300年。
安芸の国におった頃の宍戸氏、縁の地へ行って来たよ(○゚ε^○)v ィェィ♪
もともと、宍戸氏と毛利氏は仲が悪く何度も抗争を繰り返しとったんよ。
宍戸元源の時代にも、毛利氏と争っとる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/24/51958b4220807fbc4b926bcbc4b0c0f6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/35/806b04fafafbd07b0be58a69cae2b282.jpg)
宍戸元源(もとよし)夫妻の墓
ほんで、元就の代に元源の嫡孫「隆家」に元就の娘(五龍局)を嫁に出して和睦したんじゃ。
力を付けてきた元就が、贈り物を持っていったんじゃけどね。
これ以降、宍戸氏は毛利の中で吉川、小早川と並ぶ立場になったんじゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/e9/36b0b65aebec51cc78749d3150a6d27c.jpg)
隆家夫妻の墓
元源の嫡男「元家」は元源より先に亡くなっていたため、元源の跡を継いだのはこの隆家じゃった。
隆家は叔父の隆忠を家臣の讒言(ざんげん 人を陥れようとして事実を曲げて告げ口すること。)により殺害しとる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/5e/67c402c05038454a36c15c92db4682b7.jpg)
隆忠の墓
元源、隆忠の墓は、理窓院っていう寺にあるんじゃけど、場所が分からず寺の中をウロウロしとったら、
ちょうど住職が出てきて案内してくれた。
そのとき、寺の歴史とかもちょっと説明してくれたよ。
親切な住職じゃった(^^)
続いて、理窓院から川を渡って隣の山にある、宍戸氏の居城 「五龍城」へ。
五龍城は江の川と本村川と二本の川に挟まれた場所にあるんよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/db/caf7b3ce5185bf3602823452e9ade2fc.jpg)
川の流れに削られたのか、崖が急で山城にはもってこいの地形じゃ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/11/0ef62f2bfc31bff3efed7c06cfe803af.jpg)
山城全体はこんな感じで、かなり本格的?(^^;
なぜかGoogleマップと向きが反対じゃ。
登り口は山城の先端で、今は神社の参道になっとる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/8c/c194c2044c44682b4839afaf96fd39ae.jpg)
参道を上ると最初の曲輪「尾崎丸」に神社がある
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/49/eab1b0902cd49e02ff29ddc3db54a19e.jpg)
宍戸司箭神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/6f/17458c0014ce31218b526705f3599f73.jpg)
ここの「五龍城址図」がわかりやすかったけぇ、貼っとくね。
五龍城は間伐してあって、曲輪や堀切、竪堀がわかりやすかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/cc/e2207d2823302d5ebe207e00a7a715c0.jpg)
これが本丸、向こうに見える段は土塁。
これを越えると、10メートルはあろうかという堀切がある。
大変な工事じゃったろうなぁ。
写真じゃ分かりづらいけぇ、気になった人は行ってみて(笑)
これは、五龍城址図がわかりやすいよ。
一番奥の足軽ノ段まで行って引き返した。
この山城はロケの良いところはあまり無く、そういう意味ではイマイチじゃったけど、
当時の面影が沢山残っとって、タイムスリップは出来たよ(^^)
さて、元就が宍戸氏と和睦する際に贈り物を持っていったと書いたけど、
そのときの贈り物が、高橋氏を謀略により滅ぼし手に入れた領地の一部じゃった。
高橋氏の所領は「石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部」といわれとる。
毛利は手に入れた領地を、石見・出雲進出への足掛りにした
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/fc/9ec06dc3beef8d1c5b9ff369d37c369e.jpg)
説明文は下の「高橋盛光の墓」入り口にたっとった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/12/4df807a5a7679b2490877ffcdd4f560f.jpg)
高橋盛光の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/29/19d54ae9f5b57f8fb940b4ca1ad62811.jpg)
ここは「軍原」と言われる場所で、この岩の上で「高橋興光」が切腹をしたといわれとる。通称「腹切り岩」
説明文だけ読むと元就が悪い奴に見えるけど、元就の兄「興元」に高橋久光の孫を嫁にだし、
興元の死後は、嫡男「幸松丸」の外祖父として後見人なり毛利家ににらみをきかせとったらしい。
「幸松丸」死後、元就が毛利の当主となるとき、元就の異母弟、相合四郎元綱が謀反をしようとして粛正されとるが、
このとき尼子氏がからんでいたのは有名な話しじゃけど、高橋氏も一枚かんどったという話しもある。
高橋氏の系図に関しては諸説あるみたいじゃけど、元就の「謀略恐るべし」じゃね(^^ゞ
この時代は生き残るためにみんな必死じゃけぇねぇ。
でも、いろんな話が出てきて面白いね(^^)
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