日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

福原越後殉難の碑

2011年10月24日 | 歴史
日曜日、錦帯橋に行って来ました。


しかし!ここは桜の名所、この時期は紅葉にはまだ早いし、、、(^^;

感の良い方ならすでに気づいたことでしょう(^O^)

マニアックな歴史物シリーズです(笑)

福原越後殉難の地

ここからまっすぐ、突き当たったところにある、清泰院(旧龍護寺)。

今は、川西保育園の方がメジャーなようです。

福原越後は長州藩家老で、蛤御門の変の責任をとって切腹した三家老のうちのひとりです。


ご挨拶をして、中にはいるとおじいさんとおばあさんが掃除をしていました。

この、おじいさんは詳しいかたで、石碑の前3、4メートルを指して

「そこら辺で、したんよ。」って教えてくれました。

今、私たちが歩き回っとったところじゃん( ̄▽ ̄;)!!

ここで、切腹?!

「そこの手水鉢で☆※*+☆洗うたんよ。」


よう、聞きとれんかったけど、何を洗ったん?

切腹前に手を清めた?

それとも、介錯したあとの刀を洗った?

リアルなお話でちょっとびっくり.。ooO(゜ペ/)/


今度は、錦帯橋のたもと「槍倒し松(やりこかしまつ)」


「昔、諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、
大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。
岩国藩は六万石の小藩であるため岩国の武士たちはこれを見て憤慨し、
そこでかなり成長した横枝の張った松の木をわざと橋の頭に植え、
大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることが出来ないようにしたものです。」

~~~~~~~~~~~~~~説明板より一部抜粋

そうなんじゃ、負けず嫌いじゃったんじゃね(^^ゞ

まぁ、六万石とはいえ岩国藩は吉川氏。

元はといえば毛利元就の三人の息子のうちの一人が養子に行ったところじゃけぇ

関ヶ原で負ける前は本家毛利を小早川家と支えとったというプライドがあったんじゃろうねぇ(^^ゞ

本家が移封される前は毛利家は百二十万石の大大名じゃったけぇねぇ。

もっとも、吉川氏は関ヶ原のとき徳川に内通して、そのせいで負けたとも言われとるけぇ、本家とは仲がよくなかったらしいけど(^^;

吉川史料館


中には国宝「為次太刀(狐ヶ崎)」が展示されとる。

ほかにも、安国寺 恵瓊の書状も展示されとって興味深かった。

文面は忘れたけど、ただの坊主じゃないのぉって思った。(失礼(^^ゞ)


こちらは吉川家の墓なんじゃけど、ここはボランティアの人が説明してくれた。

見たとおり、五輪塔なんじゃけどでかい!

今まで見たこともないほどでかい五輪塔じゃった。


時間は短かったけど、今まで知らんかったこともあったけぇおもしろかったよ(^^)


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