平凡な生活だけど元気で楽しく心がけている生活風景を書きとめようと思っている。
生活風景
お稽古事三昧
4年の滞在中は(メイドさんのお陰で)
時間があるので奥さんはお稽古事三昧。
私は日本からの続きでテニス・刺繍を
その他、ゴルフ・インドネシア語・マクラメ
バティックして過ごす。日本のように
歩いて好きな所へ行けない。ある意味で
閉鎖的生活なので皆とワイワイいろんな
事をするのが海外生活をエンジョイする
秘訣である。中には閉鎖的な人もいるけど
そういう人は体を壊して病気を治すために
一時帰国される。振り返って滞在中に
今、一生懸命楽しんでいる水泳や英会話を
なぜ取り組まなかったのかなと思うと
残念である。当時は若いので1からやるのが
恥ずかしいかったのかもしれない。50歳近くに
なると今しかチャンスがないからとあせりの
ようなものが生まれるのかも知れない。
滞在中に英語がペラペラならもっと楽しめたなと
思う。
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インドネシアジャワ島大地震
インドネシアジャワ島大地震が起きて
気の毒だなと思う。自分が4年程、
お世話になった土地だけに。世界遺産の
ボロブドゥール遺跡にも3回行った。
田畑の中に聳え立つ遺跡だが、すごいの
表現しか出ない。今迄も修復作業を重ねて
やっとの矢先だと思う。この遺跡の穴に
手を突っ込むと幸せが訪れると言われて
皆で突っ込んだり、遺跡に登ってジャンガンと
言っていた光景が浮かぶ。とにかく、家が
レンガで柱も見当たらず、屋根も頼りなさ
そうである。ジャカルタでも貧富の差が
大きいのでビルの谷間にあちこちレンガ作りの
家があるのでジャカルタで起きたら大変。
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4年間病気知らず
4年家族5人が滞在して病院を
訪れたのは、皆無に等しい。
海外という環境で気を張って
暮らしていたのだと思う。
この健康が今もってジャカルタ
生活が楽しかったものに変わって
いるのだと思う。滞在者の中には
体を壊して一時帰国したり、
ノイローゼになったり、取り返しの
つかない悲しい事が起こった方も
おられる。
風邪でお世話になったハルトノ先生は
奥さんが日本人で片言の日本語を話せる
優しいいい先生だった。診察時間は日本と
同じ形態で薬は分業でトコ アポティックで。
痛さを表現するにもサキットぐらいで
日本語表現のシクシク・ズキズキ・
ガンガン等見つからないので困る。
1度ジャカルタプルタミナ病院を
訪れた。ジャカルタ最大規模の大きな
病院である。立派な病院だった。
息子がベッドで額を切って1針程度
縫った。確か説明無しでものの10分
程度でさっさとしていた。記憶では
手法が抜糸に確か行かなかったと思う。
だだっ広い所でカーテンも無い。
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ジャカルタでは日本料理ばかり作る
日本の材料は少々高いけど日本専門店で
買ったり、現地材料で工夫して殆ど日本料理を
作った。おもしろいもので現地にないと
食べたいので工夫していろいろ作った。
羊羹・三笠・くずもち・大福・クリーム
チーズケーキ等に日本ではコンビニでさえ
直ぐに求められる品ばかり。周りの奥さん達は
料理が上手な人が多く、皆教えあって暮らした。
私の両親が遊びに来て、お赤飯を作って出したら、
驚いていたので可笑しい。
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日本人学校
丁度、私達がジャカルタに行った頃が、
企業の海外全盛で治安もよく、企業の
恩恵もよくいい時代に4年いたわけである。
よってジャカルタ日本人も6千人ぐらい
だったと思う。メイン通り近くに大きな
ビルにジャパンクラブがあった。そこへ
行けば日本人のだれかれがいるのと本や
ビデオ、カセット等置いている。
情報も手に入る。私達は12軒の社宅に
いたのでジャカルタの日本人村にいたようなもの。
1回行った切り。社宅の中の小学生は
上は中学2年から小学1年まで10人いた。
日本人学校まで大型バス送迎付き、その
後ろに当番で乗用車に奥さんが1人乗って
送迎ともついて行く。道中に何か現地の
とのトラブルが起きたら対処する。
4年の内、何も起きなかった。
日本人がジャカルタで事故を起こしたら
先ず、帰らせてくれないようである。
群集に囲まれ事故処理も大変な事に
なるそうと聞いている。万が一、起こしたら
取りあえず日本に帰るのがいいらしい。
私達は会社の規定で滞在者は運転は禁止されていた。
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日本からの必須荷物
生活用品は備品が整っていると
聞いていたので4年の生活を
楽しく送れる荷物と考える。
先ず、ステレオ、当時は3個(本体
スピーカーのセット付きでばか大きい。
レコードは35cmで針付きなので
それのスペアも用意した。確か
当時としては高く4500円程した。
踏み敷きミシン(帰国した時に
ポーダブル型になった)お菓子道具
綿の布(可愛いのが現地では調達
出来ないと思って)刺繍セット、
料理本、本、花瓶、和風食器、
写真たて、体温計、水枕(帰国
してからアイスノンが出回る)
浴衣(暑くて着れない)子供たちは
よく着用した。けど暑くて上品に
着用していなかった。ロングドレス
(よく夫婦パーティがあった)
食べ物(乾物)今、ジャカルタは
日本のデパートもあるし、お好み焼き屋も
日本の物は何でもあり、何にもいらない。
聞くところによると社宅を嫌って
メイン通りのヌサンタラ通りの
超高層マンション住まいを選ぶらしい。
この荷物が3ヶ月(船便)かかって
着いた日本への連絡葉書(10/30着)
となっている。花瓶・ハーモニカ・スリッパ
食料品を盗まれていたと書いている。
今は知らないが検閲所でよく盗まれる。
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