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1978.8.24日本への絵葉書



          1978.8.11日に日本を
          出発して24日にジャカルタから
          日本へお礼の絵葉書が残っているので
          キャプチャする。
          絵葉書にはジャカルタの商業中心街
          グロドッグの写真のようだ。
          私はここには4年いたが、行っていないと
          思う。BANGKAⅢ近くのケムチィックス
          スーパー(ヨーロッパ系)ここには、
          べチャといって人力車に乗って行ける
          距離。BLOK Mはほとんど日常品が
          揃う。パサールバルで柱時計を買ったが
          セイコウ社のもので今でもあるけど
          暑さでよく時間が狂う。ゴルフ道具も
          夫婦で買って最近まで使っていた。
          製品はマルマンだった。捨てたくても
          捨てられない。思い出の品だから。
          買い物は2軒に1台の車をそれぞれ、
          シフト表に書き込んで(何時から何時まで)
          使用する。運転手付き。これが社宅の
          争いのもとだった。
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日本を離れる


        
          日本を離れる時の服装は南国に合う
          クリーム色のワンピース(3人)に
          パナマ帽子、息子はブルーのロンパース
          を準備していた。松山空港には工場長さんの
          奥さん、部長さん等会社の人と近所の奥さん、
          友達、ヘルパーさん、兄(最後の家の貸借や掃除)が
          見送ってくれた。伊丹空港では、私の両親が来ていて
          大阪泊、伊丹空港では義母が迎えてくれた。
          そしていよいよ羽田朝11:00離陸して現地に
          6:00着7時間程途中シンガポールで給油ここで
          降りて特有のムーットした南国の暑さを感じた。
          窓から見る景色は椰子・土の平屋赤屋根。いよいよ
          ハリム空港へ。税関は当時なのであっさり通してくれ、
          「ニョニャ アナックバニャック スカリ」と座って
          いる所から笑って覗きながら言った。その時は
          インドネシア語が理解出来なかったと思う。
          「奥さん、子供が多いですね」の意味。現地の人の
           笑顔でほっとしたら何か匂いがする。
           屋台での椰子油である。それと暗い。
          電気色がオレンジ。メイン通りのヌサンタラを
          通過してバンカ3通りのティフィコへ
          12軒の大きな家が高さのある塀に囲まれている
          その1軒へ。外壁はコンクリートフロアは
          石部屋は3つでそれぞれ、バストイレが付く。
          ダイニング・リビングはばか広い。
          最初、座っていても落ち着かない。
          たたみがないので石の上に敷きたいと思った。
          備え付けの冷蔵庫・オオブン・扇風機の
          大きい事。長旅で落ち着いてお茶をすすっていたら
          何かやもりが家の中をはっている。直ぐに
          穴を詰めても出てくる。トッケーといって
          グリーン色のとかげの太ったのが家に
          いついて「トッケー」とたまに鳴く。
          大変な所へ来たと思った。家に到着したら
          2人のメイドさんが既に用意されていた。
          住まいは、メイドさん用の別室がある。
          2人とも独身の18歳とカンポン(田舎)に
          子供をおいてジャカルタに働きに来ている
          22歳の人だった。
 


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