狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

原爆忌

2008-08-06 16:12:41 | 反戦基地
          
私は昭和二十二年の五月、東京へ帰ってくるまで廣島の田舎にいた。ときどき廣島市内へでて、焼けこげた電車にのった。走る電車の両側に、烏有に帰した残骸の街がはるかに遠くまで見渡せた。日ごろ泣虫でもない私が、電車でそこを走るたびに、涙がでて困った。瓦礫の底から死の歌ごえがきこえて来る気がし、地中に埋もれた白骨がまざまざと見える思いがするからであった。足のうらに死体のつめたさがつたわり、るいるいとした屍の上を踏んでいる心地が生々しい実感となっていた。
 (略)
 治癒した癩者の五本の指に似た、湾曲した手の指にも、白と淡紅色の光ったひき釣れがあり、あるときはそのような女の人が、指のあいだに切符をはさんで車掌にわたしていた。真夏なのにこの人はガーゼのマスクで口をかくしていた。(このことをある小説に書いたとき、批評した一人は、こしらえものだと書いていた。)
 (略)(略)(略)
 廣島は戦前、水の都と自称していた。戦争ちゅうは軍都と誇示し、戦争が終わったとたんに文化都市といいかえた。いまは平和記念都市というのだが、私は東京へもどってくるまで、その街に雑草のようにしか生い繁れなかった人間の再生の姿を見た。原子砂漠と呼ばれた廣島に、生き残った人たちは、貴重なものでなくてはならないはずであった。だが、そこには浮浪児も闇の女も、泥棒も、強盗殺人も、ほかの都市にまけないほどいっぱい生まれていたのだった。可哀そうなあの人々は、戦争の真の惨状と罪悪が、戦争している時よりも、それが終わったあとに深くくることを、いま身にしみて知ったことと思う。
(大田洋子「屍の街」原子爆弾抄 昭和25年5月30日 冬芽書房)より引用