狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

敗戦日の朝日新聞朝刊について

2008-08-04 18:27:44 | 反戦基地

 終戦日、昭和二十年八月十五日の朝日新聞朝刊を見て、まず疑問に感じることは、十五日付朝刊には、すでに当日の正午に放送された「玉音放送」がのっており、朝刊を読めば、敗戦は誰でも分かる筈と思うことである。
 事実ボクもそう考えた。この朝日新聞社史ですべてがよく分かった。
 このことに関して朝日新聞社史 大正・昭和戦前編からその事情のくだりを抜粋してみる。

ポツダム宣言を正式に受諾
(略)
 終戦の詔勅の新聞発表は14日夜11時すぎから首相官邸の地下壕の一室で行われた。しかし、当局の要請により、詔勅をのせた新聞の配達は玉音放送以後にする、ということになった。十五日の付朝刊一面の大組みが開始されたのは、夜も白み出したころであった。

八月十五日
八月十五日の朝刊は午後に発送された。東京本社発行の第一面は、一段分を全面通しの横の見出し「戦争終結の大詔渙発さる」、トップの五段見出しは「新爆弾の惨害に大御心 帝国、四国宣言を受諾 畏し、万世の為太平を開く」、記事の横に「詔書」が大きくのっている。他のおもな記事の見出しを列挙すると、「必ず国威を恢弘 政断下る・途は一つ 信義を世界に失う勿れ」(内閣告諭)、社説「一億相哭相哭の秋」「再生の道は苛烈 決死・大試練に打克たん」などがあり、ポツダム宣言受諾までの経過については、「大権問題を慎重検討 受諾を決するまで」「ポツダム宣言全文」があり、十四日の御前会議については「国の焦土化忍びず 御前会議に畏き御言葉」「国体護持に邁進 親政厳たり随順し奉る」がある。(略)

八月十五日の紙面編集がどのような手順ですすめられたのか、残された資料は少ないが、後年、当時の整理部長だった杉山勝美が、読者の問いあわせに答えるため、整理次長で二面担当だった大島泰平らを招いて座談会を開き、「その結果、つぎのようなことがわかった」と社報・朝日人(昭59・8月)に書いている。
 (略)大島君の言うには、正午の玉音放送開始時刻に合わせて末松記者は皇居前に行って取材した。すぐ社に帰っていたが、感激のあまり筆が執りにくい状態であったという。
 この原稿を整理部に渡したのが十二時半ごろ。それから印刷におろして三時頃発送した。
 一面の詔書は交付が十四日午後十一時だったので、これは玉音放送前に入手できたが、文字にするのは十五日正午の放送以後ということだった。
 結局、普通の場合は前夜印刷するのだが、このようような緊急事態だったので、十五日は午後編集が終わって印刷、発送と夕刊なみの朝刊発行となった。
 発送も、当時の手不足から隣組組織を利用して、まず隣組に発送して読者の家にそれぞれ渡したものである。