狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

三月十日に想う

2008-03-10 18:58:26 | 反戦基地
          

春の月戦禍照らした過去を持つ  (高崎市  野尻町子)

これは、今日3月10日付朝日新聞の「朝日俳壇」にあった金子兜太選の句である。
選者の短評。
『野尻氏。三月十日の東京大空襲をはじめ各都市の「戦禍」を忘れることはない。』
ボクは、その頃中学3年生であり、東京を見たことも行ったこともなかった。一夜のうちに十万人以上が焼け死んだということは、戦後になって知ったことだ。勿論新聞もラジオも、殆どが空襲の惨状を全く報道しなかった時代である。
ただ、遠く離れた東京の空が真っ赤だったことと、燃えた紙屑がイバラッケンの我が家まで飛んできたことだけは、はっきり覚えている。それは2回あった。多分それは3月10日と、5月25日の東京大空襲だったろうと今は考えている。当時の軍国少年の気持ちを今再現することは不可能だが、呆然と見ていたことだけは確かである。
ボクが文芸誌の制作編集長(?)になったことは前にも述べた。
編集作業も大詰めである。
実は、誌末の編集後記前に『筆者紹介』と、これまで発行した本紙の『通巻総目録(1)』を掲載した。
その第5号(平成12年度号)は、『私の終戦』特集号だった。
その中に直接隅田公園近くて、実際の体験に遇われたT・Rさんの貴重な記録が載っていた。
《戦場へ行かなかった年代の記録としては、空爆の体験が生死を分ける極限状況として、少年少女期の心に深く焼き付いていることに感銘を受けた》とこの号の編集者は後記で述べている。
なお、この五号までは。印刷は勿論製本まで手作りであった。表紙絵は、当時中学生だった、編集者A兄の倅さんの作である。

摘録断腸亭日乗より
昭和20年3月10日(抜粋)
…ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり。余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり。されどこの二、三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに到しが、戦争のため下女下男の雇はるる者なく、園丁は来らず、過日雪のふり積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、むしろ一思に蔵書を売り払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになりゐたりしなり。昨夜火に遭ひて無一物となりしはかへつて老後安心の基なるやまた知るべからず。されど三十余年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし。昏暮五叟及その二子帰り来たり、市中の見聞を語る。大略次の如し。
昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向島一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠りにおちぬ。