狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

再び断腸亭日乗

2005-09-29 10:17:14 | 反戦基地
今朝の朝日新聞コラム「天声人語」は、60年前のきょう、新聞各紙の第一面を大きく飾った天皇陛下、マックアーサー元帥ご訪問の記事をとり上げている。両手を腰にあてた、軍服姿の大男のマックアーサー元帥と、モーニングを着て直立する、小柄で貧弱に見える、天皇陛下の並んだ写真を、「勝者の余裕と敗者の緊張が並ぶ構図は、人々に日本の敗戦を実感させた」。と書いた。

そして、あの写真は勝者を際立たせただけでなく、時代の歯車も回したとしながら、当時の内閣情報局が発売禁止する措置をとったことに対し、連合国軍総司令部(GHQ)が「日本政府には新聞検閲の権限はない」と処分の解除を命じ、戦時中の新聞や言論に対する制限撤廃もここで即決したとも述懐している。

「これでもう何でも自由に書ける……生まれて初めての自由!」(高見順の『敗戦日記』)を紹介して、あの写真が語り継ぐ時代の重さと結ぶ。

私はこのコラムを見て真っ先に頭に浮かんだのは、「断腸亭日乗」であった。
荷風の日記には、このような言論の自由になったことへの、浮き浮きするような喜びなど微塵も感じさせない。その心情は読む人にとってむしろ深刻そのものであると私には映る。

九月二十八日。
昨夜襲い来たりし風雨、今朝十時ごろに至ってしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂も曇りて暗し。昼飯かしぐ時、窓外の芋畑に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。
戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至っては悲惨も極れりといふべし。南宋趙氏の滅ぶる時、その天子金の陣営に至り和を請はむとしてそのまま俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀れなり。

数年前日米戦争初まりしころ、独逸模擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るかたなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見ようとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴュウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、鶏冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。

これ太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶわれら日本人の特権ならむと笑い興ぜしことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢だに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するがごとき事のあり得べきを知らざらりしなり。

これを思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥かに名誉ありしものならずや。今日この事のここに及びし理由は何ぞや。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲のせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣なかりしがためなるべし。

我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面において顕著たりしに非ずや。

余は別に世のいはゆる愛国者といふ者にもあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるる者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能わざるものたるに過ぎざるのみ。これここに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

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3 コメント

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罹災日録 (ましま)
2005-09-30 17:07:55
昭和20年5月

初五。陰。午前麻布区役所に行く。途すがら市兵衛町旧宅の焼け跡を過ぐるに一隊の兵卒処々に大なる穴を掘りつつあり。士官らしく美る男を捉えて問うに、市民所有地の焼け跡は軍隊にて随意に使用することになれり。委細は麻布区役所防衛課に就いて問わるべしと答う。軍部の横暴なるや今さら憤慨するも愚の至りなれば、そのまま捨ておくよりほかに道なし。吾らはただこの報復として国家に対して冷淡無関心なる態度を取らんことのみ。

~~~~~戦中のインテリ共通の諦観ですか。だけど戦後は何かいわずにいられなかったのですね。
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Unknown (針尾三郎)
2005-10-01 15:20:07
天皇陛下が最初にマッカァーサーを訪ねたのは確か、敗戦の年の9月であったと思います。この件については拙著〝昔の道〟にも書いておきましたが、マッカァーサーは当初天皇から訪問の申し入れをされた時は、どのみち〝自分の命乞い〟にくるわけだからと思って、ネクタイも着けず上衣も着ずに会ったという事です。

何故ならば、それまでの世界の戦史の中で、

敗軍の元首(将)が、勝者の将を訪ねる場合は、例外なく、自分の〝命乞い〟であったからだという事です。

天皇は、マッカァーサーに「自分の身はどうなっても構わないが、国民だけは何とか助けて貰いたい。国民には、戦争の責任はないのだから」と言ったと言われている。

マッカァーサーは、天皇のこの言葉に驚いて、その後、マッカァーサーがトルーマンによって解任をされて、日本を去るまで、11回にわたって、天皇と会っている。

勿論、会談の内容については、お互いの命が終わったあとも、絶対に公表はしない約束であったという。

しかしこの、天皇とマッカァーサーとの幾度もの会談は、日本の戦後の復興に見えざる支えになった事は、確かな事であったろうと言われている。

天皇は、そのような形で、自分の責任の一端を果たしたと、言えないだろうか。
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ついつい昔のこと (tani)
2005-10-06 08:41:42
コメント有難うございます。

ついつい昔の歌が…。



つれずれと空ぞみらるる思ふひと

   あまくだり来むものならなくに

          建礼門院



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