狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

軍神その3

2005-09-07 21:59:47 | 博物館
 第二十七 橘 中佐
 敵は山によりて陣地を固め、盛んに弾丸を打出す。我が兵これを物ともせず、敵陣目がけて突撃すれば、敵は剱の林を以って我を迎ふ。橘中佐、真先に立ちて敵中にをどり入り、忽ち三人を斬倒す。
 敵の弾丸、雨あられの如し。中佐、すでに右手に傷を受けたれども、左手に軍刀を振るひて、部下の兵士をはげましはげまし、遂に日章旗を山上に立つ。時は明治三十七年八月三十一日、朝日のいまだ上らざる頃なりき。
 敵はこれを見て、三方より盛に大砲を打ちかく。いかに心は堅くとも、身は鉄石にあらざれば、砲丸に倒るゝ兵士数知れず。敵はすかさず、更に新手を加へて攻来る。中佐は大音に、
「一度国旗を立てたる此の高地、全滅すとも敵の手に渡すな。一歩も退くな。」
と叫びて、敵を撃退すること数度。中佐すでに第二弾を左手に、更に第三弾を腹部に受けたれども、少しもひるむ色なく、なほ奮戦を続けたり。忽ち砲弾の一破片、その腰にあたり、中佐は、どうと其の場に倒れたり。
 かたはらにありし内田軍曹は、急ぎ中佐をざんがうの内に助け入れて介抱す。戦ますます烈し。中佐、目を見張りて、軍刀を杖に立ち上らんとす。軍曹、中佐を背負ひ、弾丸の下をくぐりて、けわしきがけをかけ下りる。
 ほっと一息つく折から、飛来る一弾、又も中佐の胸を貫ぬき、軍曹の胸をも貫ぬく。二人は一度に打倒されて気を失へり。
 吹く朝風に、中佐も軍曹も、ふと我にかへれり。軍曹、かたはらにありし負傷兵と共に、中佐をいたはる折から、敵の突撃の声盛に聞ゆ。陣地は再び敵に取返さるゝにあらずや。中佐は言へり。
「残念なり。多数の部下を失ひて占領したる陣地を取返さるゝか」。
と。更に形を正して言へり。
「今日は、我が皇太子殿下の生まれ給ひし日なり。此のめでたき日に一身を君国に捧ぐるは、まことに軍人の本望なり」。
と。静かに両眼を閉ぢつゝ、聯隊長・将兵の安否を次々に尋ね、ほとんどおのれの苦痛を知らざるもの如し。
 中佐の全身は次第に冷えぬ。日も暮れんとする頃、
 「軍刀はあるか」。
の一語を最後として、遂に息絶えたり。
 橘中佐は、平生志堅く、勇気に満ちたる軍人にして、上を思ひ、部下をあわれむ心深かりき。此の平生の行ありて、此の壮烈なる死を遂ぐ。中佐が多数の戦死者中、特に軍神とあがめられるもうべなりといふべし。

 これは著作権発行者・文部省の「尋常科用小学国語読本巻九」の軍神の教材である。 此の巻九という国語読本は、小学生五年用後半学期の国語教科書をさす。
 此の文を読んで、今のみなさんにはどう映るのだろうか。

 戦争についていえば、遠くイラクの方まで、全く目的のない戦争に派遣されている多数の日本の自衛隊員。其の家族。日本国内ではそんなこと一向構わず、郵政民営化一点張りの政争真最中。教師は児童にこれを何と教えるのだろう。
 お目出度いことである。

 軍神広瀬中佐は50歳代の人なら大概知っていると思っていた。しかし真珠湾攻撃の9軍神を知らない老人たちが大分多くなってきたことを考えると、小生は今回の選挙が益々投票がバカらしくなるのであった。

 改めて軍神について考える。
 《軍神とは軍功をたてて戦死し軍人をいうが、公的な定義はない。歴史的には日露戦争の際の広瀬武夫海軍少佐と橘周太郎陸軍少佐(死後ともに中佐)を出版物が軍神と称えたことが始まりで、広瀬武夫海軍少佐は、広瀬神社に祭られている。

 乃木希典や東郷平八郎も死後、神社に祀られ軍神とされた。
 だが、その大半は、軍部に盲従し、戦意高揚のキャンペーンを行い、国民を戦争に駆り立てるとともに、大本営発表をもとに虚構の報道で国民大衆を欺いたケースが多い。新聞・ラジオを代表とするマスコミが「軍神報道」を続けるうちに、特定の戦死者が軍神と祭り上げられていったケースが多い。

 しかし(昭和13年)5月、日中戦争最中の徐州作戦で戦死した「西住戦車隊」の西住小五郎戦車長(死後大尉)以降は、軍が公式に軍神を指定するようになった。
 太平洋戦争期には2階級特進の措置がとられ、特殊潜航艇で真珠湾を攻撃した「9軍神」屋「空の軍神」加藤建夫(加藤隼戦闘隊長)らが有名である。》

 これはインターネットを使って「軍神」を検索したその1部である。
タイトルが「軍神一口メモ」とあって署名はない。《参考文献:牛島秀彦著『九軍神は語らず 真珠湾特攻の虚実』(光人社NF文庫)》

 靖国神社は満州事変1万7176柱、日中戦争19万1250柱、大東亜戦争213万3915柱
の英霊を祀る。其の中で「軍神」といわれるお方は幾柱おられることだろう。