車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

世界トップのパラリンピア達

2016年10月07日 22時48分02秒 | 日記
パラリンピックの卓球において、障害者のクラスは全部で11に分けられる。

身体が1~10、11が知的障害となる。

数字の少ない方がより重度となるので、1~5が車椅子、6~10が立位となる。

それはどのように決められるのか?

もちろん専任のドクターの診断によって決まる。

日本国内にもその認定を受けたドクターはいるのだけれど、最終決定となるのは国際大会でのドクターの診断によるものなので、国内での判定はあくまでも暫定ということになる。

その暫定をもとに国際大会へエントリーし、まず最初に診断を受けてクラスが決定。

それから正式なクラスへのエントリーとなる。



僕も診断を受けた。

最初はドクターに書いてもらった診断書を基に問診みたいな形から始まる。

そしてドクターの指示に従い身体を動かす。

またドクターに体を触られるなどし機能のチェックを行う。

その後実際に台についてドクターの助手とプレーをする。

様々なボールを送られ、それをどのように打つかなどの指示もされ、その通りに出来るか、どのように打っているかなどをチェックもされる。

その結果クラスが決まる。



単に車椅子卓球といっても国際ルールではクラスが5つにも分けられているのだ。

卓球はもちろん腕の障害の有無で全然違ってくるし、体幹・座位バランスの有無でも全然違えば、腰が効くかどうかでももちろん違ってくる。

そうしたハンディキャップを失くすためのクラス分けなのだ。

ちなみに体格差によるクラス分けは無い。

腕の長さが30cm違っていてもそれは全く関係ない。

一般の卓球でも身長150cm程度の日本人選手と170cm超の中国人選手がガチでやりあっているのだ。

体格差は身体能力等で補えるのが卓球。

それは障害者も同じこと。



ただ障害者の場合、同じクラスでも身体の機能には少なからず差があるし、残存機能は人それぞれ違っている。

例えばクラス3の選手であっても、クラス2に近い選手もいれば、限りなくクラス4寄りの選手もいる。

全てのクラスの全ての選手にそれぞれ違いがある。

中には下のクラスに降りたい、上のクラスに上がるかもしれないとプレー以外の部分で心中穏やかでない人もいると思う。



いずれにせよ身体障害者卓球にはクラス分けというシビアなルールが存在する。



でもリオの試合を見ていて思った。

「あいつらは障害を言い訳にしていない」と。

あるクラスのゴールドメダル・マッチを見ていても、身体の状態は明らかに違っている選手同士の対戦だった。

でもお互いにそれを全く卑下していない。

障害は一切関係ない。

互いの努力の結果を競い合おうぜ!スポーツマンシップに則り、正々堂々戦おうぜ!

そんな世界が画面越しに見受けられるのだ。

それこそが障害者スポーツの醍醐味だと思う。

本当に「美しい」、「かっこいい」と思った。



障害を言い訳にしない、ルールを言い訳にしない。

負けて悔むのはただ自分自身の至らなさ。

だから相手を心から称えることが出来る。



パラリンピアのトップ選手にはそうした思いが表情にも動きにも、所作全般に表れていたように見受けられた。

障害の有無を超えて、スポーツ選手、アスリートというのは本来そうあるべきなのだ、そうあってこそ真のアスリートなのだと感動した。学ばせていただいた。



頑張っている人は自ずと輝きを放つ。

その輝きに魅かれて人が集まる。

自分のところには人が集まらないと嘆く人がいたとする。

注目されない。

なぜ?

障害があるから?

障害があってあんなプレーしかできないから?

そうじゃない。

シンプルに、輝きを放っていないからなのだと思う。

輝いて見えるだけ頑張っているようには見えていないということなのだと思う。

そに障害は関係ない。



リオの舞台で活躍した選手達が背中でそう教えてくれた。



そんな輝きを放つ彼らは何のために頑張っているのか?

もちろん、自分の為だと思う。

少なくとも、輝きを放つためではない。

自分の為に頑張った結果、輝きを放っているに過ぎない。



僕も、自分の為にもっともっと、もっと頑張ろうと思う。

リオの彼らは本当に美しかった。

美しさは人に感動を与える。

ありがとう、リオ。

ありがとう、パラリンピア。