気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の9 「打吹山城跡の記憶」

2016年11月09日 | 倉吉巡礼記

 打吹山城跡の主郭つまり本丸に着きました。Tさんは初めての登頂でしたが、周囲の眺望がほとんど樹木に遮られてきかないのに少しガッカリしていたようでした。


 北東櫓台上の城名碑にて、記念に撮っていただきました。20年前の二年半の鳥取市在住期にこの城跡には五度ぐらい登りましたが、記念写真を撮ったのは今回が初めてでした。


 ここでの再探索の範囲は、主郭の大手虎口から小鴨丸に至る範囲でした。主郭の北辺には、上図のように石積みがよく残っていましたが、辺りは藪化が思った以上に進んでいて、持参の鉈で切り開いて進んでも状況がよく掴めず、かすかな遺構面を足で踏み確かめてソロソロと移動するのがやっとでした。
 この時の様子を、後ろに続いたTさんが動画にて記録しています。こちら


 小鴨丸辺りの遺構の現状は、どうも「鳥取県中世城館分布調査報告書」記載の図面とは異なっているらしく、描写されるスロープも平坦面も見当たらず、主郭周囲の武者走りも狭い感じでした。一部は風化崩壊しているらしく、足場が無くなっている箇所もありました。
 仕方がないので、主郭の北辺をそのままなぞって東側に回ることにし、東下の郭に降りました。そこには上図の堀切と土橋がありました。これが戦国期以来の遺構であれば、こちらが大手の構えらしく感じられます。これらは重要な遺構ですが、「鳥取県中世城館分布調査報告書」記載の図面には全く描かれていません。後世の攪乱とみたのでしょうか。


 ですが、主郭東辺に残る石積みの一部は、どうみても戦国期のものです。これも「鳥取県中世城館分布調査報告書」記載の図面には全く描かれていません。それ以前に、主郭を含めた山頂の郭群の描写そのものが、実態と大きくかけ離れています。「倉吉市史」掲載の主郭エリアの遺構図面の方が正確になっていると思います。
 現在はここを倉吉博物館付近からの登山路が通っていて、主郭の高い切岸面を斜めに登ってゆく形になっていますが、堀切土橋の位置とも矛盾せず、北東隅の櫓台の直下にあたって監視、牽制も受ける状態なので、おそらくは本来の大手登城道の一部を踏襲していると推定されます。
 ちなみに、本来の大手登城道は、土橋を渡って右の帯郭に進み、そのまま主郭の北辺を回って大手虎口に至るルートであったと考えられます。

 今回はそのコースを、鉈で枝葉を切り払いながら逆に辿ってみたわけですが、結果としては遺構面の劣化が激しいのでいま一つ把握が進まず、別案として東郭の下の郭より並行移動の形で小鴨丸に進み、そこから大手虎口に登るというルートが想定されます。城の防御の面からみるとそちらの方が合理的なのですが、遺構の確認がまだですので、これらは今後の再探査に委ねたいと思います。
 いずれにせよ、打吹山城跡に関しても、田内城跡と同じように未解明の部分が大きいです。


 主郭に戻って一休みしました。


 もと来た道を引き返しました。上図は主郭の南側に位置する虎口の遺構で、おそらく搦手にあたるものと考えられます。石段の一部とおぼしき石材が地面に露出しています。


 続いて、前回未探査であった、長谷寺背後の尾根の郭群に登りました。荒尾氏墓所への入口付近から山に入る作業道のような踏み跡があり、試みにそれを辿っていくと、すぐに目標の尾根地形を捉えることが出来ました。あとは郭群に上がるだけで済みました。


 この郭群は、ほとんど戦国期の廃城以来のままの状態らしく、後世の攪乱も風化劣化もあまり見られませんでした。登山道や墓地に転用された郭群とは、遺構の保存度が全然違いました。
 本来の西麓からの登城道は、こうした郭群を経由していた筈なので、いまの登山道が後世につけられていることが明白です。長谷寺境内地からのルートは越中丸までで閉じていたのが元々の状態で、上図の郭群を経て備前丸に進み、主郭の搦手方面に連絡する、といった経路が中世戦国期までのルートと推定されます。


 その推定を裏付けるかのように、堀切が二ヶ所に残っています。現状では大方埋まっていて、小さな窪地にしか見えませんが、本来は人間の身長の倍ぐらいの規模と深さを有していた筈です。
 堀切は、登城道になり得る尾根筋に設けて敵の動きを制約するために設ける防御施設の一種です。これがある範囲には、堀切に護られる内側空間において連絡路が存在した可能性があります。


 再探査を全て終え、長谷寺境内地に戻って参道を降りました。途中の熱帯植物の大きな群生が印象に残りました。


 Tさんの案内で、昼食を上図の「レストラン味喜」でいただきました。昭和の香りを濃厚に残す懐かしい雰囲気の食堂で、地元住民の利用も多いです。


 昼食後に解散してTさんと別れ、帰途に三朝町図書館に立ち寄って資料の検索をやりました。倉吉市図書館には無い資料も幾つかあるので助かりました。田内城跡と打吹山城跡の今回の再探査結果に関連づけられる資料も得られましたので、収穫は大きかったです。

 以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7」のレポートを終わります。


(追記) この見学行動の一週間後の10月21日に、鳥取県中部の北栄から湯梨浜、倉吉近辺を震源とする震度6の地震が発生、その後数日にわたって震度3以下の群発地震を記録しました。この一連の地震にて白壁土蔵群の一部にて壁が崩落したほか、荒尾氏墓所の墓碑が倒壊するなどの被害が出ました。
 鳥取県はもともと地震の多い地域であり、私が鳥取市に居た二年半の時期にも数十回の地震を体感しています。ですが、ここ数年は静か過ぎたようです。
 今後、倉吉入りされる場合は、相応の配慮と支援の志を欠かさず、個人的に出来ることから少しずつ取り組んで励ましてゆきたいと存じます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする