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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の6 「打吹山城奇譚」

2016年11月01日 | 倉吉巡礼記

 長谷寺境内地から山の北側に回る道を進むと、上図の下山神社があります。周知のように下山神社は霊峰大山の中腹に鎮座する大神山神社の末社の一つです。その系列社は各地に分布して大山信仰の伝播を示していますが、ここ打吹山の下山神社も同様な一例でしょう。
 長谷寺も大山系列の天台宗拠点なので、同じ信仰系譜を有する下山神社が境内地に隣接しているのは、かつては神仏混交の状態が長く続いていたことを示すものと思われます。

 打吹山は、その秀麗な山容がいわゆる神奈備としての条件にかなっているため、城が築かれる前は信仰の山として存在し、古代には既に大山信仰の拡がりの中にあったもののようです。その仏教化によって長谷寺が創建されたという流れであり、つまりは神仏のやすらう聖域としての性格を持っていたことになります。そこに城を築くというのは、神仏の加護を期待する、という側面もあったことでしょう。


 下山神社から少し進むと、西側の眺望がパッと開けます。霊峰大山の稜線も雲に霞んではいましたが、よく見えました。山岳信仰の山には、こうした視界の良い場所が必ずあって、大山信仰ならば大山を遥拝する場所として、とくに尊重されて儀式や祈りの場所とされた場合が多いです。


 その、大山遥拝の場所が、中世戦国期の城砦化によって、大きな郭の一つとして再整備されたのが、越中丸と呼ばれる一群の郭です。山名氏より城を任されて西側を守った家臣山田越中守がここで政務をとったという伝承があることにちなんでの呼称です。


 越中丸は、打吹山の西南の支尾根に連なる四段の郭の最高所にあたり、面積の上では本丸に次ぐ広さを持ちます。東寄りに櫓台とおぼしき高まりが認められますが、現在では長谷寺境内地の一部として八十八所の霊場石仏を並べて安置しています。

「ここに山田越中守が住んで政務を執ったというけど、贅沢な眺めやねえ」
「山田氏がここに居たというのは伝承の域を出ないんよ・・・。確かな史料も記録も無いし・・・」
「でも山田越中守は、山名氏の家臣だったんやろ?」
「分からんね。一時期はそうやったかもれんが、確かな記録からみる限り、山田氏は毛利氏に組みしていた時期が非常に長い。守護代南条氏の下についたこともあったが、意見対立から南条氏とは敵味方同士になった時期のほうが長い。本家は山田出雲守重直といってな、伯耆国の国人の一人ではあるけどな、常に隣国の尼子氏や毛利氏の動きに怯えているって感じで、すぐに強い者の下に靡く。そんな感じ」
「つまりは、日和見か」
「もとは北栄あたりが本拠やからね、街道を通じて西に繋がってるから、どうしても隣国出雲の動向が気になるやろうね。南条氏みたいにガチで伯耆国を護ろう、取られたら奪い返そう、ってなガッツが無い。山田出雲守重直は結果的には毛利の吉川元春について、それでずっと南条氏と敵対してる」
「ふーん・・・」
「でも、山田氏も一枚岩じゃなかったと思うんで、一族には南条氏への忠誠を保った者も居た筈なんや。そういうのが山田越中守を名乗っていた可能性はあるな・・・」


 越中丸の郭群は、城跡の西側の三つの防御線のうちの南側のラインを受け持ちます。その南麓に満正寺がありますので、もとは荒尾氏墓所に通じる山道が満正寺から越中丸を経て通じていたはずです。


 そのことを物語るように、越中丸の南下の尾根筋が堀切で断ち切られています。上図のように、現状では1メートル程度の窪みでしかありませんが、発掘すれば、3メートル程度の立派な堀切が現れることでしょう。
 こうした堀切が、満正寺の横に続く南西下の尾根筋の郭群には二つも並ぶので、この方面の防御意識が高かったことを示唆しています。同時に、満正寺方面から城に登る間道が存在した可能性も浮かび上がってきます。
「その間道は、いまじゃ埋もれて分からんようになってるのかね」
「どうやろうね。郭群が残ってるみたいなんで、尾根道として在ったはず。いまの満正寺の秋葉社ってのが、位置的には間道のルートに相応しいんやけどね・・・」
「それは確認したのかね?」
「いや、まだや。満正寺さんに許可を取ってから探査してみる積り」
「満正寺の方は、そういう城の間道とかについて知っておられるのかね?」
「さあ、どうやろね。荒尾志摩家の墓所への参詣道、なら知っておられるかもね」
「間道って、他にもあったのかね?」
「一本だけ、ってことは無いと思う。城跡自体がけっこう広いから、あちこちに在った筈」
「ふーん」


 道を山頂の本丸へ向かって進むと、越中丸のすぐ上に上図の櫓ふうのコンクリート建物があります。休憩所と展望所を兼ねた施設です。


 展望は、北側に広がります。倉吉の旧市街地と小鴨川の流れが見渡せます。右手には田内城跡のある仏石山も望まれます。


 周辺の樹木が伸びてきているため、眺望は北側のみにとどまり、西側の見晴らしはあまりよくありません。
「展望所とは言うけど、あんまり見晴らしがきかないね。山頂に建てたら良かったのにね」
「山頂はもっと見晴らしがきかないよ。昔からずっと木々に覆われてて、さっぱり見えなかった記憶がある。今はもっと枝葉が伸びてるやろうから、昔よりも見えなくなってるかも」
「ここの方がまだマシってことかね」
「まあ、そういうことになる」


 山道をさらに登っていくと、あちこちに泥をほじくり返したような場所がありました。イノシシのヌタ場と思われましたが、あちこちにありました。それを言うと、Kさんは驚いていました。
「イノシシがおるんかいね、この山は・・・」
「イノシシぐらい普通に居るはずや」
「うーん、なんだか怖いね」
「怖いのは、イノシシよりもクマの方やな」
「えっ、クマも居るんかね?」
「わからんが、蒜山や関金あたりで目撃情報もあったそうやし、山続きになってるから可能性が全く無いとは言えない。第一、自然散策用の山道でイノシシがこうやって痕跡を残すんやから、あんまり人が登らないんやろうな、この城跡には。人影が乏しいとなれば、自然の獣たちが徘徊しててもおかしくない」
「うーん、出会ったらどうするね?」
「滅多にそんなことは有り得んよ。人間の足音や気配を感じれば向こうは逃げていくんや。だから、こうやってしゃべってたり、音を立てて歩いてたりすりゃ、大体は大丈夫」

 話しているうちに、道の右側に備前丸の遺構が見えてきました。かつては切岸を固めていたであろう、石積みの残欠でした。下の石がほとんど崩落し、一番上の石がかろうじて残っている状態でした。
「城跡の石垣かね」
「石垣というより石積みやね。戦国期のものやろう」
「保存状態はあんまりよく無さそうやね」
「もともと城跡としてきちんと認識して保全管理をやってないからね、地元行政が」
「そうやろうね。単なる自然散策路、城跡への登山路、って感じで遺構や郭の説明板とかもあんまり無いね」


 城跡における案内板は、いちおう数ヵ所に設けられています。越中丸と備前丸と本丸には案内板がありますが、いずれも城跡の概略を示すのみです。各所に残る郭や石積み、堀切などの説明板は一枚も見かけません。城跡への山道も、単なるトレッキングコースとして認識されているようです。

 上図は備前丸と伝わる広い郭にたてられた案内板です。備前とは南条備前守のことを指しますが、史実では正式に幕府より備前守に任じられた南条氏の人物は居ません。南条宗勝の弟にあたる元信や信正が備前守を僭称したにとどまります。
 とくに南条信正は南条家家臣団を束ねる重臣の筆頭格にあり、南条元続の後見人を務めましたから、伝承が正しいのであれば、備前丸の名称は南条信正がここで政務を執ったことによるものかもしれません。史料のうえでは天正三年(1575)10月14日付の「吉川家文書」が初見なので、戦国末期、安土桃山期に活躍したことが伺えます。

 当時の南条氏の当主は元続でしたが、その頃の南条氏は毛利家吉川氏の下にあって伯耆国は毛利氏勢力圏になっていました。これを不満とする元続はやがて織田氏に通じ、羽柴秀吉軍の因幡進出に呼応するかのように天正七年(1579)に山田出雲守重直の拠点を攻撃して毛利方を離反しました。
 これに対して毛利方は吉川元春がただちに動いて各地を制圧し、この頃に打吹山城も押さえた可能性があります。山田出雲守重直が後に「宇津吹ノ城(打吹山城)」の「出丸」に入っているからです。この山田出雲守重直が入った「出丸」というのが、山田越中守にちなんで伝承される現在の越中丸なのかもしれませんが、詳しいことは不明です。
 山田越中守、という人物に関しては、南条元続の家臣、としてのみ伝わりますが、前述の山田出雲守重直の一族だったのかもしれません。山田出雲守重直は毛利方に付きましたが、伯耆国山田氏には南条氏方に付いた人物も居た筈なので、その一人が山田越中守だった、と考えることも可能です。


 そのようにイメージした場合、備前丸は南条備前守信正、越中丸は山田越中守、そして本丸下の小鴨丸は小鴨元清(南条元続の弟)にちなんだ伝称であることが分かります。時系列的にはいずれも同時期、南条元続の活躍期にあたります。その頃の打吹山城が、南条氏の拠点として毛利氏の圧迫を受けつつあり、南条氏が伯耆国回復のために城を死守しようと必死で構えた状況が、郭の名称に語り伝えられたのかもしれません。

 上図は備前丸の広い郭面ですが、樹木や下草が広がって全てが自然に還りつつあります。打吹山城に関しては、知られている史実がほとんど無いために、全てが伝承や奇譚の類として言い伝えられている程度にとどまっていますが、そういった奇譚のストーリーほど、実際には史実を反映しているケースが少なくありません。
 南条元続が正式に伯耆守に任じられて後、事ある毎に伯耆国を奪回回復せんと動いた経緯はよく知られていますが、現在の倉吉ではあまり顧みられていません。倉吉市観光PRショートムービーの「ホウキノクニカラ」においても、女子高生と一緒に倉吉の観光名所を巡るという、訳のわからない扱われ方をしています。伯耆国守護代職にあって激闘の日々を送った戦国の勇将、といったイメージすら無く、昔からタイムスリップしてきた変な侍のオジサン、といった演出表現ですが、こういうのが観光PRとして相応しいかどうかとなると、個人的には首を傾げざるを得ません。

 要するに、今の倉吉においては、南条元続に関する正しい歴史的評価すら、定まっていないのでしょう。だから、鳥取県屈指の規模と歴史的背景を有して広大な遺跡群を残す打吹山城も、単なる自然の散策コースとして放置されているわけです。最も面白いはずの中世戦国期の歴史が、完全に埋もれて忘れ去られているわけですが、それこそが倉吉の「奇譚」だと思うのです。 (続く)

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