登城遺跡の遺構のうち、発掘調査にて確認された範囲においては堀や溝、建物跡などがあり、発掘終了後は埋め戻さずにそのまま放置されていました。当時、現地はすぐに開発工事が始められて遺跡も破壊される計画でしたが、周知のように開発計画が頓挫し、遺跡の放置状態も長引いて、結果的には草薮になってしまっています。
だから、発掘調査で確認された堀跡などは、流れ土などで埋まっているものの、なお形をとどめて草薮の中に残っていました。上写真は、四号堀の現状です。伐採した木や枝葉などを投げ込んであるのでほとんど塞がってしまっていますが、位置は明瞭に識別出来ました。
今回、重機が地表面の削平を進めていた範囲は、城跡の発掘調査範囲にて遺構や遺物が集中的に検出されたⅠ郭およびⅡ郭の東半分にわたります。そのなかには土橋状の虎口、水戸違いの施設などもあって、この城跡の中心的な区域であったことがうかがえますが、いまは全て車道計画線の盛り土の下に消え、一段高い郭面は削られて、遺構面は完全に消滅しました。
Ⅰ郭の南側からⅣ郭にかけての東側も、御覧のように大きく削られ、約1メートルほど下がっています。東端の切岸は埋められて、車道部分を確保すべく大規模な盛り土がなされました。それで台地上の平坦面がさらに広がった形になっています。
このように東側の遺構を全て失ってしまうと、残された遺構の輪郭はぼやけてしまいます。かつての遺構の全体像を見て知っていなければ、どこまでが遺跡であるかが識別出来なくなります。半分は残るから大丈夫だ、というような問題ではありません。
遺跡は、全体像が誰の目にも明らかな状態であって初めて、遺跡としての真価を発揮しますから、全部が保存されなければ意味がありません。半壊状態では、全壊状態とあまり変わりません。
この遺跡を破壊して設置される道路も、国道や県道といった重要な交通路線であるならば仕方が無いのですが、南側に計画される公園地区への導入路であると聞いています。その公園地区計画というのは自然環境とともに歴史遺産をも保護するという目的があるそうなのですが、その対象遺跡は、登城遺跡の尾根の南側に分布する古い時代の遺跡であるようです。
つまり、古い時期の遺跡を守るための公園地区への道路を、新しい時期の城跡を破壊することで確保しようとしているわけです。それは果たして文化財保護のあるべき姿でしょうか。遺跡保存という目的があるならば、登城遺跡も含めて保存すべきではなかったか、ということです。これが、破壊されてゆく登城遺跡からの、最大のメッセージだと受け止めています。
遺跡だけでなく、自然環境への負荷も大変に大きいです。もとあった谷間の半分を埋めて車道が計画されること自体、自然環境の保護という目的とも矛盾しています。この谷間は、歴史的にみると登城遺跡の東側の天然の堀という機能をもっていたはずなので、自然環境であると同時に遺跡範囲にも含まれていたとみるべきです。その景色も大きく変わってしまいましたので、景観も破壊されたわけです。
谷間に降りてみました。動き回っている重機がかなり高い位置に見えましたので、もとの城跡の切岸面がいかに高かったかがしのばれます。その高さを頼んで防御線と成した、中世戦国期の城跡でした。
重機が北へと進んで次の作業に移っていきました。谷間には、かつての廃棄ゴミが数ヵ所にまとめてあり、この辺りも不法投棄の場所であったことを物語っていました。
茨城県に限らず、中世戦国期の城跡や遺跡は、辺鄙な山の中や市街地から離れた丘陵地に分布することが多いので、産業廃棄物の最終処理場やごみ捨て場、不法投棄のエリアなどに近接または該当してしまうケースが少なくありません。
そんな中、まだ姿を保っていたⅡ郭北側の土居跡と堀切跡です。それらを分断している鉄板敷きの仮作業道と比較すれば、その形状がよく分かります。
レンタサイクルの返却時間が近づいてきたので、遺跡見学を切り上げて工事現場の出入り口に向かいました。
千代田テクノルさんの正門付近にとめてあったレンタサイクルを、記念に撮影しました。
もと来た道を引き返して、浅間神社の丘の上まで来ました。マリンタワーや市街地の一部が望まれました。
リゾートアウトレットへ戻る途中、田口理容店さんの前を通りました。その駐車場脇のガルパン戦車看板は、いつの間にかアンツィオ戦直前の練習シーンの姿になっていました。 (続く)