今年も、あの太平洋戦争が終わった8月15日がやって来ます。
数ヶ月前、老父の荷物を片付けている時に、
偶然見つけた写真です。
今まで一度も見た事のもない、
生まれて初めて見た写真です!
一兵卒だった若かりし老父が写っていて
軍服姿の集合写真もありましたが・・・。
(済みません、ここではご紹介しません。)
老父が所属していた連隊で、中国の秦皇島(しんのうとう)に居た頃の
山海関(さんかいかん=万里の長城の東端)付近の写真には
間違いはないとの事なのですが・・・。
しかし、なぜこんな写真が自分の手元にあるのか?
誰が撮影した写真なのか? そして、誰に貰った写真なのか?
これらの記憶が一切はっきりせず、
どうしても思い出せないのだそうです。
いや、本当は思い出したくない記憶なのかもしれません・・・。
歴史の教科書に出て来そうな貴重な写真なのかもしれませんね。
ちなみに、老父は
「自分は技術者だから、士官にはなれません!」
と本当に一兵卒で通した頑固者だったのだそうです。
当然ながら下士官や古参兵から顔が歪むほど殴られ、
実家の弟達からも”非国民”と罵られたのだそうです。
しかし、何と言われようとも、最後まで自分の主義主張を
押し通し続けたのだそうです。
こんな頑固者の父ですが、技術者(菅総理と同じ、応用物理学科卒です。)
である以上、気象観測やら装備のメンテ等々では、
それなりに連隊の役には立っていたようです。
また、父のような頑固者が数人おり、それに手を焼いた連隊長が
地元中国の方々の民生上のトラブルの相談に乗るなど、
中国の方々への住民サービス的な役目を任されていたのだそうです。
ところが、これが功を奏したのか、連隊の撤退時には
地元中国の方々に助けられ、奇跡的に
八路軍(はちろぐん=毛沢東率いる中国共産党抗日ゲリラ組織)
に一度も襲われずに、無事に老父所属の連隊は撤退できたのだそうです。
老父は、終戦の1年9ヶ月ほど前の昭和18年11月8日付け
の辞令で、急になぜか招集される前に勤務していた
某研究所に呼び戻されて、
結果的には南方の激戦地に送られずに済み、
命が助かったのだそうです。
前述したような老父の頑固なまでの性格が結果的には幸いして、
本土に呼び戻されたのかもしれません。
人生とは本当に分からないものですね!何が幸いするのかが・・・。
【ご注意】
撮影者、著作権者が不明な写真なので、
転載、転用は厳にご遠慮願います!