<鼻歌で散歩>

くも膜下出血で受け死にかけました。鼻歌を歌って散歩しながら体力つけて100まで生きるつもりです。

3.5kmを歩きました

2020-04-30 22:16:17 | ガルマルの鼻歌で散歩
このコロナのおかげで通っていたジムが休止になりました、来週の連休もおそらく休止だと思います。何もしないでいると筋力が落ちることが心配になります。せっかく筋肉がついて少しずつ歩けるようになったのに、元のようになったら行けません。それで倒れる前に散歩のコースにしていた近所の公園から離れた別の公園に散歩しました。グーグルマップで調べていたので距離は3.5kmくらいということはわかっていました。50分ほどかけていくことができました。出血する前は30分くらいで着いて足が痛くなることもなく歩いていたのに今日は足が痛くなったし、50分かかりました。時速4キロくらいで歩いたことになります。ジムでトレッドミルで歩くときは時速2キロにしています。それ以上にあげると「体が左に傾いていますよ」とトレーナーさんに注意されます。私は「ばれたか」と言いながら2キロにします。それも30分しか歩けません。それで歩けるかどうかわからなかったので無事その公園に着いたときはホッとしました。力がついてきたのかなと思います。2016年6月に退院したときは3分以上は続けて歩けなかったので随分進歩したなと思います。
実はトレッドミルをしている間にわかったことがあります。多分なんですが、右と左が同じように動く必要があると思うんですね。どちらかの足に負担がかかると疲れる補講になると思います。トレッドミルには時計がついていて歩き始めてからの時間が秒単位で表示されます。そこで右足を出すとき1、3にして左足を2,4の時に出します。それを時計の表示に合わせて足を出すようにするのです。例えば10分1秒の時にもごあしを出して1です。2秒の時に左足を出します。それを8までやります。つまり1歩1秒で歩くことになります。おかしなことに4を超えたくらいから少しずつずれます。どうも4で左足を出す時に我慢できずに3で左足が終わります。どうも左足が途中で速くなるのです。それでわかったのですが左足があまり上がってないのです。上がる前に着地するので左足が早くなることがわかりました。それで左足を少し上にあげて歩くことにしました。すると一秒一歩ができるようになりました。左足と右足が同じように歩いてるんだと思います。それを今日も実践しました。左足を出す時に右足に体重を乗せて左足をあげるように歩いていました。
そんな風に毎日工夫をしながらコロナにつきあっています。

粗忽長屋

2020-04-26 11:10:35 | 蜘蛛膜下出血
落語の噺の中に粗忽長屋というのがあります。長屋に住む八と熊という落語の定番の二人が登場します。ある日八さんが散歩をしていると人だかりがありました。行き倒れがいるらしくて大勢の人が集まっていました。八さんがそこにいる人を押し分けて行き倒れを見に行きます。するとそこにいたのは八さんの隣に住んでいる熊さんでした。「大変だ。熊が死んでるよ。急いで教えてやらないと」と言って慌てて長屋に帰ります。長屋で熊さんの家に行きますと熊さんが出てきました。「おっ熊いたか。お前死んでるぞ」と八さんが教えてあげます。二人で行き倒れの死体を見に出かけます。すると行き倒れの死体を見せながら「なっ死んでるだろう」と八さんが熊さんに言います。「本当だ。あそこで死んでるのは。俺だ」と熊さんは言います。言いいながらも「死んでるのは俺だけど、その死んだ俺を見ている俺は誰なんだろう」と思います。落語らしい不思議な噺です。
私もこれと同じことをクモ膜下出血で入院中に体験しました。会社に電話をかけて「私に連絡を取りたい」というと、会社の人は「頭の病気でいません」と答えるのです。それを聴きながら「そうか私は死んでいるのか、でも私が死んだということを考えているこの私は誰なんだろう」と思っったのです。誰かに言ったわけでもなく、落語にかけたオヤジギャグのつもりだったのでしょう。でもその頃は自分に何が起こったのかわからなかったのです。クモ膜下出血の日から一年くらいはほとんど何も覚えていません。くも膜下出血ということさえ理解してなかったと思います。
それでこの粗忽長屋は不思議な噺だなと思っていました。それが最近思うのです。これは藤子不二雄さんの漫画「パーマン」に出てくるコピーロボットのことかなと思うんですね。パーマンが任務で出かけるときは押し入れに隠してあるコピーロボットに額をつけて自分の記憶をロボットに移すんです。パーマンがいないときはコピーロボットがパーマンの代わりに活動してくれます。それでパーマンの任務遂行中に起きたことを記憶してもらって帰ってきたらまたロボットに額をつけて任務中に起きたことの記憶を教えてもらいます。それでパーマンは自分の生活にスムーズに戻ることができます。粗忽長屋に戻りますが熊さんはコピーロボットに記憶を写したんはないでしょうか。熊さんが任務で出かけてる間に熊さんの記憶を持ったコピーロボットが行き倒れたんです。そこで一つ疑問がわきます。熊さんは自分の記憶を写したコピーロボットのことを忘れています。パーマンはコピーロボットのことを覚えています。熊さんとパーマンのコピーロボットの性能が違うんです。
熊さんの時のコピーロボットは記憶をコピーすると全部の記憶がなくなる仕様なんですね、その点、パーマンの時代にはコピーロボットに記憶をコピするだけで元の記憶はちゃんと保存することができるロボットが開発されていたんです。チャンチャン。お後がよろしいようで。

今は病気で倒れないほうがいい

2020-04-25 11:53:25 | 蜘蛛膜下出血
5年前私がクモ膜下出血で倒れた時は近くに脳外科病院がなくて救急車で2時間かかって近くの脳外科病院に着きました。病院に着いた段階でグレード5の状態でした。グレードは患者さんの意識の状態でグレード5というのは意識がなく昏睡状態で瀕死なんだそうです。ネットで調べてみてもグレード4か5の場合は手術しないという病院があります。グレード5になると手術をしても死ぬし、しないと死んでしまうということなんでしょう。運ばれた病院の医師が「普通は手術しないけれどこの患者(私のことです)に体力がありそうなので手術をします」とあえて手術をしてくれたようです。もちろん私はそんなことは知らずに昏睡状態だったので一切の記憶はありません。こんなことが起きたのに、現在のような伝染病で病院が混乱している時だったら、救急車で運びこまれても病院は困るでしょうね。私が倒れた時にこんな伝染病が流行ってなくてよかったと思います。運が良かったということだと思います。

体が走り方を教えてくれた

2020-04-24 21:46:04 | 蜘蛛膜下出血
くも膜下出血によって脳が傷つきました。でも体は無傷でした。。脳と体がうまく繋がってないから歩けなくなったり、喋れなくなったんだと思います。このつながりを再構築するのがリハビリだと思います。維持期の始まりごろです。公園で歩行訓練をしていた時のことでした。頭の中で「こうやれば走れるよ」と体が言ってるのです。まだ満足に歩けないのにです。確かに頭の中に私の体があって走っているのです。その通りに走ってみました。すると走れたのです。びっくりしました。走った証拠にと思い家族に走ってる姿 を動画で撮ってもらいました。リハビリに行った時理学療法士に動画を見せました。彼はびっくりして「今年見た動画の中で一番びっくりしました」と言ってくれました。家族も私の入院中に見舞いに来てくれた人たちもびっくりしていました。走ってみんなにびっくりしてもらおうとしたオヤジギャグのつもりが本当に走れてしまったのです。脳から指示が来るわけではなく体が指示を出すこともありなんです。人体は面白いですね。腸は第二の脳と言われていますが、この頃見つけた本で「皮膚は第3の脳」というタイトルの本があります。体は全体で連携して脳の役割をしているのかもしれません。

リハビリで体の動きを思い出す

2020-04-23 20:19:37 | 蜘蛛膜下出血
ジムに移ってからスムーズに歩けるためには筋力を高めることが大事だと思いました。リハビリでは筋力を上げることはできません。だからと言ってリハビリは無用だというわけではありません。リハビリは動作を繰り返すことで頭と筋肉のつながりを思い出すことだと思います。急性期の時は理学療法士に抱きかかえてもらって歩きました。回復期の時はトレッドミルに吊り下げられて歩きました。理学療法士やトレッドミルがなければ歩けなかったのです。でも歩く真似事をすることで体と脳がどうやって歩いていたかを思い出すのです。クモ幕下出血で壊れたのは脳だけです。残りの体は傷ついていません。だから両者がつながれば元のように体を動かすことができるはずです。この二つを結ぶことが大事なのです。ブルーバックから出ている「脳から見たリハビリ」とNHKの「リハビリ革命」にも壊れた神経はバイパスを作って元の機能を取り戻しているということが書かれています。そのためにも麻痺している部分を意識することで神経がその部分に向かって伸びていくんだと思います。だから意識して体を動かすことが必要だと思います。
このことを意識したのは病院のリハビリにいた時に作業療法士の人に両肩をあげてくださいと言われたときのことです。両肩を上げていると左肩から「あげてるよ」という信号が送られてきました。それなのに作業療法士さんに「左肩が上がってませんよ」と言われました。「えっそんなことないですよ。左肩は上がっているはずですよ」というと作業療法士さんは「じゃあ鏡の前に行ってご自分でみてください」と言いました。それで鏡の前に座って両肩をあげてみました。すると確かに左肩が上がってないのです。左肩は「あげてるよ」というのですが一目瞭然。上がってないのです。まだ脳と体が繋がってなかったのでしょう。何回かあげているうちにだんだん上がるようになってきました。体が思い出してきたんだと思います。そんな風に体が思い出す手助けをするのがリハビリなんでしょうね。

クモ膜下出血維持期 外来リハビリからジムへ

2020-04-22 21:28:53 | 蜘蛛膜下出血
急性期、回復期、療養等の入院とすぎていき、退院となりました。自宅で維持期が始まります。維持期の始まり2年間は外来のリハビリを受けました。この2年間は骨折したり、腎結石ができたり、未破裂の動脈瘤をクリッピングしたりと3回の手術を受けました。退院して2年間すぎて同じ病院内にあるジムに行くことになりました。保険制度のために外来リハビリを続けられないのです。ジムに行ってよくわかったのは、よく転んでいたのは筋力が低下していたからだということです。筋力をつけることがリハビリにも効果的だということです。ジムに行き始めてからは手術を受けることもなくなりました。それにジムには脳梗塞や原因不明の脳の損傷受けた方などがいて私にすれば情報交換の場です。コロナのせいで現在ジムは閉鎖中ですが、早く再開しないかと思います。
ジムに行かないと人と話をしないし、筋力も低下する感じです。それで毎日公園を散歩して筋力が落ちないようにしています。

入院中にデビッド・ボーイが亡くなっていた

2020-04-20 16:38:54 | 蜘蛛膜下出血
くも膜下出血で入院している間にデビッド・ボーイが亡くなっていました。病院の人に教えてもらったのか家族に襲えてもらったのか忘れましたが、40年前に渋谷公会堂にデビッドボーイのライブを見に行ってます。出血前にもう一回デビッド・ボーイが来ないかなと思っていたのでとても悲しかったのを覚えています。デビュー当時初の中産階級のロックスターということで注目されていました。後からローリングストーンズも中産階級出身だったことがわかったのでどうってことないのですが。渋谷公会堂ではスターマンの入ったアルバムを中心に歌ってました。懐かしい限りです。

リハビリの記憶 維持期2

2020-04-18 11:25:46 | 蜘蛛膜下出血
回復棟から療養棟に移って2116年6月に退院しました。くも膜下出血で倒れてから1年とちょっとの入院でした回復期の最後には廊下に付いている手すりを使って自力で立って歩けるようになってました。療養棟にいる間に手すりがなくても自力で立って歩けるようになっていました。退院することで自宅で歩行訓練をする維持期に入ります。退院から2年間は病院の外来リハビリに通いました。週に一回ずつ理学療法と作業療法を受けました。維持期からはある程度声を出せるようになっていたの」で言語聴覚士のリハビリはなくなりました。人に聞こえる大きな声が出せなかったのにしゃべることができるようになったので言語聴覚士さんには感謝感謝です。退院して自宅には久しぶりに戻ることができました。家で飼っていた犬がペロペロ顔中を舐めてくれました。今月の初めに死んでしまいましたが、今考えると歓迎してくれたんだと思います。入院中は忘れないようにと家族がその犬の写真をベッドの脇に置いてくれていました。今度は私が舐める番です。その犬は人の真似をする犬で私がクモ幕下で倒れている時に脳炎を起こしたようです。まさか空気感染したんではないと思いますが。

退院することで維持期が始まりました。自身で歩行練習をする必要があります。幸い自宅からは多くの車が通るような大きな道路を渡ることなく歩道だけを通っていくことができる公園があります。退院直後は目に自信がないし、足元も不安定でいつ転ぶかわからなかったので車の多い道路を渡るのは不安でした。調子に乗って毎日のように公園に行きました。以前と違って長く歩くことはできませんでした。倒れる前は一日1万歩は普通に歩いていました。それが退院直後は3分くらい歩き続けるのがやっとでした。公園の真ん中には池があります。決まったところから池を一周して同じところに帰ってくることを始めました。最初の頃は10分以上かかってましたし、最初の数回は途中で3回くらい座って休んでました。2ヶ月くらいで休まずに歩けるようになりました。時間が経つにつれて退院してから4年経った今では6分前後で一周しています。

リハビリの記憶 療養棟

2020-04-02 16:49:27 | 蜘蛛膜下出血
回復期が終了して療養等に病室が変わりました。回復期とは違いリハビリの回数は減りました。理学療法士、作業療法士、 言語聴覚療法士(ST)が全て変わりました。療養等に移る前にPT、OTに呼ばれました。行ってみるとどのくらい動けるのか調べるためなのでしょう。服を着たり脱いだりさせられました。新しいOTが「歩くのは安定しなくて危ないから出来るだけ車椅子を使ってください」と言いました。私はできるだけ歩こうと思っていましたから、納得できませんでした。私はリハビリさんたちが車椅子に乗ってくださいというのは客観的に見ると歩けるようにはならないということを暗に言ってるのかと思いました。その時は自力で立って歩くことができなかったので「いえ私は車椅子ではなく歩きます」と言い張ることはまだできませんでした。
その時から少しずつ車椅子に乗るようになりました。しかしうまくいきませんでした。体幹も安定してなくて座位を取るのが難しかったこともありますが、回復期の間に握力が落ちていて数キロしか無くなっていたのが大きな原因でした。手で車椅子の車輪を動かすことができなかったのです。足を床に剃って前に進むくらいしかできませんでした。歩きたいという気持ちの方が強かったのであまり熱心に車椅子の練習をしませんでした。車椅子をうまくうごかせなかったのですがこの後に方針が変わったみたいです。歩いてもいいよという具合になりました。OTが「どうして変わったんですか?」とリハビリ担当の先生に聞いているのが聞こえたのですが、その先生は「だって、あんなに歩けるとは思わなかったんだもん」と言ってるのが聞こえました。私の歩行も進化していたんですね。OTはリハビリ室を歩く訓練をしてくれました。PTは歩きたいという私の気持ちを察してくれたのか積極的に病院の外に連れて行ってくれて外の空気を吸って歩かせてくれました。病院の中を歩くのと異なり路上の様子を見ながら歩く必要があります。PTは私が歩けるようになると思ってくれたんだと思います。

リハビリの記憶 回復期2

2020-04-01 22:31:12 | 蜘蛛膜下出血
前に書いたように回復期の終わり頃には自力で立って歩くことはできてもヨタヨタ歩くと言った感じでとても退院できるような状況ではなかったのです。このまま退院して家に帰ってもとても安心して暮らせないところでした。回復期の終わりに担当の理学療法士さんと作業療法士(OT)さんが私の実家に来てくれて家に帰って暮すにはどうしたらいいかというアドバイスをしてくれました。例えば、車を降りてから家の玄関まで行くのが大変だろうから車を停めるところから玄関まで手すりをつけることとか。階段を上るのが大変だからエレベータをつけるとかでした。結局退院までには玄関前の手すりだけでした。その時自宅階段を上るwつぃのどうががありますが、一段を登るときに両足を乗せてゆっくりと登っています。右足を出して一段登って右足と同じ団に左足を乗せるというやり方で登っています。あれから4年経った今は右足と左足を交互に引き上げて普通の人のように上がっています。回復期の時は自立して生活できるような状態ではなかったので色々とアドバイスをくれました。その中で実際に工事をしたのは道路から玄関に向かう階段につけた手すりでした。他のことはあまりしませんでした。
回復期の終了間際になっても歩くことも含めできることは少なかったので病院側も回復期後のリハビリをどうするか考えてくれました。色々な選択肢の一つは要介護の患者さんや痴呆症の患者さんがいるケアセンターに入ることでした。ケアセンターには回復期の終了していきませんでした。でもまだ縁は続きます。結局普通の患者さんたちに混ざって療養等に行ってリハビリを続けることになりました。

リハビリの記憶 回復期

2020-04-01 10:55:51 | 蜘蛛膜下出血
急性が終わって回復期が始まります。急性期は手術の直後から始まりました。急性期の間に担当の理学療法士(PT)さんが抱きかかえて歩かせてくれました。私は覚えてないのですが動画を撮ってくれたので。どんな様子だったかはわかっています。回復期が始まるとジムによくあるトレッドミルに頑丈なフレームをつけてフレームに体をぶら下げるおくるみのようなものをつけて歩行訓練が始まります。これはPTさん達にとっても大変な負担みたいで右と左足にそれぞれの担当のPTがついて後ろに私の体を押して前に進めてくれるPTが付きます。これだけの人数のPTを集めるのも大変だと思います。ただ回復期の最後の方はPTの数も減って後ろから押してくれる人の一人だけになりました。
それでも私が自力で立って歩くことはできませんでした。どうしたら歩けるようになるかなと、思っていました。ところがある日、いつもとはちがうPTと訓練していたところ。そのPTが「あの手すりにつかまって歩いてください」言ったので病院内の廊下にあった2mくらいの長さの手すりにつかまって歩いてみました。手すりのおかげで倒れることなく自力で立って歩くことができました。私としてはかなり嬉しい瞬間でした。手すりにつかまってはいるものの自力で立って歩いたわけですからいつか歩けるようになると思いました。
かなり歩く自信がついたので担当のPTに「自力で立って歩けるようになりたいと言いました」すると「それが僕たちの目標です」という答えが返ってきました。同じ夢を持ってるんだなと感じた瞬間です。リハビリさんとのこのような信頼関係が必要だと思います。
それでも回復期には自力で立って歩くことができるようになりませんでした。手すりにつかまりながらかろうじて歩いていました。そうやって歩いてるうちに少しずつ手すりを話して危なくないように自力で立ったりしていました。