<鼻歌で散歩>

くも膜下出血で受け死にかけました。鼻歌を歌って散歩しながら体力つけて100まで生きるつもりです。

CDの整理をしなくては

2020-08-15 23:16:00 | ガルマルの鼻歌で散歩

CDが一般的になったのはいつ頃か忘れましたが、少なくとも1990年代の初めまではレコードを買ってました。CDが一般的になってからはCDを500枚ほど買っています。ドアーズやボブ・ディランのように古い人の出したものは同じものをCDとレコードで持っているものもあります。ハワイアンやラテン音楽はCDを買い始めてから聞き始めたのでほとんどCDで持ってます。レコードの時代には高くて買えなかったので古い音楽でCDを持っているものもあります。今思い出せばコンサートに行ったのは1970年代のデビッド・ボウイが最初で渋谷公会堂に観に行きました。その前にドノバンも観に行ってます。それ以外はキング・サニー・アデとレゲースプラッシュを見に行ったくらいでしょうか。2010年ごろからブエナビスタソーシャルクラブにも行きました。なくなる前のコンパイセグンドも見に行きました。他には歳をとったザ・フーとローリングストーンズ、ボブ・ディランを見に行ってます。あっサイモンとガーファンクルも見に行きました。最近ではナプア・グレイグ良いうフラのダンサーを見に行ってます。ナプア・グレイグと言う人はおじいさんが沖縄の人だそうです。「なかそね」と言うミドルネームを、持っています。

そんなわけでCDを持っているのですがこの頃その管理に困っています。CDの外側と中の曲が入っている中身が違うものが多くなっています。今朝のことなのですがSol Ho'opi'iと言うハワイアンギターの人のCDをかけたのですが、流れてきたのはドアーズの「ブレークオンスルー」でした。ハワイアンなのにドアーズのカバーをしてるのかなと思ったのですが、その次もドアーズでした最後は「ジ・エンド」だったのでおかしいなと思ってCDを見るとドアーズのデビューアルバムでした。つまりハワイ音楽のCDケースにドアーズが入っていたのです。CDを聞いた後に元のケースに戻せばいいのですが、そんなことをせずに適当に開いているケースに入れているのです。私の部屋にはケースのないCD本体と何も入っていないケースがどんどん増えています。確かにCDをかけるときはどんな音楽がかかるかわからないスリルはあるのですが、聞きたい音楽がどこにあるかわからないと言う状態が続いています。整理をしなおそうかと思案中です。

これはクモ膜下で動脈瘤が破裂したからだと言われそうですが、破裂する前も同じことが起こってました。CDだからと言うこともなく、レコードでも同じことが起こってました。クモ膜下出血のせいだけではなく性格的なものかもしれません。脳内の出血のせいで整理のできないおかしい人になったわけでもないと思います(多分)。


ウィーウィーウィーウィーロッキュー

2020-08-15 16:33:05 | ガルマルの鼻歌で散歩

2016年の6月下旬に病院を退院しました。回復期の後、療養等でリハビリを続けての退院です。退院が決まってから作業療法士さんと理学療法士さんが私の手や足の動きを確かめてくれました。障害者手帳の申請をするためです。退院してから市役所から障害者手帳が届きました。それには体幹障害5級とありました。

周りの人に障害者手帳のことを聞かれるとクィーンでおなじみの"We will we will rock you"を歌っていました。それが今回のタイトルです。最初のウィーウィーは酔っ払いが飲み過ぎて吐きそうになったように歌います。歌い終わった後に「でも俺は5級だけどね」と言おうと思ってました。"Rock you"は6級に聞こえるので自分のことを伝えるのに最高につまらないオヤジギャグを使おうとしていたことになります。残念ながら、最後のオチを言うことはありませんでした。つまらなすぎるから自分で嫌になっていたのです。


記憶の距離感を喪失しました(クモ膜下出血手術後の目と記憶の距離感)

2020-08-06 10:39:13 | 蜘蛛膜下出血

くも膜下出血で手術を受けてリハビリを受けてから一年間ほど入院後してから退院しました。手術の後は喋れず歩けずたべれなかったのですが目もちゃんと見えなくなっていました。物が全て二つに見えたのです。眼科のクリニックに行きましたが手術で右目と左目をつなぐ神経を切ってしまったからだと言われました。神経を切ったと言うのは医者の感想なのかもしれませんが、手術をした病院の記録に残っているのかもしれません。どちらかはわかりません。

退院後のリハビリは維持期ということで自宅から近くの公園に行ってそこで散歩して歩く訓練をしていました。とにかく二つに見えるので歩きにくかったのは間違いないです。右側にあったものが急に左側に現れたりするのです。車に乗っている時も右側の車線をこちらに向かって走っている車が急に乗っている車の左側を走っているのです。肝を冷やしたことがあります。片目をつぶったおじいさんが足を引き売りながら歩いていたわけでおもしろかったのでしょう。下校中で公園を歩いていた小学生が私の真似をしながら片目をつぶって足を引きずりながら歩いていたことがあります。その小学生は私を見ながら笑っていました。「おじいさんはこんなにおかしい歩き方をしているんだよ」と言いたかったのでしょう。余計なお世話なんですが。

片目をつぶって歩くと二つに見えることがないので歩きやすいのですが、残念ながら両目で立体視ができないので距離感がなくなります。近いと思っても実際は遠かったり、その逆もあります。退院して三年くらい経つと目も慣れてきたのか二つに見えることもなくなり、今ではなんでも一つに見えるようになりました。眼科の医師が言うように二つの像を立体的に一つの像にしてくれる視神経が手術で切られたのであれば、いつの間にか再生されたのかもしれません。

そのような立体感の喪失が記憶に起こっています。まるで片目で見るようなことが記憶に起こります。記憶を複眼で見ることができないのです。何か思い出すことがあっても、距離感がないので最近起きたことなのか遠い昔に起きたことなのかわからないのです。昔に聞いたことが最近聞いたような気がしたりするのです。昔のことなのか。今起きていることなのかがわからないのです。実際の生活で時々不自由しています。目のようにだんだん治ると楽観してますが。

退院直後の維持期の初め頃は地面を注意深く見ないで歩いていたせいで公園に落ちていた枝に引っかかって転んだり公園の中心にある池にはまったことがあります。一番ひどいのは歩道の入り口にある車止めのコンクリートの塊にぶつかったこともあります。最近は注意しながら歩いているので何かにぶつかって転ぶと言うことが少なくなりました。少しずつ進化しているのでしょうか?


くも膜下出血と薬

2020-08-01 10:55:15 | 蜘蛛膜下出血

出張先でくも膜下出血を起こして病院に運ばれてから5年経ちました。手術を受けた時はグレード5の状態で意識がなく瀕死の状態でした。よく死なずに済んだと思います。1年間入院して退院しました。退院してから4年経ちますが今でも朝ごはんと夕ご飯の後に3粒ずつ薬を呑んでいます。朝と夕方の3粒のうち2粒は同じ種類の薬で、一つはてんかんでもう一つはパーキンソン病を予防する薬です。頭を2、3回開いているので頭の薬を呑む必要があるんだそうです。今年の2月からてんかんの薬は減らしています。入院中に発作を起こしたと言われました。今思い出すと入院中に妻の弟が亡くなった時のことだと思います。それを聞いたときに自分が死にかけたことが負担になったのではないかと思いました。そう思うと何だか急に悲しくなって大泣きしました。こらえることができなかったんです。それを見ていた看護師さんがてんかんの発作を起こしたと思ったようで急に病院のベッド周りに外に出れないような装置をつけていました。それでてんかんの薬も通常の2倍を呑むようになりました。思うにてんかんの薬は感情のコントロールをしている脳の部分を抑制する効果があるんじゃないでしょうか。感情がコントロールできないので薬を通常の2倍の量を呑むことになったんだと思います。そして退院してからも通常の2倍のてんかんの薬の量でした。

今年の2月から半分の量にしました。担当の先生は頭がスッキリしますよと言ってくれました。その言葉の通りと言っては何ですが、薬の量を減らしてからは色々なことをやる気が出てきました。入院して退院してからもしばらくできなかったこのブログを再開したのも薬を減らしてからです。ちらからしっぱなしだった机の上も少し片付けました。薬の量を減らしたから作業が進んだということがわかったのはしばらくしてからでした。頭の手術と関係があるのかはわかりりませんが入院中も退院後も量を減らす前は悲しくなると涙が止まらなくなって号泣してしまうということが何回も起きました。とにかく感情のコントロールができないのです。ところが減らした後はそんな風に感情のコントロールができなくなることは無くなりました。今の所ちょうどいい量の薬量なんでしょう。

それと他の薬ですが朝は降圧剤、夕方は整腸剤が加わります。つまり朝ごはんの後はてんかん、パーキンソンの薬と降圧剤、夕食の後はてんかん、パーキンソンと整腸剤を呑んでいます。降圧剤が効いているのかこの頃はいつ測っても上110で、下が80くらいです。脈拍数は70くらいです。くも膜下出血の前は少し高血圧気味でしたが大抵の場合脈拍数は100を超えていました。血圧の高低よりも脈拍数が低い方がいいのかな?と思っています。