『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑬

2015年09月12日 | 学ぶ

仙人のミリタリーファッション
兄ちゃん 「せんせエー(少し、岡山訛り。人柄の良さがこもっています)、オッはよーゴザイマッス」
ぼく 「ウっす(おっす)。きょうはAV持ってきた?」
兄ちゃん 「ハハァ、じゃないですヨお。センニン(戦人)さんから、なあん(何)~か来てますよー」
ぼく 「仙人と知り合うほどトシ食ってないっ(笑)」
兄ちゃん「はっはァー」

 迷彩のTシャツを一枚買ってました。
 なお、ぼくのミリタリー・ファッションは、「老けゆく年と戦う」覚悟を決めたからです。また活動的で課外学習でも重宝するからです。
 USアーミーやネイビーを良く着るのは、「他の国だとマニアックすぎて誤解されそうだし、まさか自衛隊の格好をするわけにはいかない」からです。戦争が好きなわけではありません、決して。

親父の責任と威厳―「生きる基準」を探す子どもに親は何ができるか?
 さて、小学生、成長期にある子どもたちは、まだルールもエチケットもわからないなかで、「一般常識」や「環境」を受け入れていきます。「良いこと、良くないこと」の判断を始めます。「一生を生ききる」基準や判断力を身につけていきますこうした責任をぼくたちは「あまりにも安易に考えすぎ」ではないでしょうか? 

 「おれもそうだった・・・」「私も言うことを聞かなかったから・・・」等々。そんなに都合良くは進みません。大事なタイミングです。「何も考えない、いい加減なしつけや指導」では「未来の英傑」に失礼ではないですか? 「観念的で、心のこもらない『小言』はききたくもない」。それが「将来の大人物」の心の声かもしれません。襟を正して向かいましょう
 そこで「おとなのぼくたちに必要になる力」は、「子どもたちが身につけるべき宿題の難問を解くときに必要になる力」と同じ力、「頑張る力」です。その力を見せられてこそ大人の証です。その姿を見て、子どもは成長します

 懇談の際、「よく考えていないこと」がわかる「受け売りの言葉」で注意する保護者の姿も何度も見てきました。「ふだんから目を走らせていない」ので「注意すべき点」がわからない。しょうがないので『形だけの父親』を演じる。「よく考えていないこと」がよくわかる『受け売りの言葉』で注意する。
 つまり、「自らの日頃の姿勢の反省がないまま『人から聞いた言葉』を口先だけで注意をしている・・・」。「受け売り」はブローカーの仕事で、しっかり「手をかけなければならない」子育て職人の仕事ではありません。
 「叱る内容やタイミングに思いが届いていない」ので、傍で聴いていても、ほとんど「心」に響きません。同席の子どもは当然のことですが、「いつものこと(!)」と耳に入らず(入れず)、『横を向いて、心を閉ざしている』ばかりです。頭が良く感受性が鋭い子ほどそういう結果に終わります。大人は意識していませんが、子どもたちはもうよくわかるようになっています
 お母さんもお父さんの日ごろの姿と行動を見ているので、「お父さんのことば」に同調しない(できない)で「白けている・・・」。それが「見え見え」です。「・・・言う前に、自分がやってほしいわ…」と言うわけです。

 「なぜ言うことを聞かないのか?」。
 渓流教室の帰途、送迎バスに乗ると、件のお父さんの子が乗ってません。ホテルの玄関で親子三人で見送りをしています。「知らないうちに(指示を仰がず)自分が乗ってきた車に、子どもも同乗させて帰ることに決めている」のです。
 団体行動です。みんな電車移動です。子どもは別にしなければなりません。課外学習中の「行方不明」の件といい、そういう習慣で育てば、子どもが「自分勝手なこと」をして、「言うことをきかない」のも当たり前です。そう思いませんか? 
 問題の原因を追究せず、子どもの状況に「目が開かない(気づかない)」ことほど哀しいことはありません。これでは、子どもの「悪癖を直す」環境がいつまでたっても整いません。
 まずスタートは、お母さんが、お父さんの日ごろの行動や振る舞いに不満をもっているならば、「落ち着いて」その解消を図るべきです。夫婦ですから。「二人の間の子ども」です。どういう子に育って欲しいのか。認識を共有しましょう

 そして、お父さんです。たとえば、「ゲームをやめさせたいのに、やめない」ならば、「子どももよく知っている自分の好きなものや習慣」を持ち出して、「お父さんも~をやめる(がまんする)から、お前もがまんしろッ!! わかったかッ!」で良いのではないでしょうか? それで、たいていの子はピリッとするはずです。それが「男親」です。 子どもを思う「親父」の責任であり、威厳です。

指導としつけの基準はどこに
 ところが、昨今の指導やしつけの現場を見ていると、「『遊び仲間』や『友だち』のレベルから、いつまでも抜けきれない(抜けきれないことを喜んでいる)親子という場合が多い」ようです。「遊び仲間」は『親』ではなく、『師』でもありません。大事なタイミングでも抜けきれなければ、先の例のように、けじめがつきません。「楽しく遊べる遊び仲間」という一面以外に、「客観的で冷静な親としての視点と厳しさ」がなければ指導はできません

 残念なことに、こうした環境は、家庭に限らず塾や学校にまで浸透しているようです。今年渓流教室に応援参加してくれた、学習塾でバイトしているOB生は、バイト先が「まるで託児所ですよ」と嘆いてました。うれしいことに、『先生の塾が、如何にすごいか、わかりましたっ』。すごいのではありません、当たり前のことを指導しているだけです。
 親も子も先生も、それぞれの「たいせつな人生で、『生きる』という真剣勝負」をしています。ところが、往々にして忘れがちなことがあります。先のように、子どもをしつけたり指導するための、「行動の善悪」や「ことの是非」の判断の「基準」や「根拠」については、日ごろの雑事に追われて、前後や行く末をあまり考えない、「流されるままの子育て」が続いてしまっているのが「現実」ではないでしょうか

 「託児所で育つのは保育園児まで」です。「託児所」じゃない塾や学校もたくさんあるでしょうが、小学校も中学校でも相も変わらず「託児所」に通っていれば、育つのは再び「ことな」や「おども」。
 ルールやしつけについて、昔ほど「うるさく」注意されなくなり、若いお父さんやお母さん自身も、「しつけ」そのものがわからないで悩むこともあるかもしれません。それぞれの家庭で微妙に「差」があったり、「基準が曖昧」になったり、しつけは関係なかったりしている場合はどうすればいいか? 
 指導の基準・原則を置くべきポイントは、「他人に迷惑をかけない」と「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけない」の二点だと思います。

 ぼくたちは、社会で生きているが故に、既に他人の世話になり、知らず知らずの間に人に迷惑をかけてしまっている存在です。たとえば、生きていれば必ずごみを出します。その時点で、すでに他人の世話になり、迷惑をかけて(しまって)います。
 既に鬼籍に入ってしまっている多くの人がもっていた『日本人の良さ』、そういう感覚が今は風化しつつあるように思いますが、玉石混交・混載の船に乗り、いつも「迷惑をかけあう日常」を送っているぼくたちは、過去に限らず今後も、それがもっともたいせつな基準になるべきだと思いませんか? 
 「できる限り他人に迷惑をかけないように努力する」。お互いのそうした行為によって、相手の気持ちのやさしさ・美しさに気づき、「いさかい」が緩和され、人間関係がスムーズになっていくのではないでしょうか

 子どもを育てるには、「かわいがる」ばかりではない「子どもに対する日ごろからの、きちんとした思いや考え方」が必要になってきます。『叱る』・『指導する』には、判断の基準になる『根拠』に日ごろから思いを巡らせているかどうかがたいせつになります
 「よいこと」と「悪いこと」、是非について考え、「なぜ叱ったのか?」「何を注意したのか?」自らの行動や日常・子どもとのかかわりを冷静に振り返っておくこと。「その場限りの注意」ばかりでは、指導の一貫性は見えず、「形だけ」「口先」だけの指導に終始し、説得力もありません。「思いをきちんと伝える」ためにたいせつな子どもとの「信頼関係」も生まれないでしょう
 「受験の、受験による、受験のための子育て」ではなく、人間性や人格を涵養する視点を子育てにきちんと含めることで、受験もスムーズに進むと、団員諸君の成長を見て、ぼくは感じています。


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