『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

考える種・その4 子どもたちには何を伝えるか2

2013年11月30日 | 学ぶ

 学習と記憶の続きです。少し堅い話になりますが、たいせつな話ですので辿ってみてください。その「経過」が、ぼくが子どもたちに定着させようとしている「学体力」の「実感」です。

 考えを進めていく力―学体力―は、当然のことながら「考えること」によってどんどん育っていきます。考えなければ育ちません。ぜひ子どもたちの「成長のしくみ」を感じてください。子どもたちに「学習する意味やたいせつさ」を伝えるヒントがつかめるのではないかと思います。
 さて、先々週のここまでの「記憶と脳のしくみ」の考え方を整理すると、「ぼくたちはそれぞれ遺伝によって受けついだ神経細胞システムを使い、日ごろの学習や体験によって育成・強化してゆく、その成長は以後の入手できる情報量によって大きく変わっていくだろう」というものでした。

使いまわす脳
 続きです。
 記憶の種類の紹介は本題から外れますので、ここでは学習に関わる「意味記憶」について、前々回紹介した本を参考に考えを進めてみます。なお、この稿については下記のイラストをふくめ、「記憶力を強くする」(池谷裕二著・講談社)に多くを負っています。考える材料をたくさんいただきました。もちろん文責は僕にあります。                         さて、学習に関わる記憶は神経細胞のシステム、神経回路に保存されていると考えられています。また「それぞれ一個ずつの単位」として保存されているわけではなく、たとえば「マナティ」を例とすれば、名前・哺乳動物・生物・熱帯や特徴的な顔等と、さまざまな階層に分かれて保存され、それらの情報が総合されてひとつの概念(この場合であれば「マナティそのもの」)が成立するようなシステムになっていると仮説が立てられています。

 さらに、これらの各層の情報を保存している神経細胞は、上図のように同時に他の記憶のネットワークの一部をも形成し、それぞれに併用されている。すなわち回路はひとつひとつ独立しているのではなく、効率的に複数の記憶に利用されているとの考えです。
 ひとつの神経回路に記憶ひとつしか貯蔵できなかったとすれば回路の数しか情報が蓄えられません。しかし、併用システムにすれば記憶容量が飛躍的に増えることになります。一つの神経回路に一つの記憶という対応では、記憶のすべてをまかなうことは到底できません。スッキリと腑に落ちる話です。

 何かを思い出そうとするときは、「あのー」といいながら、「~によく似ていた」等と、その特徴を思い浮かべながら思い出そうとすることがよくあります。それはこうしたシステムの関連をたどりながら記憶を探していると考えられています

記憶が記憶を楽にする
 ところで、このように使い回しのスペースを利用して記憶が蓄えられているとすれば、学習を進めていく(進められていく)について、さらにたいせつなことがわかってきます。「覚えていることが少ない方が、新しいことが覚えにくいだろう」という類推です。

 覚えていることが少なく「使われている神経回路のつながりが少ない(ネットワークが小さい)まま」であれば、次のことを記憶するための「使いまわし」のスペースが限られます。「新しい記憶を構成する要素」も少ないわけですから、回路で「要素」が充実している人より覚えにくいのは当然です。
 これによって「学習し始め(習い始め)の覚えにくさ」の理由が明らかになります。逆に「類似の」あるいは「似たグループの」ネットワークが増えるほど、それらを共通して使えますので格段に覚えやすくなるだろうということもわかります。

 したがって、「よりたやすく覚えるため」また「記憶の容量を増やすため」には、「積極的に覚える量を増やすこと」、つまり「使いまわす神経細胞のつながりを増やしていくこと」が有利になることがわかります。また覚えたことが増えることによって次第に使い回しのスペースは広がり、やがて覚えられることが加速度的に増えていくということも予想できます。

脳は自ら育てる脳を育てる
 このイメージは、覚えていることが少ないと「なかなか覚えられない」、また「考える材料が用意できないので考えることができない」。ところが「学習が進み記憶(量)も『ある一定量(個人やジャンルによってちがうでしょう)』を超えれば、さらに加速度的に進む可能性が高い」ということでもあります。学習経験と子どもたちに対する指導経験の実感にもよく符合するのではないでしょうか。

 さまざまなことを学んだことによって神経細胞同士のつながりが増え、連合できる機能が充実する。ひとつの概念はいくつかの情報の集合になるわけですから、新しい情報が記憶された情報の一部とリンクできる確率は、情報が増えるにつれ次第に高くなります。
 つまり「使える回路」がさらに増え、加速度がついていくということでしょう。記憶されている「材料(資料)」が多く連絡網が密なほど、「ああそういうことだったのか」という類推して分かることも増えていくはずです。こうして理解が進むとともに、次に新たに覚えることのエネルギーは当然少なくなります。
 また「信号量が多いほど記憶は強化される」との定説があります。さまざまな連絡網が張り巡らされれば、回路を伝わる信号量はそれだけ増えることになります。当然、記憶の強化は一段と進みます。忘れなくなるわけです。これは「記憶すること」が「記憶すること」を容易にしていくということ。そして「脳を育てることによって、脳が自らを育てていくということ」になるのではないでしょうか。

「がまん」と「辛抱」を伝える

 これまでの推論から、「一定レベルまで学習をつづけないと学習は容易にはならない」、「覚えることもなかなか覚えられない」とも想像できます。「覚えにくい、知らないことだらけでわからない」ということになるわけです
 そこでは当然「学体力」が必要になります。「学体力」は「学びつづける(学びつづけられる)力」です。おもしろくなければ当然「がまん強さ」や「辛抱」も必要になります。小さいころからのしつけや指導がたいせつになります。
 ルーチンワークをこなしたり、一定期間の修業や練習をこなすこと、そこを乗り越えないと何ごとも身につかないのは学習(勉強)だけに限りません。習得するジャンルを問わない「正則!」ではないでしょうか。

 おもしろく「学びすすめられる」という子たちもなかにはいるでしょうが、多くの子たちは一定期間「がまん」したり、「辛抱すること」がどうしても必要になります。ぜひそれを伝えなければなりません。同時に「つづけていれば、やがておもしろくなるんだよ」との伝達も忘れることはできません
 「勉強はおもしろくない」という「大人の感想」は、誰にもそのことを教えてもらえなかった、だからおもしろくなるまでつづけられなかったという人たち(ほとんどの人たちがそうかもしれません)の感想ではないか。あえて、そう言わせてください。


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