先の日記「今と違う昔の知識」を書きながら想い出した事がある。
中学校は、町内に二校ある小学校を卒業すると、一校の中学校に統合される。
半数は知らない学友達である。
しかし、すぐさま、喧嘩を始めるのも・仲良くなるのも”子供の特権”でしょう。
中学校は、徒歩で30分は要する距離にあった。
始業開始のサイレンが、鳴り始めて登校しても、間に合っていた小学校とは異なった。
入学して最初の、ワクワク感は”教室は何処?””担任はどんな先生?”そして”誰か知っているか・知っている学友は居るか?”であった。
ホームルームがあって、担任教諭・学友の顔合わせ・席の指定がされた。
その後、新入生は、グランドに集められた。
これからの三年間、体育行事(運動会)でのグループ分けがあった。
全校生・300人程が、東西南北・軍に分割され、競い合うのである。
一年生を四分割された時、私は”東軍”の最後尾で”余り”であった。
担当教諭が「名前は?」と聴くので答えた。「あぁ!〇〇(姉の名前)の弟か!南軍に入れ!」と言うことで、私は”南軍のグループ”となった。
担当教諭の意図するもの(姉の名前で東→南)は何だったのか、今も不明である。 姉は、既に卒業して数年を経過していたのに・・・
次に決めなければ成らない事は「部活動」である。
野球・バレーボール・陸上部は、県大会にも出場する、実力を持っていた。
入部者も多かった。
「どうせ・入部してもレギュラーにはなれない」
「弱くても・構成員が少なくても良い、レギュラーが面白い!だろう・・」と思った。
クラブ名はあっても、存在しない部活があった。
バスケット部である。
部員が居なくて”開店休業”状態で、入部出来ないという。
しかし、3人程が示し合わせ、入部を申請した。
結果的には、部活動としては認められず「同好会」として、バスケット・コートの使用が許された。
部員が3人では、対外試合への参加資格なかった。
しかし、仲の良かった・陸上部やバレー部の友人の応援を得て、対外試合に出場することもあった。
部活として存続しなかった理由に、指導者が居なかったことが理由の一つであった。
3年生になった時”(バスケットをしていた)想い出”が欲しいと思っていた。
友人達が「助っ人するから出ろ!」という励ましがあった。
力強い声援を受け、練習に励んだ。
兄が、高校でバスケットをしていたことから、担当教諭の許可を得て、コーチ(技術指導)をお願いした。
そして、県大会の参加を申し出た。
県大会に参戦するには、郡大会を勝利しなければならない。
当時の行政区としての郡域には、5町2村があった。
そして、優勝を果たした。
”何試合したか”についての記憶はない。
しかし、優勝を果たした事は事実である。”同好会”の域を脱することが出来なかった弱小・バスケット部が!である。
「よし!県大会に出られる・・」と思ったが”助っ人”自身の競技と重なったため、他力本願で勝ち取った県大会出場”を返上しなければならなかった。
”中学、最後の記念となる思い出に!”と、期待した県大会出場は、川の水の如く流れ去った。
卒業アルバム(注)を観るにつけ、悔しさと諦めが交差する。
悔しさはある! 対外試合に出るためには、助っ人が無ければならない中にも、毎日・練習に励んだ日々を思うと・・
(注:卒業アルバムには、誇らしげに”試合参加資格を満たす以上の部員”が部活動をしていた如く、記録されている)
中学校は、町内に二校ある小学校を卒業すると、一校の中学校に統合される。
半数は知らない学友達である。
しかし、すぐさま、喧嘩を始めるのも・仲良くなるのも”子供の特権”でしょう。
中学校は、徒歩で30分は要する距離にあった。
始業開始のサイレンが、鳴り始めて登校しても、間に合っていた小学校とは異なった。
入学して最初の、ワクワク感は”教室は何処?””担任はどんな先生?”そして”誰か知っているか・知っている学友は居るか?”であった。
ホームルームがあって、担任教諭・学友の顔合わせ・席の指定がされた。
その後、新入生は、グランドに集められた。
これからの三年間、体育行事(運動会)でのグループ分けがあった。
全校生・300人程が、東西南北・軍に分割され、競い合うのである。
一年生を四分割された時、私は”東軍”の最後尾で”余り”であった。
担当教諭が「名前は?」と聴くので答えた。「あぁ!〇〇(姉の名前)の弟か!南軍に入れ!」と言うことで、私は”南軍のグループ”となった。
担当教諭の意図するもの(姉の名前で東→南)は何だったのか、今も不明である。 姉は、既に卒業して数年を経過していたのに・・・
次に決めなければ成らない事は「部活動」である。
野球・バレーボール・陸上部は、県大会にも出場する、実力を持っていた。
入部者も多かった。
「どうせ・入部してもレギュラーにはなれない」
「弱くても・構成員が少なくても良い、レギュラーが面白い!だろう・・」と思った。
クラブ名はあっても、存在しない部活があった。
バスケット部である。
部員が居なくて”開店休業”状態で、入部出来ないという。
しかし、3人程が示し合わせ、入部を申請した。
結果的には、部活動としては認められず「同好会」として、バスケット・コートの使用が許された。
部員が3人では、対外試合への参加資格なかった。
しかし、仲の良かった・陸上部やバレー部の友人の応援を得て、対外試合に出場することもあった。
部活として存続しなかった理由に、指導者が居なかったことが理由の一つであった。
3年生になった時”(バスケットをしていた)想い出”が欲しいと思っていた。
友人達が「助っ人するから出ろ!」という励ましがあった。
力強い声援を受け、練習に励んだ。
兄が、高校でバスケットをしていたことから、担当教諭の許可を得て、コーチ(技術指導)をお願いした。
そして、県大会の参加を申し出た。
県大会に参戦するには、郡大会を勝利しなければならない。
当時の行政区としての郡域には、5町2村があった。
そして、優勝を果たした。
”何試合したか”についての記憶はない。
しかし、優勝を果たした事は事実である。”同好会”の域を脱することが出来なかった弱小・バスケット部が!である。
「よし!県大会に出られる・・」と思ったが”助っ人”自身の競技と重なったため、他力本願で勝ち取った県大会出場”を返上しなければならなかった。
”中学、最後の記念となる思い出に!”と、期待した県大会出場は、川の水の如く流れ去った。
卒業アルバム(注)を観るにつけ、悔しさと諦めが交差する。
悔しさはある! 対外試合に出るためには、助っ人が無ければならない中にも、毎日・練習に励んだ日々を思うと・・
(注:卒業アルバムには、誇らしげに”試合参加資格を満たす以上の部員”が部活動をしていた如く、記録されている)