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カズオ・イシグロ『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、土屋政雄訳)

2018-02-23 | 書評「ア行」の海外著者
カズオ・イシグロ『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、土屋政雄訳)

品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々―過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

◎イギリス人になった作家

カズオ・イシグロは、1954年長崎生まれの純粋な日本人です。5歳のときに父親の仕事の関係で渡英し、現地の小学校へ入学しました。現在イギリス国籍を取得しています。日本語はあまり堪能ではなく、日本への郷愁をわずかに秘めたまま、イギリス人として作家活動をしています。

カズオ・イシグロは1982年(28歳)に、『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫、初出時は『女たちの遠い夏』というタイトル)でデビューしました。本書は英国在住の長崎の被爆体験をもつ女性の回想記です。つづいて1986年『浮世の画家』(ハヤカワepi文庫)を発表しました。こちらは戦前思想を持ちつづけた、日本人が描かれています。

ここまでは日本人が主人公の作品でしたが、推薦作に選ばせていただいた『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、土屋政雄訳)はイギリス人の「執事」を主人公にすえた作品です。「執事」という単語は、いまや死語になってしまいました。イギリスの貴族や大富豪が住む、大邸宅を切り盛りするのが仕事です。

主人公のスティーブンスは、ダーリントン・ホールの執事を35年間務め、現在は60歳を超えています。彼はなによりも「品格」を尊重し、形式や見てくれを重んじます。年齢からくる小さな過失が目立つようになっていますが、本人は頑なにそれを認めようとはしません。

物語はスティーブンスの、6日間の旅路という形で進められます。ただしほとんどが、過去の追憶に費やされています。本書を読む前にまず、目次をご覧ください。「一日目―夜・ソールズベリーにて」からはじまる章は、「六日目―夜・ウェイマスにて」で終わっています。しかし「五日目」の章だけは欠落しています。

ここにカズオ・イシグロの、大きなしかけがあります。 

◎秘かな愛

主人公のスティーブンスは、オックスフォード近郊のダーリントン・ホールで働く老執事です。彼は現在、そこでアメリカ人のファラディに仕えています。ダーリントン・ホールは以前、ダーリントン卿が所有していた大邸宅です。スティーブンスは30年間そこで働き、前の持ち主の死後そのまま現在に至っています。

彼は執事の仕事に誇りをもっています。彼の父親も名高い執事でした。スティーブンスは最近、細かなミスをするようになっています。本人は頑なに認めようとしません。そんな彼のもとに、以前いっしょに働いていた女中頭のミス・ケントンから手紙がきます。結婚して辞めたのですが、手紙には離婚がほのめかされています。

ミス・ケントンは10年間ほど、スティーブンスとともに働いていました。2人は秘かに愛し合っていたのですが、その思いを伝え合うことはありませんでした。それ以前に仕事上のことで、常に小さないさかいを起こしていました。

ある日スティーブンスはダーリントン卿から、ユダヤ人の雇人の解雇を命じられます。ミス・ケントンの猛反発を受けながら、彼はダーリントン卿の命令を粛々と実行します。ミス・ケントンは「私も辞める」と告げます。のちに解雇は間違いであったと、ダーリントン卿から伝えられます。

「私も辞める」といったミス・ケントンは、それから1年間ダーリントン・ホールで働きつづけます。そのことをいつもスティーブンスから、からかい半分で揶揄されています。愛の成就がかなわないことを知ったミス・ケントンは、やがて結婚を理由に退職してしまいます。

ここまでがミス・ケントンにまつわる、現在進行形の物語です。

◎ミス・ケントンの住む町

主人のファラディが、アメリカに一時帰国することになります。彼はスティーブンスに愛車を貸してあげるので、気晴らしに旅行でもしてきなさいと薦めます。スティーブンスは、ミス・ケントンの住む町に向かってフォードを走らせます。

『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、土屋政雄訳)は、6日間の旅日記のような構成になっています。ダーリントン卿との思い出。そこに集まる客人の思い出。父の思い出。ミス・ケントンの思い出……。それらが現在進行形の旅の模様に、分け入ってきます。

本書では「執事」という誇りある仕事にこめるひとりの男の執念が、端正な筆運びで描き出されています。あえて欠番にした「五日目」はなんであったのか。老執事の行く末はどうだったのか。あえて触れることはしません。

最後に辻原登の文章を、紹介させていただきます。私もまったく同じ感想をもちました。

――執事の仕事にかまけ、宴会の行われているホールの屋根裏部屋で息を引き取る父親の臨終にも立ち会わず、ミス・ケントンの愛にも頑な心で応えなかった「私」が、ではなぜ今ごろになって、それらについて語ろうとするのか。「私」はミス・ケントンとほんとうに会えるのか。はたしてどんな出会いになるのか……。われわれは稀有ともいえるとびきりの上品なサスペンスを味わうことになる。(辻原登『熱い読書冷たい読書』ちくま文庫P97-98)

そして辻原登は、こんな文章で結んでいます。

――ラスト、「私」が佇む夕日の桟橋の場面は、堅物の心とは程遠い、軽くて無節操な僕でも、あの世まで持ってゆきたくなるほどの美しさだ。

カズオ・イシグロ『日の名残り』は、これまでに味わったことのない読後感をもたらしてくれます。ラストの場面を、どうぞご賞味ください。堅物の老執事は、最後の場面を磨き上げられた銀器にのせて、ていねいに差し出してくれています。

◎追記(20170.10.05)
カズオ・イシグロがノーベル文学賞のニュースに飛び上がりました。万歳。

(山本藤光:2013.01.07初稿、2018.02.23改稿)

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