山本藤光の文庫で読む500+α

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ヴェルヌ『十五少年漂流記』(集英社文庫、横塚光雄訳)

2018-02-03 | 書評「ア行」の海外著者
ヴェルヌ『十五少年漂流記』(集英社文庫、横塚光雄訳)

ニュージーランドにあるチェアマン寄宿学校の生徒たちは、夏休みを利用した6週間の沿岸航海を楽しみにしていた。出発前夜、早くも乗船した少年たちだったが、船は、ふとしたことから漂流を始める。嵐に流され、絶海の孤島に上陸した、8歳から14歳までの15人の少年たち、彼らの思いもしなかった「二年間のバカンス」が始まる。(「BOOK」データベースより)

◎3冊の『十五少年漂流記』を漂流

「文庫で読む500+α」執筆のために、書棚から学生時代に読んだ『十五少年漂流記』(新潮文庫、波多野完治訳)をとりだしました。各ページの黄ばみが、活字の近くまで迫っていました。奥付をみると、昭和42(1967)年改訂版の37刷(昭和51年発行)でした。読みにくかったけれど、活字を読書灯に近づけて再読しました。再読してみて、冒険小説というよりも心理小説のような感じをうけました。

 そんなときに、刺激的な雑誌広告に目がとまりました。『痛快 世界冒険文学・全24巻』(講談社)の刊行案内でした。翻訳者の顔ぶれに驚きました。第1回配本(1997年10月)は、志水辰夫・文『十五少年漂流記』でした。そして第2回配本が、眉村卓・文『タイムマシン』でした。ここまでは順調に買い求めたのですが、第3回の山中恒・文『フランケンシュタイン』が、なかなか入荷しないのです。

はたと思いついて、児童書のコーナーに行ってみました。ありました。背表紙を見せて、1から3巻までがならんでいました。無理もないと思います。表紙のイラストが明らかに子供向けですし、本文の漢字にはふりがなまでつけられています。本文中にイラストもたくさんあります。書店員が児童書コーナーにならべるのも仕方がないな、とそのときは寛容にそう思いました。

やがてこのシリーズは、児童書のコーナーでも見つからなくなりました。本屋さんで読みたい本を見つける喜びを犠牲にして、仕方なく定期注文にかえました。阿刀田高(アーサー王)、花村萬月(モヒカン族の最後)、逢坂剛(奇巖城)、森詠(失われた世界)、山崎洋子(紅はこべ)など、そうそうたる書き手が挑戦したこのシリーズの文庫化を切望しています。(一部は文庫化されています)

◎そして待望の1冊にたどりついた

そしてある日、書店で集英社文庫『十五少年漂流記』(横塚光雄訳)が目にとまりました。背表紙の厚さに、手招きされたのかもしれません。私が読んだ新潮文庫とは、居住まいがあまりにもちがいすぎたのです。
 
買ってきて、調べてみました。新潮文庫が264ページにたいして、集英社文庫(改訂新版第1刷、2009年発行)は542ページもありました。なんと倍以上も厚いのです。章だては両方とも30。底本もおそらく同じだと思いますので、ちがいは翻訳の仕方にあるのでしょう。同じ場面を3冊の『十五少年漂流記』から引用してみます。

【新潮文庫、波多野完治・訳】
――スルギ号の甲板には、四人の少年の姿があった。十四歳が一人、十三歳が二人あとの一人は十二歳になる黒人の少年である。少年たちは、いま、全力を出して、蛇輪を握り、船を正しい進路に向けるために戦っているのだ。だが蛇輪は、少年たちの弱い力では、いくら、押さえつけても、元にもどってしまう。船尾のあたりに、大きな、山のような波がぶつかり、どっと、甲板に向って押し上がってきた。蛇輪が手から放れ、少年たちのからだが甲板にたたきつけられた。だが、すぐにみんなは起き上がって、蛇輪に飛びついた。その中の一人が、よろめきながら、叫んだ。「船はだいじょうぶか、ブリアン」(新潮文庫『十五少年漂流記』より) 
 
【『痛快 世界冒険文学・十五少年漂流記』志水辰夫・文】
――スラウギ号の船尾では、船の安定を保とうと、四人の少年が、必死になって、蛇輪にしがみついていた。十四歳がひとり、十三歳がふたり、もうひとりは十二歳の黒人である。いましも、山のような大波がおそいかかり、四人を甲板になぎたおしたところだ。「だいじょうぶか、ブリアン」(講談社『痛快世界の冒険文学・十五少年漂流記』より)

【集英社文庫、横塚光雄・訳】
――〈スルーギ号〉の後尾甲板では、ひとりは一四歳、ほかの二人は一三歳、もうひとりは黒人で、一二歳くらいの少年水夫が、蛇輪の位置についていた。その位置で、四人の少年は力をあわせて、ヨットが右や左にゆれて横倒しになるのをふせごうとしていた。それは苦しい仕事だった。なぜなら蛇輪はくるくるまわって、甲板の手すりごしに、彼らを投げだしそうだったからだ。それにまた、夜の十二時ちょっと前、甲板にくずれる大波がヨットの船腹にぶつかって、舵がもぎとられなかったのが、奇跡だといってもよかったのだ。
 少年たちは、この一撃でひっくり返ったが、すぐに起き上がった。「舵がとれるかい、ブリアン?」と、彼らのうちのひとりがたずねた。(集英社文庫『十五少年漂流記』より)
 
 好き嫌いはあるでしょうが、波多野完治・訳(新潮文庫)には、「蛇輪」が4回使われています。いっぽう横塚光雄・訳(集英社文庫)では「蛇輪」と「舵」を使い分けています。志水辰夫・文(講談社「痛快世界の冒険文学」)では「蛇輪」は1回しか用いていません。常識的には、同じ単語の重複は避けるはずです。
 
 その点について 志水辰夫(講談社「痛快世界の冒険文学」)は「あとがき」にこう書いています。
――原作は、この二倍以上の長さをもっていますが、だらだらしたり、くりかえしが多かったり、いまの時代にはあわない古めかしさ、テンポののろさも目立ちます。今回書きなおすにあたっては、原作のおもしろさをそこなうことなく、現代人が読んでもおもしろい、スピーディで、歯切れのいい文章にしようと心がけました。(「あとがき」より)

日本での『十五少年漂流記』は、1896年に森田思軒が「冒険奇談十五少年」というタイトルで、雑誌「少年世界」に連載をはじめています。

 誰もが知っている話なので、ストーリーの紹介は省略します。しかし翻訳本というのは訳者によって大きく表現が違うのだということを踏まえたうえで、本を選んでいただきたいと思います。私はあえて、時代にマッチした集英社文庫を推薦します。そのうえで、ぜひ志水版『十五少年漂流記』にもふれていただきたといそえておきます。

◎初恋の人に首飾りを

著者の「ジュール・ヴェルヌ」について、簡単に説明させていただきます。

ジュール・ヴェルヌは、1828年にフランスで生まれました。幼年時はロワール川の中州・フェイド島で過ごします。ナントという漁港にはいつも船乗りが出入りしており、幼いヴェルヌの憧れでした。11歳のときに初恋の人に首飾りを買うためインド行きの船に乗りこみ、連れ戻されたことがあります。

1948年パリの法律学校に入学。デュマ(推薦作『モンテ・クリスト伯』全7巻、岩波文庫)と出会い、劇作家を目指しはじめます。1905年死去しました。H.G.ウェルズ(推薦作『タイム・マシン』ハヤカワSF文庫)とともに「SFの父」と呼ばれています。

主な作品はつぎのとおりです。
1863年『気球に乗って五週間』(集英社文庫)
1864年『地底旅行』(創元SF文庫、岩波文庫、光文社古典新訳文庫、角川文庫)
1865年『月世界旅行』(ちくま文庫、kindle、「月世界へ行く」というタイトルで創元SF文庫があります)
1870年『海底二万里』(創元SF文庫、岩波文庫)
1873年『八十日間世界一周』(光文社古典新訳文庫、創元SF文庫、岩波文庫)
1888年『十五少年漂流記』(集英社文庫、新潮文庫、kindle、創元SF文庫)

 私は個人的に『地底旅行』も好きです。奥泉光が『新・地底旅行』(朝日文庫)を書いてくれ、原作以上に堪能しました。

『十五少年漂流記』(集英社文庫改訂新版第1刷)の帯に、椎名誠の推薦文があります。「ぼくのSFは、ヴェルヌが書いたスケールの大きなSFから生まれた」と書かれています。椎名誠には『「十五少年漂流記」への旅』(新潮選書)という著作があります。「十五少年漂流記」のモデルはマゼラン海峡の島とされていました。しかし椎名誠は、ニュージーランドにある島がモデルである、と確信するくだりが書かれています。

塩野米松にも『十五少年漂流記の島・ニュージーランド紀行』(求龍堂)という著作があります。こちらは少年たちが乗った船が流された、オークランドを起点にした旅日記です。
 
『十五少年漂流記』は幼いころから現在にいたるまで、私にとってかけがいのない小説です。できれば椎名誠や塩野米松の旅に随行させてもらいたかった、と地団太をふんだくらいです。集英社文庫の横塚光雄訳によって、新たな感動をもらいました。

◎孤独な大人の漂流者

『ロビンソン漂流記』(1719年に発表、新潮文庫)は、一人の大人が、無人島に漂着する物語です。それから150年以上あとの1888年に発表された『十五少年漂流記』も展開は同じです。ちがうのは無人島に漂着したのが1人の大人なのか、15人のこどもたちなのかだけなのです。『ロビンソン漂流記』の登場人物が大人15人だったら、物語はどう展開されたのでしょうか。

 斎藤美奈子は著作のなかで、私の妄想にフタをしました。『十五少年漂流記』は、15人の大人になったこどもの物語だったのです。

――(補:『十五少年漂流記』の原題は『二年間の休暇』です)この「休暇」の意味は末尾で明言されている。〈すべての子どもたちによく知っていてほしいのだ――秩序と、熱意と、勇気があれば、たとえどんなに危険な状況でも、きりぬけられないものはない、ということを〉〈すべての少年たちは、忘れないでほしいのだ――この少年たちが国に帰ったときには、小さな少年たちはほとんど大きい少年たちのように、大きい少年たちはほとんどおとなのようになっていたことを〉。(斎藤美奈子『名作うしろ読み』中央公論新社より)

 最後に志水辰夫(推薦作『背いて故郷』新潮文庫)へのいざないで、しめさせていただきます。志水辰夫は『飢えて狼』『裂けて海峡』(いずれも講談社文庫)『行きずりの街』(新潮文庫)などもふくめて、文壇では不動の地位を築いています。『十五少年漂流記』は、志水辰夫の創作の原点でもあり、一連のハードボイルドものの出発点でもありました。
 
 志水辰夫の作品を読むと作中の主人公はいずれも、現代の孤独な漂流者でもあることに、気づかされるはずです。つまり15人の少年が大人だったらという私の妄想については、志水辰夫の作品のなかに答えがあったのでした。
(山本藤光:2012.10.19初稿、2018.02.03改稿)


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