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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

セルバンテス『ドン・キホーテ』(全6巻、岩波文庫、牛島信明訳)

2018-02-03 | 書評「サ行」の海外著者
セルバンテス『ドン・キホーテ』(全6巻、岩波文庫、牛島信明訳)

騎士道本を読み過ぎて妄想にとらわれ、古ぼけた甲胄に身を固め、やせ馬ロシナンテに跨って旅に出る。その時代錯誤と肉体的脆弱さで、行く先々で嘲笑の的となるが…。登場する誰も彼もがとめどもなく饒舌な、セルバンテスの代表作。(「BOOK」データベースより)

◎愛情と同時に尊敬の念を

 荒唐無稽な物語。『ドン・キホーテ』(全6巻、岩波文庫、牛島信明訳)には、そうきめつけられないなにかが潜んでいます。終始笑い転げながら、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの道行きに同道させてもらいました。でもところどころで考えこみ、2人を見失ってもしまいました。読み進むにつれて、常識という鎧(よろい)を脱ぎ捨てて、彼らに同化している自分自身をも発見しました。こんなに愛らしい主従関係はありえません。2人がうらやましくもなりました。

 サマセット・モームは著書のなかで、つぎのように語っています。
――あの忠実なサンチョ・パンサをお供につれたドン・キホーテは、心のやさしい、誠実で高潔な男である。わたくしたちは、彼の身にふりかかるさまざまな不幸を見て、思わず笑い出さないではいられない。(中略)この「憂いの騎士」にたいして、愛情と同時に尊敬の念をいだかないような者があったら、それこそ鈍感極まる人間だといわねばならない。(WSモーム『世界文学読書案内』岩波文庫P71)

 そのとおりで読者の多くは、2人に愛情と尊敬の念をいだいてしまうのです。長い物語ですので、ときには全速力で、そしてときどき立ち止まって、息つぎをしなければなりません。笑いをおびたため息をつきながら、この先どこへ行くのだろうと心配になってきたりもします。小林秀雄(推薦作『無常といふ事』新潮文庫)は、2人の絶妙な会話に注目すべきであると語っています。

――「ドン・キホオテ」を読んだ人は、檻に入れられたドン・キホオテと、従って行くサンチョ・パンサとの会話を読んで荒唐無稽と笑うであろう。処が、この二人の間の会話には二人だけに通ずる隠語なるものは描写されてはいないのである。(小林秀雄『全文芸時評集・上巻』講談社文芸文庫P53)

 とかく奇妙な事件にのみ注目するのは仕方がないのですが、素朴な2人のやりとりのおもしろさを流し読みしないでください。2人の会話の妙について、的確に言及している本があります。

――二人のやりとりがめっぽうおもしろい。まるで、お笑いのボケとツッコミである。お笑い芸人はみな『ドン・キホーテ』を研究しているのではないかと思うくらいに、ボケとツッコミの基本形がここにある。ツッコミのサンチョ・パンサあってのドン・キホーテなのだ。(斎藤孝『クライマックス名作案内1』亜紀書房)

◎既存の騎士道小説への反旗

 笑える勘ちがいは、宴席での格好の調味料となります。ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ50歳くらいは、やせた愛馬・ロシナンテにまたがって、鎧を着こみ、楯と長槍をいだいて、颯爽と風車に挑みます。騎士道物語に凝ったあまり、それが幻想となって現実世界を支配しています。農夫だった従者のサンチョ・パンサの途方にくれた顔が目に浮かびます。

『ドン・キホーテ』は、従来の騎士道物語にたいする反旗である、とする論評があります。そのあたりについてふれた文章を2つ紹介しておきます。

――騎士道小説の主人公が健全な精神と肉体を有する颯爽とした青年であるのに対して、ドン・キホーテは狂った精神に痩せた肉体を引きずる冴えない老いぼれである。しかしドン・キホーテにおいてパロディという手法はあくまで枠組みにすぎない。実体は主筋と緩やかな関連しか持たない挿話との連続なのである。(『世界文学101物語』高橋康也・編、新書館)

――セルバンテスは、世にはびこる騎士道物語に対して、あほらし、人間の本当の姿はそんなふうではないぞ、とか、我々スペイン人ならそういうときはこうするだろう。なんて考えて、真の人間像がおりなす喜劇を書いているのだから。パロディだからこそかえって、人間理解が深いのだ。だからもともと喜劇だった『ドン・キホーテ』が、人間の美しい悲劇の物語、なんて言われるようになった。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房)

 清水義範が指摘するように、セルバンテスの風刺をぞんぶんに愉しむ。そんな読書スタイルがいちばん健全なのかもしれません。清水義範は、その後『ドン・キホーテの末裔』(岩波現代文庫)という作品を発表しています。とてもおもしろい作品ですので、お薦めです。
私は『ドレの絵で読むドン・キホーテ』(新人物往来社)という本まで買ってしまいました。物語も楽しみましたが、挿絵にも惹かれてしまったのです。さらに「鈍喜法廷」なる小説まで思い浮かべてしまったほどです。
(山本藤光:2014.08.13初稿、2018.02.03改稿)

スタンダール『赤と黒』(光文社古典新訳文庫、上下巻、野崎歓・訳)

2018-02-02 | 書評「サ行」の海外著者
スタンダール『赤と黒』(光文社古典新訳文庫、上下巻、野崎歓・訳)

ナポレオン失脚後のフランス。貧しい家に育った青年ジュリヤン・ソレルは、立身のため僧職に身を投じる。やがて貴族であるレナール家の家庭教師となり、その美貌からレナール夫人に慕われるようになる。ジュリヤンは金持ちへの反発と野心から、夫人を誘惑するのだが…。(「BOOK」データベースより)

◎現実の事件を素材にしている

『赤と黒』(光文社古典新訳文庫、上下巻、野崎歓訳)について、W.S.モームの推薦文と翻訳者のコメントから紹介しましょう。

――わたくしは、平明で正確な彼の作風と、冷静で精密な心理分析とを好む。彼は人間の心の動きを、明晰な頭脳をもって徹底的に解剖した。(W.S.モーム『世界文学読書案内』西川正身訳、岩波文庫より)

――『赤と黒』はいろいろな意味で文学史の始まりに位置づけられる小説で、要するに人間が自由になった瞬間を描いた小説という感じがします。これからどう生きてもいいという展望が開けたとき、人間がどれほど悩み、苦しむかということを書いているところがあるわけです。(野崎歓と中条省平の対談「悪の美しさと恐ろしさこそフランス文学の魅力」/光文社翻訳編集部『カフェ古典新訳文庫(1)』光文社古典新訳文庫P171より)

『赤と黒』はW.S.モームの指摘のように、世界文学史上はじめての心理小説として有名です。スタンダールは恋愛ものがたりを、心理面から徹底的に追求しました。学生時代に読んだ翻訳本にくらべて、野崎歓訳にはせわしない現代にふさわしい、スピード感がありました。

 心理小説というと、ねちねち書いてあるのが普通です。ところが本書は、ひと味ちがっていました。まったくあきることなく、分厚い上下2巻を通読することができたのです。『赤と黒』について書いているもうひとつの文章を引用させていただきます。

――ナポレオン失脚後のフランスを舞台に、誇り高き平民ジュリヤンが貴族社会という巨大なヒエラルキーに反抗していく壮大な社会小説でありながら、上巻では素朴なレナール夫人との純粋な愛、下巻では都会的なマチルドとの駆け引きの恋を繊細に描写したこの作品には、恋愛のすべてが詰まっている。(佐藤真由美『恋する世界文学』集英社文庫より)
 
『赤と黒』は、現実の事件を素材にしています。その点について、ふたたびモームの文章を引用させていただきます。この引用文は、おおむね『赤と黒』のストーリーそのままとなっています。

――スタンダールは自分の頭で一つの物語を作り出す才能に欠いていたので、『赤と黒』の場合も、当時大評判になっていたある刑事事件を新聞で読み、それからプロットをとったのだった。その事件というのは、アントワーヌ・ベルテという若い神学校の学生が、初めミシュー氏という人の家で、それからド・コルドン氏という人の家で家庭教師をしていたが、最初の家ではミシュー夫人を、次の家では令嬢を、誘惑しようとしたが両方とも首になった。そこで再び勉強をつづけて聖職につこうとしたところが、悪い評判を知られて、どこの神学校でも入学を許してくれない。これはミシュー夫妻に責任があると思い込み、復讐心にかられて、ミシュー夫人が教会へ出かけたところをピストルで射ち、それから自分も自殺を計った。だが、致命傷ではなかった。彼は裁判にかけられ、気の毒なミシュー夫人に罪を着せて助かろうとしたが、けっきょく死刑を宣告されたというものである。(W.S.モーム『世界の十大小説(上)』岩波文庫、西川正身訳、P193より)
 
◎レナール夫人とマチルド令嬢を誘惑

 製材小屋の息子のジュリヤン・ソレルは、田舎町の三男として生まれました。野心家のソレルは軍人を夢見ながらも、実入りのよい司祭になろうと心をきめています。幼時からジュリヤンはラテン語に長じており、新約聖書を全部暗記していたほどです。
 
 彼の才能はレナール町長に認められ、レナール家の住み込み家庭教師に迎えられました。1年後ジュリヤンは、美人のほまれの高いレナール夫人を誘惑します。たちまち2人は、激しい恋のとりこになりました。
 
――「奥様、今夜二時にお部屋にまいります。お話したいことがありますので」/そうはいったものの、ジュリヤンはもし許されなかったらどうしよう、とびくびくしていた。誘惑者などという役柄はあまりに荷が重かったので、もし好きにできるなら、何日間も部屋に閉じこもって、ご婦人がたにはもう会わずにすませたいところだった。(上巻、本文P166より) 
 
 2人の不倫は町長のレナール氏の知るところとなり、ジュリヤンは解雇されてしまいます。解雇されたジュリヤンは神学校で学び、パリの大貴族ラ・モール侯爵氏の秘書となります。侯爵の令嬢マチルドは、パリでも有数の美人でした。最初のうちは身分の低いジュリアンを蔑視していた彼女は、やがてジュリヤンに熱をあげてしまいます。マチルドの心変わりの場面を紹介しましょう。

――ジュリヤンに欠けているのは財産だけ。財産なら私が持っている。ああいう人の伴侶になったなら、一生、注目のまとだろう。(下巻、本文P271より)

 マチルドは妊娠します。ラモール氏は烈火のごとく怒りましたが、渋々ジュリヤンを貴族の落胤ということにして結婚を承諾します。
 
 そんなある日、ジュリヤンはマチルドから、レナール夫人の手紙を見せられます。そこにはこれまでのジュリヤンの罪深い行状が書きしるされていました。怒りにかられたジュリヤンは、レナール夫人のもとへと馬車を飛ばします。
 
 そして教会で弾丸を発射します。幸いレナール夫人は軽症ですみました。ジュリヤンは牢獄に入れられます。
 
 物語は、現実の事件と同じ進行で展開されています。ジュリヤンは貴族社会も正統な恋愛も知りません。野心家のジュリヤンは、2人の女性の誘惑を試行錯誤でやってのけたのです。絶えず相手の心中を推察し、言動について考察を加えました。

『赤と黒』の主人公・ジュリヤンの心理模様は、現代ではわかりにくい部分も多々あります。恋愛にもマニュアルが、存在していた時代の話です。ジュリヤン・ソレルは、自分自身の尊厳を大切にした若者です。立身出世をひたむきに追い求めたのではありません。そのことは、物語の最後の場面で納得させられます。

『赤と黒』というタイトルについて、ユニークな見識があります。引用させていただきます。

――表題となった『赤と黒』の「赤」は軍人の栄光を、「黒」は聖職者の権勢を象徴する、というのが定説であるらしいが、時折ぼくは、この二つの色は二人の女性を示しているのではないか、との妄想に駆られることがある。あえてあてはめれば、マチルドに「赤」を、レナール夫人に「黒」を捧げてみたい。そしてぼく自身は、「赤」より「黒」の方が静かに惹かれているのだが……。(黒井千次『読みなおす一冊』朝日選書より)

 スタンダールは、『恋愛論』(新潮文庫)を書いているほどの作家です。先に引用させていただいた佐藤真由美の文章からも、レナール夫人とは「愛」、マチルドとは「恋」であったことがうかがわれます。スタンダールは「恋」と「愛」の微妙な相違をも、みごとに描きあげてみせたのです。
(山本藤光:2010.09.21初稿、2018.02.02改稿)

ストウ『アンクル・トムの小屋』(ジュニア版世界文学の玉手箱10、河出文庫、丸谷才一訳)

2018-02-01 | 書評「サ行」の海外著者
ストウ『アンクル・トムの小屋』(ジュニア版世界文学の玉手箱10、河出文庫、丸谷才一訳)

やさしい少女エバに引きとられたトムは、幸せなときを過ごしますが、それもつかのま恐ろしいグリーに売られて悲しい運命に……。(内容紹介より)

◎敬愛する丸谷才一の訳書

なにしろ敬愛する丸谷才一の訳書です。古書店を探し回って、やっとゲットしました。むかし児童書で読んでおり、ものがたりの概要は知っていました。興味があったのは、丸谷才一がどんな名訳をしているかについてでした。

ストウ『アンクル・トムの小屋』(ジュニア版世界文学の玉手箱10、河出文庫、丸谷才一訳)の冒頭には、アンクル・トムは登場していません。本書は40章の構成になっています。第3章までは、記憶にはない物語がつづられていました。

ジョージとエライザは、黒人奴隷同士の夫婦です。2人の間には、ハリーという息子がいます。夫婦は別々の主人に雇われています。エライザとハリーは、奴隷にもやさしいシェルビー氏に雇われています。いっぽうジョージは奴隷をモノとしか考えない、工場主のもとで虐げられています。

ある日、エライザはシェルビー氏と奴隷商人・ヘイリーとのやりとりを耳に入れてしまいます。シェルビー氏は事業に失敗し、最も信頼のおけるアンクル・トムと幼いハリーを売らなければならなくなります。

エライザはハリーを連れて、カナダへと逃亡をはかります。別れのあいさつのためトムを訪れたエライザーは事情を話し、トムも身売りされることを告げます。トムの妻クローはトムに、エライザたちといっしょに逃げることを薦めます。しかしトムは、次のように答えます。

――「いや、わたしは行かない。エライザは行かせよう。それはエライザの権利だからな。でも、わたしが売られなければ、みんなが苦しむことになるらしい。それなら、わたしが売られることにしよう。わたしはがまん強い男だから、がまんできると思う」(本文P55)

◎2組の奴隷家族の物語

『アンクル・トムの小屋』は、心優しいシェルビー家から売られていくトムと、逃亡するエライザとハリー親子の物語です。エライザ親子はヘイリーの執拗な追跡を逃れて、上院議員バード氏夫妻に保護されます。バード一家はシェルビー家族と同様に、温かく2人に接します。

いっぽう足枷をつけられ、船で輸送されたトムは、道中で溺死しかけたエバという少女を救出します。娘を助けてもらった父親シン・クレアは、その場でヘイリーからトムを買い求めます。シン・クレアも心優しい人でした。しかし妻のマリーは、夫とは真逆の考えをもっていました。

 シン・クレアは病弱な妻・マリーに代わって家事を仕切ってもらうために、いとこで独身のオフィリアという中年女性を家に迎えています。彼女も奴隷に対しては、ていねいに接する温かい心の持ち主です。オフィリアは、こんなふうに考えています。

――わたしたちとおなじ血で、神さまは黒人たちを作ったのだ(本文P185)

◎シン・クレア家の不幸

シン・クレア家で、トムは幸せな毎日を過ごします。もちろん妻のクローや息子たちのことは、ひとときも忘れることはありません。そんなシン・クレア家に、相次いで不幸が訪れます。幼いエバが結核で亡くなり、シン・クレア氏も事故で世を去ります。トムはマリー夫人によって、冷酷な主人・レグリーのもとに売られてしまいます。

そこは奴隷にとって、地獄の農園でした。トムは衰弱した女性の奴隷をかばって、リンチを受けます。

トムはキャシーというレグリーの奥さんから、みんなを開放するにはレグリーを殺害することだ、と持ちかけられます。レグリーは大量の酒を飲まされて、泥酔しています。玄関には斧が用意されています。キャシーの計略に対して、トムはこういって拒みます。

――いや、いけない。善というのは、けっして悪からは生まれないものなんですよ。そんなことをするくらいなら、右手を切り落としたほうがましだ。(本文P325)

トムの死期が迫っています。そこへシェルビー家の若旦那・ジョージがトムを買い求めるためにやってきます。しかしトムは若旦那に見守られながら、天国へと行ってしまいます。

本書の最終2章は、「39:事件の結果」と「40:解放者」となっています。読者は残酷な運命の先に、心温まる後日談に触れることになります。感動をありがとう、と結ばせていただきます。丸谷才一の翻訳を、堪能しました。
(山本藤光:2013.11.21初稿、2018.02.01改稿)