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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

ゾラ『居酒屋』(新潮文庫、古賀照一訳)

2018-02-22 | 書評「サ行」の海外著者
ゾラ『居酒屋』(新潮文庫、古賀照一訳)

洗濯女ジェルヴェーズは、二人の子供と共に、帽子屋ランチエに棄てられ、ブリキ職人クーポーと結婚する。彼女は洗濯屋を開くことを夢見て死にもの狂いで働き、慎ましい幸福を得るが、そこに再びランチエが割り込んでくる……。〈ルーゴン・マッカール叢書〉の第7巻にあたる本書は、19世紀パリ下層階級の悲惨な人間群像を描き出し、ゾラを自然主義文学の中心作家たらしめた力作。(内容案内より)

◎酒飲みの男に翻弄される

エミール・ゾラは1840年にパリで生まれました。文筆家としては不遇な時代を重ね、名声を得たのは第7作の『居酒屋』(新潮文庫)からでした。それ以降はフランス自然主義文学の大家として、やがてもう一つの代表作『ナナ』(新潮文庫)へとつなげます。

『居酒屋』の舞台は、19世紀半ばのパリの裏町です。ゾラの最大の武器は、巧みな描写力にあります。まるでパリの下町の風景を、目の当たりにしているような感じがします。登場人物のセリフも一つひとつが心に響きます。洗濯女同士の乱闘場面がありますが、迫力に満ちた素晴らしい筆運びです。

働き者で器量のよい、洗濯女のジュルヴェーズは22歳。10歳のときから、洗濯女として働いています。彼女は愛人ランチェとの間にできた2人の子供を連れて、ランチェとともにパリに転居してきます。ある日ジュルヴェーズは安宿「親切館」で、ランチェの帰りを待ちながら朝を迎えます。ランチェは戻ってきません。女と失踪してしまったのです。

パリの朝の喧騒。待つ人の戻らぬ安宿の窓辺。泣きぬれるジュルヴェーズ。エミール・ゾラはそんな場面から、物語を動かします。酒飲みで浮気者のランチェが失踪した後、ジュルヴェーズは同じ屋根裏部屋に住む、実直なブリキ職人のクーポーと結婚します。

2人の間に、ナナという娘が生まれます。夫婦はそれぞれ勤勉に仕事をし、少しばかりの蓄えもできます。ジュルヴェーズは、将来洗濯屋を開業したいと夢見ています。

◎母と娘の物語

『居酒屋』はジュルヴェーズとナナの物語です。本書では子供時代のナナが、描かれています。ゾラはその後ナナを主人公に据えた、『ナナ』(新潮文庫)という作品を発表します。

ある日ブリキ職人のクーポーは、屋根から落下して働けなくなります。治療費で蓄えが、底をついてゆきます。回復したクーポーは酒を覚え、居酒屋に入り浸ります。実直なブリキ職人の面影は消え失せ、働こうとはしません。

ジュルヴェーズはそんなクーポーを許しながら、健気に働き続けます。そんなときにグージェがお金を貸してくれます。ジュルヴェーズの奮闘で、店は再び隆盛を取り戻します。そこへクーポーが失踪した愛人ランチェを連れてきます。

3人の不自然な生活がはじまります。働く意欲のない2人の男のために、ジュルヴェーズの生活はすさんでゆきます。ナナが家出をします。

家出前のナナは、自由奔放な子供でした。その後のナナについては、『ナナ』で詳しく描かれています。ちょっとだけ文庫案内で、紹介させていただきます。

――名作『居酒屋』の女主人公の娘としてパリの労働者街に生れたナナ。生れながらの美貌に、成長するにしたがって豊満な肉体を加えた彼女は、全裸に近い姿で突然ヴァリエテ座の舞台に登場した。パリ社交界はこの淫蕩な〈ヴィナス〉の出現に圧倒される。高級娼婦でもあるナナは、近づく名士たちから巨額の金を巻きあげ、次々とその全生活を破滅させてゆく。(文庫案内より)

『居酒屋』はどん底に落ちていく、パリの下層階級の物語です。本書でのナナは、なぜか鮮明には描かれていません。おそらく『ナナ』への、伏線のつもりだったのでしょう。『居酒屋』は暗い話なのに、明るい仕上がりになっています。パリの下町の酒を、居酒屋で十分に堪能してください。
(山本藤光:2011.06.09初稿、2018.02.22改稿)

H.F.セイント『透明人間の告白』(上下巻、新潮文庫・高見浩訳)

2018-02-20 | 書評「サ行」の海外著者
H.F.セイント『透明人間の告白』(上下巻、新潮文庫・高見浩訳)

ウォール街の証券マン、ニックは、偶然巻き込まれた事故で突如<透明>になってしまった。透明になったら無限の自由が手に入ると思っているあなた、ちょっと待って下さい。透明な人生は決して楽ではありません。食事は?買物は?生活費は?でも見えても見えなくても、人は生きていかねばなりません。透明人間の苦難と哀しみの底から、不透明な現代が浮び上がってくる秀逸な作品。(「BOOK」データベースより)

◎それでも透明人間になりたいですか

H.F.セイント『透明人間の告白』(上下巻、新潮文庫、高見浩訳)は、単行本で1988年の後半に読んでいます。文庫化されたので、再読してみました。初出のときには重過ぎて、通勤電車にはもちこめませんでした。文庫の方は上下巻になり、サイズも小さいのでカバンにおさまります。

文庫の帯には、心躍るコピーがしたためられています。私も納得のコピーです。

――「1988年『本の雑誌』が選ぶ30年間のベスト30」
堂々の第1位! 
無限の自由が手に入ると思っていた彼。

「堂々の第1位」は、どうでもいいことです。「週刊文春」では、1988年ミステリ部門の第7位でした。私は単行本で読んでいましたので、雑誌が選ぶ順位には関心がありません。それよりも気になったのは「無限の自由が手にはいると思っていた彼」というコピーです。

だれにでも透明人間願望は、あるのかもしれません。私は現実的だったので、考えてみたこともありません。文庫での読み方は、新たな発見にウエイトをおきました。だから、急いでページをくくる必要はありません。それでもあのときの感動は、同じようによみがえってきました。この作品はおそらくベスト・ミステリー作品として、永久に語りつがれると思います。

作品は題名のとおり、透明人間になってしまった「僕」の告白手記、という体裁になっています。

――ともかく、事の発端は、僕のごく平凡な人生の中途で起きた、ある小規模ながら異常な科学的不祥事だったのだ。それが、ニュージャージーの地表のごくごく狭小な地域をまったく透明に変えてしまったのである。そして僕は、まさしくその決定的瞬間、偶然にも、その狭小な地表にいた。おかげで、すぐ周辺にあった事物もろとも、あっというまに変身してしまった。(本文P6より)

ウオール街に勤める若い証券アナリスト、ニック・ハロウエイはある日、爆発事件に巻きこまれます。かろうじて難をのがれたニックは気を失い、目覚めた翌朝、室内のすべてのものが透明になっていることを発見します。そして自分自身も、透明人間になっていたのです。

――ふるえながら手をのばして、失くなった足をさぐった。あるべきところに、ちゃんとあるような気がする。すこし身を起こして両膝に体重をかけ、身体全体をさぐってみた。なにもかもそろっている――いつものようにビジネス・スーツまで着ているのが感触でわかる。にもかかわらず、どんなに頭をよじっても、眼をこらしても、自分の体がまったく見えない。(本文P106より)

ニックはニューヨークタイムズの記者である、アンに思いをよせていました。爆発の1週間前に1夜を交わし、恋人になりそうな予感がしていました。爆発した研究施設には2人できていました。第1章では、アンについての回想がつづきます。

爆発現場は、政府機関により完全に包囲されます。彼らは苦労して、透明の猫を捕獲します。ニックにも捕獲の手がのびてきます。彼は混乱した頭で、モルモットにされてしまうと考えます。逃げのびる決断をします。この記述は初稿のものですが、重大な読み落としがありました。

――自分の姿を他人に見られないということは、それなりのメリトがあるはずだ。並みの人間には望めない自由も享受できるはずだ。(上巻本文P161より)

ニックにはモルモットにされてしまう、という恐怖感は希薄でした。私は初稿(5年前)で前記のように書きました。しかしそうではありませんでした。ニックはばりばりの証券アナリストというよりは、すこし軽薄な男だったのです。このあとにつづく記述も、私は完全に読み落としていました。

――いま現在身につけているものは、僕と同じく透明だから、そのまま着用しつづけることができる。その点でいえば、いま現在この<マイクロ・マグネティックス社>の屋内にあるものならすべて、これからも利用できるだろう。それらもやはり、僕と同じく透明だからだ。こいつはいい。そうだ、見えないこの社屋は、透明な品々の貯蔵庫と言ってもいいではないか。(上巻P161より)

透明人間になっているニックを保護しようと、秘密諜報員が必死に探索しています。ニックは恐怖のなかで、冷静にそう考えたのです。そしてニックは、透明になっているいくつかの品物をもって、現場から孤独な逃亡をはかります。

H・F・セイントは、ウェルズ『透明人間』(岩波文庫)よりも、デフォー『ロビンソン漂流記』(新潮文庫)を参考にしたと語っています。(文庫あとがきを参考にしました)孤独をいやすための道具の存在。H・F・セイントはおそらく、透明な品物をもちはこぶ場面のヒントを、『ロビンソン漂流記』から得たのでしょう。私は再読してよかったと思いました。そして注意力散漫な、自分の読書法を反省しました。

秘密諜報員の追撃で、ニックは自宅も追われます。このとき彼は自分の存在をしめす日記、手紙、写真などを燃やします。それは社会から、自分自身を消し去ることを意味します。こうしてニックは、ニューヨークの街中を逃げまどうことになります。ここからはデビット・ジャンセンの「逃亡者」を連想させられます。物語はさらに、スリリングな展開となります。

――信号が青になったので道路をわたりだしたちょうどそのとき、横の停車線で停まっていたタクシーが、突っ切っても大丈夫とみたのだろう、突然信号を無視して飛び出したのだ。よけるまもなく、僕はそのバックミラーにはじきとばされて、駐車中の車に倒れかかった。(上巻P263より)

――透明人間として白昼の街頭を歩いていくためには、じっさい、絶え間ない注意が必要なのだ。とりわけ用心が肝心なのは、ウォークマンを聞きながらローラースケートで滑っている連中だった。(上巻P381より)

恋とサスペンスに加えて、この作品の優れている点は、主人公の日常生活を克明に描いていることにあります。なにげなく暮らしていた都会が、透明人間になった瞬間から、危険きわまりないものに変貌するのです。
 
引用例のように著者は、甘い透明人間願望を、みごとに打ちくだいてみせます。ここまでディテールに固執した変身譚は、おそらくほかに例はないと思います。

◎ラブストーリーへの変化

主人公は逃亡をつづけながら、ある日顔見知りの女性と出会います。もちろん彼女の方から主人公は見えません。後をつけてゆくと、パーティ会場でした。

主人公はアリスという女性に、一目惚れします。透明人間が自ら、はじめてコンタクトをとります。アリスは驚きながらも、透明人間を受けいれます。物語はここから一変します。透明人間の孤独感と、政府機関の執拗な追跡から逃れる基調が、ラブストーリーに変わるのです。ミステリーからサスペンス。そしてラブストーリーへの展開はみごとです。

透明人間であることにたいする孤独感。自己主張できないことへの歯がゆさ。元の姿にもどれないことへの絶望感。本書を読んだ人はいちように、透明人間にはなりたくないと思うはずです。透明人間になって片思いの人の私生活をのぞいてみたい、などという邪悪な気持ちはなえてしまうことでしょう。

透明人間を題材にした作品は数多くあります。元祖のH・G・ウェルズが『透明人間』(岩波文庫)を上梓したのは、1987年でした。文庫になった翻訳本は複数あります。『透明人間の告白』と読みくらべてもらいたいと思います。

文庫本の訳者あとがきに、印象的な記述があります。
――もしあなたが透明人間になったとして、人前でなにを食べたらその体はどう見えると思いますか。/その場合、ワインとポークではどう違うのでしょうか?/それから生じる不都合を最小限に抑える方法や如何?/ウェルズ先生の『透明人間』を読んでも、そういう現実的かつ切実な問にはまったく答えてくれない。が、本書『透明人間の告白』は、アメリカの評論家がいみじくも評したように、<万一あなたが透明人間になった場合の格好の暮らしの手帳>たるべく、実に懇切丁寧に答えてくれるのである。(あとがきより)

本書をていねいに読んだので、私の場合はいつ透明人間になってもだいじょうぶです。ちなみに「山本藤光の文庫で読む500+α」のH・G・ウェルズ作品は、『タイムマシン』(ハヤカワ文庫SF)を推薦作としています。
(山本藤光:2009.06.29初稿、2018.02.20改稿)


スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』(角川文庫、大谷利彦訳)

2018-02-17 | 書評「サ行」の海外著者
スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』(角川文庫、大谷利彦訳)

だれからもすかれているジキル博士は、ある日、おそろしい薬をかんせいさせた。ひとりの人間のよい面と悪い面を分け、どちらにでも変身できる薬だ。だが、悪の顔を持つハイドになるたびに、いつしかもとの心が弱められて…。(「BOOK」データベースより)

◎スティーヴンソンと吉田松陰

スティーヴンソンは、『宝島』(新潮文庫)と『ジーキル博士とハイド氏』(角川文庫)の著者です。この2作品は、いかなる強力な接着剤をもってしても、つながりません。幼いころに『宝島』と親しんだ読者の多くは『ジーキル博士とハイド氏』を、その延長線上にすえることはできないと思います。
 
『宝島』は「痛快世界の冒険文学・第6回配本」(1998年講談社、宗田理訳)で、成人してからも読んでいます。やはり『ジーキル博士とハイド氏』を想起させられるようなことはありませんでした。2つの作品があまりにも、かけ離れているためだろうと思います。

スティーヴンソンは、幼いころから病弱でした。エディンバラ大学工科に入学し、のちに法科に転籍しています。そのころ日本人留学生から教えられて、吉田松陰の思想にふれることになります。フランス旅行中に彼は、11歳年上のアメリカ人ファニー・オズボーンと知り合います。ファニーには2人の子供がいましたが、やがて彼女と結婚します。
 
『宝島』はファニーの連れ子・ロイドを楽しませるために、書かれたといわれています。この作品には、灯台技士であるスティーヴンソンの父親も関与しました。

――中には上等な服が一着、その下に四分儀一個、小さなブリキ缶、たばこ、ぴかぴかに磨いたピストル二丁、銀ののべ棒一本、スペイン製の懐中時計、めずらしい形をした西インド諸島の貝がら……。(『宝島』より)

宝箱の中身を考えたのは、こどものおじいさんにあたるスティーヴンソンの父親だったのです。家族のなごやかな雰囲気を感じとることができる、エピソードだと思います。それゆえ『ジーキル博士とハイド氏』を書いたスティーヴンソンは、私にとって異次元の人に思えたのでしょう。
 
スティーヴンソンは吉田松陰を尊敬しており、吉田松陰についての文章も発表しています。よしだみどりに『知られざる「吉田松陰伝」』(祥伝社新書)という著作があります。本書の副題には『宝島』のスティーヴンスンがなぜ?」とつけられています。そして「スティーヴンスン作『ヨシダ・トラジロウ』全訳」が所収されています。ちなみに「ヨシダ・トラジロウ」は、吉田松陰のことです。河上徹太郎も著作『吉田松陰』(講談社文芸文庫)のなかで、「R.L.スティブンソンに『ヨシダ・トラヂロウ』(補:吉田松陰のこと)という一文がある」(P53)からはじまる文章には15ページも費やされています。

◎スティーヴンソンと夏目漱石

スティーヴンソンが、吉田松陰の思想にほれ込んだことは先にふれました。逆に日本人作家が、スティーヴンソンに影響を受けた例もあります。

夏目漱石(推薦作『吾輩は猫である』新潮文庫)は、『彼岸過迄』(新潮文庫)のなかで、スティーヴンソンを登場させています。「新アラビア夜話」に興味があったようです。イギリスに留学していたことのある夏目漱石だけに、ロンドンの裏通りは知りつくしていたのでしょう。『ジーキル博士とハイド氏』にも、夏目漱石が歩いた裏通りが描かれています。
 
――敬太郎のこの傾向は、彼がまだ高等学校に居た時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜刺比亜(アラビア)物語という書物を読ませた頃から段々頭を持ち上げ出したように思われる。(夏目漱石『彼岸過迄』新潮文庫P19より)
 
中島敦(推薦作『山月記』新潮文庫)は、「光と風と夢」(講談社文芸文庫)のなかに、スティーブンソンを登場させています。横浜高等女学校(現横浜学園)の教師だった中島敦は喘息治療のため、当時(1941年)日本の統治下だった南洋群島パラオに向かいます。スティーヴンソンがサモアで、療養生活をしていたのにならったものです。そのとき書いた作品が「光と風と夢」であり、主人公の名前もスティーヴンソンにしています。この作品は「青空文庫」でも読むことができます。

(以下「光と風と夢」の冒頭を「青空文庫」より引用)
一八八四年五月の或夜遅く、三十五歳のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血に襲われた。駈付けた妻に向って、彼は紙切に鉛筆で斯(こ)う書いて見せた。「恐れることはない。之が死なら、楽なものだ。」血が口中を塞いで、口が利けなかったのである。(引用おわり)

ナボコフ(推薦作『ロリータ』新潮文庫)の著作に『ナボコフの文学講義』(上下巻、河出文庫)があります。下巻では『ジーキル博士とハイド氏』について、およそ50ページの論評がなされています。本書の参考図書として、お薦めさせていただきます。
 
◎2人の主役が登場する場面

『ジーキル博士とハイド氏』は、だれもがご存知のとおりの二重人格の話です。本書について的確な解説があります。それを紹介させていただきます。

――小説は顕微鏡のようなものである。普通の人の目にははいりにくい人間や社会の秘密を拡大して見せてくれる。拡大するに際して、多少の無理や歪みはつきもので、それがあるからこそ、深刻な事実もこれは作り話なのだと安心して読むことができる。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの短編小説『ジーキル博士とハイド氏』は、すべての人間のなかにひそむ二重人格を、二人の人物にふりわけて誇大に描いてみせるが、こういう作り話が成り立つのは、たぶんだれでも悪の化身たるハイド氏になってみたいと思うことも時にはあるからにちがいない。(木原武一『要約世界文学全集Ⅰ』新潮文庫)

この小説の語り手は、弁護士アタスンです。アタスンは従弟のリチャード・エンフィールドから、奇妙な話を聞きます。リチャードはある日、通りで少女と小男が、激しくぶつかった場面に遭遇します。小男は少女を踏みつけ、そのまま立ち去ってしまいます。
リチャードは男を捕まえます。男は平気な顔をして、慰謝料を払うといって、戸口に消えてしまいます。間もなく男は10ポンドと小切手をもってあらわれます。リチャードは当時を思い出しながら、つぎのように語ります。
 
――小切手は持参人払いになっていて、サインがしてありました。その名前は、それが僕の話の要点になるのだけど、今ちょっと言うわけにはいかないんです。世間によく知られた、新聞などでもしじゅう見受ける名前ですね。(本文より) 

慰謝料事件をめぐり、2人の会話はつづきます。アタスンがリチャードにつぎのように問いかけます。
 
「それにしても、一つだけ聞いておきたいんだがね。子供を踏みつけたやつの名前は何というんだい?」
「ううん。話したって別にかまわないだろうな。ハイドっていうんですよ」(本文より)

冒頭でまず、ハイドが登場します。その日の夕方、アタスンはゆううつな気分で帰宅します。アタスンには気がかりなことがあって、弁護士事務室へ行きました。
 
――部屋へ入ると金庫の一番奥から、封筒に「ジーキル博士遺言状」と書かれた封筒を取り出し、腰かけて心配そうに内容を調べ始めた。(本文より)

この段階で、ジーキル博士が登場します。つまり作品の冒頭では、ジーキル博士とハイド氏は別々の存在として語られているのです。

ハイドが差し出した小切手の差出人は、ジーキル博士でした。ジーキル博士は温厚で人徳があり、さまざまな肩書きをもった名士です。なぜハイドがジーキル博士の署名した小切手をもっていたのか。推理小説なら、そんな展開になるのでしょう。
 
ところがスティーヴンソンは、すぐに種明かしをしてしまいます。アタスンが預かっている遺言状の文面は、つぎのように説明されています。

――ヘンリー・ジーキル死亡の際は、全財産を彼の「友人にしてかつ恩人たる、エドワード・ハイド氏に」譲渡すべきこと、ならびに、ジーキル博士の「失踪、または原因不明の不在が三ヶ月以上にわたる」ときは、前記エドワード・ハイド氏は、遅滞なく前記ヘンリー・ジーキルの財産を相続し、かつ博士の遺族に少額の支払いを行う以外は、一切の負担及び義務をまぬがれるべき趣旨が規定してあった。(本文より)

『ジーキル博士とハイド氏』の話が、善悪の二重人格ということを知らなければ、冒頭のこれらの場面はこんがらかったままになります。弁護士アタスンは、ジーキル博士の遺言状にあるハイドについてまったく知らないのです。それがリチャードの話で、一挙に結びついてしまいました。

このあたりの流れは、さすがに冒険小説を書くスティーブンソンらしいと思います。文庫本でわずかに126ページのストーリーです。最後の場面について、ほんのちょっぴり解説を引用しておきます。

――ジーキルは表面は穏やかな紳士だが、内面は悪辣な卑劣漢だった。彼は、人間がそもそも善悪二つの性格を持っている以上、それに対応する二つの独立した存在が一つの身体の中に宿るはずだと確信して実験を重ねた結果、自分がたとえ悪の支配する醜悪な姿へ変身しても、必ず元へ戻れるという薬を製造した。善人ジーキルは悪人ハイドとなり、良心の呵責なしに悪事を重ねることができた。(金森誠也『世界の名作50選』PHP文庫)

岡部伊都子は、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』(朝日選書のなかで、つぎのように書いています。結びの警鐘とさせていただきます。

――取り返しのつかない純粋悪のみと化して滅亡したジーキルに、自分の作りだした科学悪に支配されるようになった人間全体の破滅をみるのは、わたくしの思いすぎでしょうか。
(山本藤光:2009.11.16初稿、2018.02.17改稿)

サガン『悲しみよこんにちは』(新潮文庫、朝吹登水子訳)

2018-02-15 | 書評「サ行」の海外著者
サガン『悲しみよこんにちは』(新潮文庫、朝吹登水子訳)

セシルはもうすぐ18歳。プレイボーイ肌の父レイモン、その恋人エルザと、南仏の海辺の別荘でヴァカンスを過ごすことになる。そこで大学生のシリルとの恋も芽生えるが、父のもうひとりのガールフレンドであるアンヌが合流。父が彼女との再婚に走りはじめたことを察知したセシルは、葛藤の末にある計画を思い立つ……。20世紀仏文学界が生んだ少女小説の聖典、半世紀を経て新訳成る。(新潮文庫案内)

◎処女作が大ブレーク

サガンは豊かな家庭で育ちました。学園生活や受験にはなじめず、何度も転校をくりかえしていました。18歳のときに書いた処女作『悲しみよこんにちは』(新潮文庫、朝吹登水子訳)で、サガンは突然、時のヒロインになってしまいます。
 
私は本稿の執筆にあたり、『悲しみよこんにちは』を再読しました。高校時代に読んだと思われる文庫本は、紙ヤケがひどく活字も色あせていました。奥付をみると、昭和45年56刷でした。したがって、読んだのは大学時代なのかもしれません。
 
文庫本には親指を下唇にあてたサガンの、写真が挿入されています。作家が自らの顔を露出したのはこれが最初だ、ということをなにかで読んだ覚えがあります。処女作『悲しみよこんにちは』は、爆発的に売れました。と同時に、サガンの生活を一変させてしまいました
 
豪華な別荘を買い求め、オープンカーを乗り回し、クラブに入りびたります。ヘロイン中毒になり、賭博にも夢中になります。幸福の絶頂にあったとき、サガンは愛車を走らせ瀕死の重傷を負います。
 
その後2度結婚をし、一人息子を得ます。こどもの存在は、サガンの考え方を大きく変えました。束縛されることや、秩序に組みこまれることを嫌ったサガンでしたが、他人を大切にするようになりました。サガンが追求していたテーマ「愛」「孤独」は、子育てを通じて変化したのです。
 
『悲しみよこんにちは』のタイトルは、フランスの詩人・エリュアール「直接の生命」からもらったものです。その詩の断片は、文庫本のカバーに挿入されています。いい詩だな、と私も思います。

「悲しみよさようなら/悲しみよこんにちは」の書き出しに、青春時代を重ねる人は多いと思います。ひとつの悲しみに別れを告げても、新たな悲しみが訪れる。青春時代ってそうだったよな、となんとなく納得してしまいます。

ちなみに「サガン」というペンネームも借り物です。彼女が大ファンであった、ブルースト『失われた時を求めて』(全3巻、集英社文庫抄訳版)のサガン大公夫人の名前を借用しています。

◎早熟な女の子が書いた物語

『悲しみよこんにちは』の主人公・17歳のセシルは、南仏の別荘で夏の休暇をすごしています。父親は愛人・エルザを連れこんでいます。父親は40歳。10年以上前に妻を亡くして、半年ごとに愛人を変えています。エルザは29歳と若いのですが、聡明な女性ではありません。母親の顔も愛情も知らないセシルは、父親に深い愛情を抱いています。

――その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とその情人のエルザがいた。私はこの不自然にみえる状態について、ここで説明を加えておかなくてはならない。父は四十歳で、十五年来鰥夫(やもめ)だった。父は若く、生活力に満ち、豊かな前途ある男だった。(本文より)

――父は女たらしで、仕事上手で、いつも好奇心が強く、飽きやすく、そして女にもてた。私は苦労せずに、そして優しく、父を愛することができた。なぜなら父は親切で、気前が良く、朗らかで、私に溢れるような愛情を持っていたからだ。私は父以上に良い、そしておもしろい友達は想像できない。(本文より)

別荘での6日目、セシルは25歳のヨット青年・シリルと出会います。セシルはシリルに恋をします。そんなとき、亡くなったセシルの母の友人・アンヌが、別荘を訪ねてきます。アンヌは42歳ですが若々しく、知的で冷淡な美しさをもっています。セシルの父親は、たちまちアンヌに恋をし結婚を決意します。
 
いたたまれなくなり、情人エルザは姿を消してしまいます。アンヌは母親のような厳しさで、セシルを束縛します。シリルとつきあってはならない。身を入れて受験勉強をしなさい。我慢ができなくなったセシルは、エルザとシリルを使って、アンヌを追い出そうと策略を練ります。
 
策略があたって、アンヌは別荘を出てゆきます。途中アンヌの車は、崖下に転落してしまいます。アンヌの死は事故死なのか自殺なのかは、判然としません。しかし父親の愛を独占したいという若い激情が、アンヌを死に追いやったのは明らかです。

◎『悲しみよこんにちは』の舞台

小説を読む楽しみのひとつに、物語の舞台を訪ねるということがあります。お金も暇もない私は、もっぱら第三者が書いた旅行記を読んで、満足することになりますが。そうした著作のなかでお薦めなのは、朝日新聞社編『世界名作文学の旅』(上下巻、朝日文庫)です。最近では書店から姿を消してしまっているのですが、アマゾンの中古では購入可能です。 

『悲しみよこんにちは』には、こんな記述があります。場所は特定されていませんが、読者には地中海に面した別荘地くらいは想像できます。

――父はかねて地中海に面した海辺に、一軒はなれた大きな、白い、すてきな別荘を借り、私たちは、六月、暑さがはじまると、それを夢見ていたのだった。別荘は海を見下ろす岬の先に建てられ、松林によって道路から隠されていた。そこから、石ころの小径が、波の揺れている、赤茶けた岩にかこまれた金色の入江へ降りていた。(本文P7より)
 
こうした舞台に対応してくれているのが、先に記した『世界名作文学の旅』です。その部分を紹介します。
 
――コート・ダジュール。この言葉を口にすると、せばめた口もとから、光にあふれる真っ青な海が広がりでるようだと、あるパリジャンが言った。/誇張ではなかった。まぶたの裏まで染まりそうに、きらめく地中海の青。光の束。足もとの岬から大きく広がる湾の向う、カンヌの豪華なホテルの列は、光のカーテンのなかに揺れ、白っぽくかすんでみえた。イタリア国境からモンテカルロ、ニース、カンヌ……と続く百二十キロの海岸、コート・ダジュールは、太陽の下で、その名の通り〈青の海岸〉に輝いていた。(朝日新聞社編『世界名作文学の旅(上)』朝日文庫、P12より)

私の読書では、こうしたガイド本や地図帳が欠かせません。そしてもうひとつ大切にしているのは、日本の歴史と世界の歴史解説本です。時代背景を知ると、読書に幅が生まれてくるからです。そんな意味で、日本近代文学を読むときに重宝しているのは、『新潮日本文学アルバム』または『文豪ナビ』(新潮文庫)です。
 
◎ちょっと寄り道

初期のサガンの作品は、ほとんど内容、形式とも同じです。三角関係や四角関係などのちがいはあるものの、壊れやすい青春の愛を描いています。たとえば『ある微笑』(新潮文庫)は、孤独と倦怠をもてあましている20歳の娘と、40歳代の男の恋を描いた作品です。舞台こそ夏のカンヌですが、優雅なバカンスのアバンチュールは『悲しみよこんにちは』と酷似しています。
 
『悲しみよこんにちは』は、映画にもなっています。当初セシル役には、オードリー・ヘップパーンが予定されていました。しかし作品が背徳的であるという理由で、ヘップパーンに拒絶されています。しかし私のイメージのなかでは、なぜか、セシルがオードリー・ヘップパーンとかさなっています。不思議なものです。
(山本藤光:2009.11.18初稿、2018.02.15改稿)

シリトー『長距離走者の孤独』(新潮文庫、丸谷才一・河野一郎訳)

2018-02-15 | 書評「サ行」の海外著者
シリトー『長距離走者の孤独』(新潮文庫、丸谷才一・河野一郎訳)

優勝を目前にしながら走ることをやめ、感化院長らの期待にみごとに反抗を示した非行少年の孤独と怒りを描く表題作等8編を収録。(内容案内より)

◎シリトーの死を悼む

アラン・シリトーが亡くなりました。夕刊の訃報欄をみて驚いてしまいました。「怒れる若者たち」というグループに名を連ねていたので、まだ若いとばかり思っていました。80歳を超えていたとは、思いもしませんでした。
 
アラン・シリトー作品で私がもっているのは、『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』(いずれも新潮文庫)の2冊しかありません。丸善に探しに行きました。文庫も単行本もありませんでした。
 
1950年代後半、「怒れる若者たち」と呼ばれる作家グループがありました。別になかよし集団ではなく、作風が似ていたのでひとまとめにされていたのです。「怒れる若者たち」というグループの特徴は、社会への反抗を作品のテーマにしていることでした。いずれの小説も、読んだことはありません。紹介だけさせてもらいます。ただし文庫化されてる作品は、1つしかないようです。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房を参照しました)
 
ジョン・オズボーン『怒りをこめてふりかえれ』(原書房)
キングズリー・エイミス『ラッキー・ジム』(三笠書房)
ジョン・ウェイン『急いで下りろ』(晶文社)
コリン・ウィルソン『アウトサイダー』(上下巻、中公文庫)

シリトーは、イギリスの貧しい労働者階級のこどもでした。14歳で小学校を卒業すると、旋盤工として働きました。18歳で英国空軍に入隊し、マラヤへ派遣されましたが、肺結核のために本国に送還されています。療養生活を地中海のマジョルカ島でおくり、デビュー作『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)を発表しています。
 
◎キーワードは「誠実」 

物語は「おれ」という1人称で、手記風につづられています。「おれ」は17歳、スミスという名前です。評判のワルは、パン屋に押し入り現金を奪います。しかし警察に目をつけられ、ドジを踏んで逮捕されます。感化院送りとなりました。
 
「おれ」は感化院で、長距離クロスカントリー選手として育成されます。感化院院長には野望があります。全英長距離選手権で優勝させ、トロフィを獲得してもらうことです。主人公・スミスは、院長の期待に応えたふりをして、ひたむきに練習に励んでいます。走ることは嫌いではありません。

本書のキーワードは「誠実」だと思います。スミスは院長から、感化院での生活は、「誠実をむねとする」ことをくりかえし説かれます。しかしスミスは、院長がいう「誠実」と、自分の考える「誠実」は同じものではないと考えています。
 
規律の遵守。長距離走者として院長の期待に応える。それが院長のいう「誠実」です。スミスは院長に反発しません。練習に励んでいるスミスを、院長は「誠実」であると評価しています。スミスは、走ることが楽しいだけなのですが。

――おれにもクロスカントリー長距離走者の孤独がどんなものかがわかってきた。おれに関するかぎり、時にどう感じまた他人が何と言って聞かせようが、この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さであり現実であり、けっして変わることがないという実感とともに。(本文P58より)

全英選手権の日がきました。スミスは圧倒的な走力で、トップをキープしています。スタンドでは、院長のこぼれるような笑顔が待っています。この先については、ふれないでおきます。だれもが予想できる結末が、待っているからです。
 
『長距離走者の孤独』は、河野一郎が翻訳しています。他の収載作「アーネストおじさん」などは丸谷才一の訳です。1冊の短編集に、2人の訳者があるのも味わい深いものです。『長距離走者の孤独』は、『王国記』シリーズの花村萬月の訳文でも読んでみたいと思いました。

丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士『文学全集を立ちあげる』(文春文庫)では、アラン・シリトー(『長距離走者の孤独』)、ゴールディング(推薦作は『蠅の王』新潮文庫)、オズボーン(推薦作は『怒りをこめてふりかえれ』文庫なし、単行本絶版)で1冊と提言しています。『文学全集を立ちあげる』は、なかなか味のある対談集です。いずれ紹介させていただきますが、欠点は絶版の本が散見されることです。早く本物の「文学全集」を、立ち上げてもらいたいものです。
(山本藤光:2010.04.29初稿、2018.02.15改稿)

ジッド『狭き門』(新潮文庫、山内義雄訳)

2018-02-12 | 書評「サ行」の海外著者
ジッド『狭き門』(新潮文庫、山内義雄訳)

地上の恋を捨て天上の愛に生きるアリサ。死後、残された日記には、従弟ジェロームへの想いと神の道への苦悩が記されていた……。(新潮文庫案内)

◎愛と宗教との葛藤

 小説家になることを夢見ていた、若い時代があります。乏しい恋愛体験を、原稿用紙に書き連ねては自己満足していました。そんな夢を無残にも打ち砕いたのが、ジッド『狭き門』(新潮文庫)でした。私の書く恋愛小説は、なんと薄っぺらなのだろうと愕然としました。『狭き門』には、愛と神との葛藤が描かれていました。「神」の力が欠如している私の小説は、軽薄で独りよがりで、それこそ狭い世界でのものがたりだったのです。

ギターの弦を力任せにしめると、重苦しい音しか生まれません。『狭き門』はそんな音に満ちた、世界を描いたものがたりです。
『狭き門』を紹介するとき、ジッドの生い立ちを抜きにしては語れません。これほど張りつめた世界は、空想だけでは描けないからです。ジッドの生い立ちについて、ふれられた文章を紹介します。
 
――幼時に受けた厳格なキリスト教のモラルと、彼に内在する肉欲の悩みとの葛藤が、久しいあいだ、彼を苦しめた。一八九五年(二十六歳)、それ以前から彼が清純な愛情を捧げていた従姉のマドレーヌ・ロンドーと結婚したが、彼の悩みは解消しなかった。なぜなら、彼女に対しては信仰の対象とすらいえる精神的な愛のみを抱き、すでに結婚以前、アルジェリアで少年の肉体を体験し、自己の同性愛的傾向を自覚していたからである。それ以来、キリスト教のモラルと肉欲の対立のみでなく、妻には精神的な愛を、同性には肉体的な愛を感じるという新たな対立がはじまった。これらの複雑な対立は、彼の作品の多くに表れている。(加藤民男編『フランス文学・名作と主人公』自由国民社P160より)

 そんな前提で『狭き門』のストーリーを追ってみます。

主人公・ジェロームは14歳。父を亡くし、母とともに叔父の家のある町に移ります。叔父には、3人のこどもがいます。ジェロームは2歳上のアリサに恋をしてしまいます。アリサは知的で、思慮深い美しい女性でした。しかし微笑みには、どこか憂いが含まれているのです。アリサは妹・ジュリエットと弟・ロベールを、こよなく愛していました。

平穏な家庭に、突然波風が起きます。母親が若い男と、駆け落ちしてしまうのです。ジェロームはアリサを、不幸な環境から救い出したいと思います。その直後の礼拝で、ジェロームは牧師の説く「力を尽くして狭き門より入れ」という言葉に啓示をうけます。

ジェロームの愛にたいして、アリサは心を閉ざしつづけます。妹のジュリエットが、ジェロームを恋していることを知っていたからです。しかしジュリエットは、ジェロームをあきらめてほかの男と結婚してしまいます。

それでもアリサの心は開かれません。ジェロームは神学校に入学するために、アリサのもとを離れます。そのあいだ2人は、なんども手紙でやりとりをします。しかし宗教心の厚いアリサと、恋の成就を願う2人の距離は埋まりません。

桑原武夫は著作のなかで、『狭き門』について簡単明瞭に説明してくれています。

――『狭き門』は、一口でいえば、一人の少女が愛している青年との恋をあきらめるという恋物語ですが、そのあきらめは外部からの圧迫とか、周囲のやむをえない事情とかにもとづくのではすこしもなく、その少女の心の中から生まれたあきらめである――そういう微妙な恋物語です。(桑原武夫『わたしの読書遍歴』潮文庫)

桑原武夫はアリサを主役にして、ものがたりを論評しています。
『狭き門』は切ない小説です。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫)が、本書に重なってきました。『狭き門』は、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』と併読するべきだったと思いました。私はこれら2つの作品を、代表的な恋愛小説だと思っています。

◎絶賛、小林秀雄が石川淳が
 
 ジッドは、石川淳が大好きな作家です。安部公房(推薦作『砂の女』新潮文庫)を卒論に選んだ私は、彼が影響を受けた石川淳(推薦作『紫苑物語』講談社文芸文庫)や花田清輝(推薦作『復興期の精神』講談社文芸文庫)を読み、ジッドやカフカ(推薦作『変身』新潮文庫)まで手をのばしていました。安部公房という核から広がり読みはじめた作家はほかに、カミュ(推薦作『異邦人』新潮文庫)、リルケ(推薦作『マルテの日記』新潮文庫)、キャロル(推薦作『不思議の国のアリス』新潮文庫)、倉橋由美子(推薦作『スミヤキストQの冒険』講談社文芸文庫)などがいます。
 
『狭き門』(新潮文庫)の巻末に「跋(ばつ)」として石川淳がつぎのように書いています。石川淳はジッド作品『背徳者』(新潮文庫)の翻訳も手がけています。

――彼の文は、渾々(こんこん)と迸(ほとばし)る泉でもなく、飄々(ひょうひょう)捉え難き風でもない。それは、一字一字に鑿(のみ)の閃きを宿して、人の心の壁に刻み附ける浮彫りである。『狭き門』に至るまで、ジッドの著作は十数巻を算する。其処(そこ)には、言葉と言葉とがぶつかり合い、文字と文字とが犇(ひしめ)き合って、或いは動き、或いは静まりながら、各句各行が目に見えない鉤に繋がれ累々として一基の塔をうち樹てている。ジッドとともにこの塔へ上る者は、『狭き門』に於いて一段と作者の鑿の冴えを認めるであろう。その冴えこそは、「葉の蔭を洩れて水に沈む日の光」である。(巻末の石川淳「跋」より)

 小林秀雄に『Xへの手紙』(角川文庫)という著作があります。このなかの「私小説論」で、ジッド『狭き門』についてつぎのように書いています。
 
――純粋小説の思想は言ふ迄もなくアンドレ・ジイドに発した。一体ジイドが現代のフランス文学界で、極めて重要な位置を占めるに至ったゆえんは、その強烈な自己探求の精神にあった。「地の糧」の序文に彼は書いた。「私が、これを書いたのは文学が恐ろしく風遠しの悪さを感じてゐる時であった。文学を新しく大地に触れさせ、文学にただ素足のままで土を踏ませる事が焦眉の急だと私には思はれたのだ」と。(本文P80より)

 小林秀雄は、ジッドの『狭き門』はどんな通俗小説よりも売れたとも書いています。また横光利一はパリの講演で「日本では女中でさへも、ジイド氏の作品を探し求めて読むやうになっています」(「我等と日本」『欧州紀行』講談社文芸文庫)といっています。(この部分は検証していません。小谷野敦『恋愛の昭和史』文春文庫を参考にさせてもらいました)

 本書は小林秀雄や横光利一がいうとおり、読んでいなければ恥ずかしい作品でした。かたくななアリサの気持ちが、日本人にはわかりにくいと思います。神にたいする愛。ジェロームにたいする愛。この2つの愛をひとつにしてしまうと、『狭き門』の間口は広がります。最後に吉田健一の文章で結んでおきます。

―― 一人の美しい少女が次第に大人になって、それは一人の男に対する愛情とともにであり、愛情の方も暫く成熟した時に、これと並行して強くなった宗教心の為に、他になんの邪魔もないのにも拘わらず、男からはなれなければならなくなる次第が、当の女の気持ちを通じて語られているとすれば、それだけで我々の同情,或いは少なくとも、好奇心に訴えるのに十分なものがある。(吉田健一『文学人生案内』講談社文芸文庫)
(山本藤光:2010.05.30初稿、2018.02.12改稿)

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス、野崎孝訳)

2018-02-08 | 書評「サ行」の海外著者
サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス、野崎孝訳)

インチキ野郎は大嫌い! おとなの儀礼的な処世術やまやかしに反発し、虚栄と悪の華に飾られた巨大な人工都市ニューヨークの街を、たったひとりでさまよいつづける16歳の少年の目に映じたものは何か? 病める高度文明社会への辛辣な批判を秘めて若い世代の共感を呼ぶ永遠のベストセラー。(アマゾン内容紹介)

◎文体でひっぱる

2010年2月2日、共同通信の記事「世捨て人ではなかった」という、サリンジャー死去のニュースを読みました。長いのですが、興味深い記事なので全文を紹介します。

(引用はじめ)
――軽食堂で食事を取り、気軽にあいさつを交わすなど「もの静かな田舎の人」で世捨て人ではなく、住民の間では私生活を口外しないことが暗黙の了解だった。同氏は1953年ごろに東部ニューハンプシャー州の田舎町、コーニッシュに転居、死去まで人口約1700人のこの町で過ごした。
 サリンジャー氏は町で「ジェリー」と呼ばれ、数年前まで選挙や町民会議にも参加するなど完全に「町の住民」だった。買い物はほとんど町の雑貨店で行い、一人で軽食堂で食事を取り、「あいさつにも気軽に応じる気さくな人」。自宅近くに住む子供と学校の話をし、自宅の庭でそりをしたいという頼みにも快く応じていたという。
 教会の夕食会を気に入り、毎週土曜に12ドル(約1090円)のローストビーフを食べに来ていたが、昨年12月が最後だった。
(引用おわり)

サリンジャーは、ニューヨークのマンハッタンで生まれています。彼の独特の文体を、都会生まれだからと書いている批評家もいます。私は生まれと文体は、必ずしも一致しないと思っています。むしろサリンジャーは、16歳の主人公の内なる感情を、この文体でしか書くことができなかった、とみるべきでしょう。

『ライ麦畑でつかまえて』(白水Uブックス、野崎孝訳)を読むのは、今回で2度目です。2度とも野崎孝の訳で読みました。村上春樹訳がでたので、それも読んでみました。タイトルもカタカナで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)となっていました。翻訳作品って、訳者によってまったく異なるものになります。そんな実感をもっています。

『ライ麦畑でつかまえて』は、文体で読ませる作品です。どちらを選ぶかは、個人の好みの問題になります。私は村上訳よりも、どっしりとした野崎訳の方が好きです。『ライ麦畑でつかまえて』の文体の大切さにふれた説明を引用したいと思います。

――『ライ麦畑でつかまえて』は、成績不良で退学になった高校生の言動を通して、その清純犀利な感覚と思考がとらえた人間社会の「いやらしさ」を描いた作品だが、50年代ハイティーンの用語を的確に写しとっていると評される文体のさわやかで歯切れのよい語り口と相まって、圧倒的な人気を呼び、ベストセラーになるとともに、ティーン・エージャーの心理の研究資料として学校の教材に利用されたりするまでになっている。(「新潮世界文学小辞典」より)

 翻訳は時とともに、陳腐化するといわれます。そんな意味では、新しい訳書のほうが、時代にマッチしているかもしれません。このあたりは好みの問題ですから、だれの訳書がいいと強要するつもりはありません。

◎揺れる少年の心

主人公のホールデン・コールフィールドは、成績不振で名門高校を3度目の除籍となります。彼は自宅のあるニューヨークへ戻りますが、両親の逆鱗にふれることを恐れて、3日間街をさ迷い歩きます。『ライ麦畑でつかまえて』は、クリスマス休暇直前の3日間を、少年の日常的な言葉でつづられた青春物語です。

ホールデン少年は、タバコを吸い大酒を飲みます。背伸びしたそうしたおこないとは裏腹に、人を恋しがる幼い感覚をもってもいます。大人の社会にたいしての反発と、戸惑い揺れ動く感情の表現は、常に少年の肉声として描かれています。

寂しさをまぎらわせるために、ホールデンは、売春婦、ポン引き、女ともだち、教師などに近づきます。しかし金と欺瞞に満ちた彼らは、彼の孤独感をいやしてはくれません。そのかわり彼は、修道女、こども、池のアヒルに親近感を抱くことになります。

ケンカばかりしていた寮生活から抜けだしたものの、ホールデンは外社会でも自分の居場所を発見することができません。ホールデンはこの間、自分にとって唯一の理解者は妹のフィービーであることを実感します。

相手の目に映っているのは、まぎれもない少年・ホールデンです。しかし彼は年齢を偽り、娼婦を部屋に迎え、バーに出入りもします。本人は大人を演じているつもりですが、いたるところで幼さが露見します。目いっぱい爪先立つと、やがて疲れて体が揺れる。そんな瞬間が微笑ましくもあります。

最終的には自宅に戻り、唯一の理解者である妹・フィービーともケンカをしてしまいます。行き場を失ったホールデンは、ふたたび家を出ようと決心するのですが……。この場面は圧巻です。 懐疑、嫌悪、憎悪などの渦巻く汚水のなかから、突然少年はある感覚を抱くことになります。

ちなみに「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルは、スコットランド民謡「ライ麦畑で会うならば」から借りたものです。この曲は聴いたことがありませんが、本文中からその場面を拾っておきたいと思います。野崎歓訳と村上春樹訳をならべてみます。

――子供がすてきだったんだよ。歩道の上じゃなくて、車道を歩いているんだ。縁石のすぐそばのところだけどね。子供はよくやるけど、その子もまっすぐに直線の上でも歩いていくような歩き方をしているんだな。そして歩きながら、ところどころにハミングを入れて歌ってるんだ。僕は何を歌ってんだろうと思ってそばへ寄って行った。歌ってるのは、あの「ライ麦畑でつかまえて」っていう、あの歌なんだ。(野崎歓訳P180より)

――でもその子どもはなかなか良かったね。その子は舗道を歩かずに、車道を歩いていた。舗道の縁のすぐわきのところを歩いていたんだけどさ。彼はまっすぐな一直線をたどって歩こうと必死にがんばっていた。そういうのって小さな子どもがよくやるじゃないか。そしてそのあいだずっと唄を歌ったり、ハミングをしたりしているんだ。何を歌っているのか知りたくて、ぼくはその子の近くに寄ってみた。その子の歌っているのは、「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら(If a body catch a body coming through the rye)」という歌だ。(村上春樹訳P191より)

 2冊の訳書とも、すばらしい読後感でした。耳にしたことのない「ライ麦畑」のメロディが聴こえているように思われました。
(山本藤光:2010.12.08初稿、2018.02.08改稿)


スウィフト『ガリヴァー旅行記』(新潮文庫、中野好夫訳)

2018-02-07 | 書評「サ行」の海外著者
スウィフト『ガリヴァー旅行記』(新潮文庫、中野好夫訳)

船員ガリヴァの漂流記に仮託して、当時のイギリス社会の事件や風俗を批判しながら、人間性一般への痛烈な諷刺を展開させた傑作。(文庫案内より)

◎知らなかった本当の『ガリヴァー旅行記』

『ガリヴァー旅行記』(新潮文庫、中野好夫訳)は、小人国と大人国の話だけだと誤解していました。実際には4部よりなりたち、子どものころから親しんでいたのは、そのなかの1部と2部だったのです。さらに記憶の片隅にもなかったことがあります。『ガリヴァー旅行記』には、日本も登場していました。

――われわれは日本の東南部にあるザモスキと呼ぶ小さな港町に上陸した。町は、狭い海峡が北の方へ向かってちょうど長い腕のように伸びている。その西端にあるわけだが、さらにその腕の北西部にあたるところが首都のエド(江戸)があった。我輩は上陸すると、まず税関役人にラグナダ王からこの国の皇帝に宛てた親書を出して見せた。(本文より)

 日本に関する記述は、きわめて短いものです。詳細な見聞録は、書きこまれていません。日本は『ガリヴァー旅行記』のなかで、唯一の現存する国です。作者のスウィフトが来航したという記録はありません。当時日本は江戸中期であり、鎖国のまっただなかでした。それゆえ、日本人の容姿や風俗に関する記載は、遠ざけたのでしょう。
 
 主人公のガリヴァーは、1662年にイギリスの片田舎で生まれます。ケンブリッジで寮生活を送り、ロンドンで医学を学びます。23歳のときに船医となり、その後17年間未知の国をめぐることになります。結婚はしていました。
 
 第1部は小人国。第2部は大人国。第3部は宙に浮いている島や日本。第4部は馬が主人で、ヤフーと呼ばれる人間が家来という島への渡航記となっています。『ガリヴァー旅行記』は、著者スウィフトの絶望的な生い立ちを、社会に向けた刃でした。
  
◎絵本で知っている世界

 サマセット・モームは著書『世界文学読書案内』(岩波文庫)で、『ガリヴァー旅行記』をつぎのとおり絶賛しています。

――『ガリヴァー旅行記』は、機知あり、皮肉あり、さらに巧みな思いつきあり、淫らなユーモア、痛烈な諷刺、溌剌とした生気をもつ作品である。その文体は感嘆のほかはない。わたくしたちの国語であるこの厄介な英語を用いて、スウィフトのような、簡潔で明快で、素朴な文章を書いた者はほかにない。(本文より)

 私が『ガリヴァー旅行記』を読んで苦労したのは、マイルやヤードやフィートなど単位の表記でした。とっさに判断できないので、いちいち頭のなかで換算しなければ、情景が浮かんできませんでした。本書を読むときは、単位の換算表を常備しておくことをお薦めします。
 
 小人国リリパットは、いまの世の中をミニサイズにした世界です。人間の平均身長は約15センチメートル(6インチ)です。動物も自然も家屋も、同じ比率で小さくなっています。ガリヴァは宮廷に仕え、数々の試練に立ち向かいます。海を歩いて渡り、敵の国から軍艦50隻を根こそぎ奪いとります。王妃の御殿が火災になったときは、放尿で炎上を食いとめました。
 
 大人国ブロブディナグでは、小人国と真逆の世界が待ち受けています。すべてが桁違いに大きく、鳥獣に襲われたり、降ってきた雹(ひょう)に傷ついたりします。
 
 ここまでが絵本で知っている『ガリヴァー旅行記』でしょう。諷刺もそんなに鋭くなく、なぜこの作品が諷刺文学といわれるのだろうか、などと疑問に思ってしまうほどです。前記のように、モームが指摘しているスウィフトの毒矢は、第3部以降に大量放出されることになります。
 
 第3部では、抽象的な思考しかできない人間が住む、宙に浮かぶ島・ラピュタです。そこには不死の人間が住んでいます。さらに前記の日本が登場します。ガリヴァーは長崎から江戸へとたどり、踏み絵を免除してもらいます。寂しいのですが、日本に関する描写はそれだけでした。
 
 第4部は、馬が人間(ヤフー)を統治するフウイネムへの航海日誌となります。ヤフーは剛毛に覆われ、知能もなく醜悪な存在として描かれています。ガリヴァーの姿かたちは、ヤフーと似ています。しかし彼は衣服を身につけており、体毛もありません。馬が統治する国でのガリヴァーは、外見と知性のちがいが顕著に描かれています。

『ガリヴァー旅行記』は、人間に対する諷刺に満ちています。大人国でガリヴァーが読んだ、「人間」に関する本の説明を引用してみましょう。この本は婦女子や通俗読者以外には、省みられないとの前提がついています。

――生まれながらの人間というものが、いかに矮小な、卑しむべき、そして無力な動物であるか、天候の酷烈、野獣の怒りに対してさえ身を衛(まも)ることができないではないか、強さにおいても、速さにおいても、先見能力においても、はたまた勤勉においても、それをはるかに凌ぐ動物があるといった風なことを論証している。(本文より)

 詳細については、これ以上ふれません。よくぞここまで書いた、と圧倒されました。この作品は、激しい憎しみがなければ書くことができなかったでしょう。それほど、スウィフトの怨念は激しいものだったのだと思いました。
 
◎ちょっと寄り道 

『ガリヴァー旅行記』の第4部に、刺激されたのか否かはわかりません。1970年に日本で、沼正三『家畜人ヤフー』(角川文庫)が発表されて大騒動になったことがあります。日本人の後裔ヤフーが白人女性に隷属される話です。いまでは明らかになっていますが当時は、沼正三とはなにものなのか、とんでもなく日本人を侮蔑している、など大騒ぎになりました。書棚から引っ張り出してみると、ページは黄色く変化していました。この作品は一読をお薦めしたいと思います。

また原爆文学で知られる原民喜(新潮文庫)に、『ガリバー旅行記』(講談社文芸文庫)という著作があります。絶版で入手は難しかったのですが、「青空文庫」(無料の電子書籍)にはいっていることを知りました。私は神田の古本屋で高価な1冊を購入しましたが。

 不思議に思ったことがあります。以前(1998年ころ)、講談社から『痛快世界の冒険小説(全24巻)』が発売されています。ここには『ガリヴァー旅行記』の姿はありません。志水辰夫が『十五少年漂流記』を訳出したり、楽しい企画だったのですが。
(山本藤光:2013.04.27初稿、2018.02.07改稿)

ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』(全4巻、集英社文庫、丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)

2018-02-05 | 書評「サ行」の海外著者
ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』(全4巻、集英社文庫、丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)

ダブリン、1904年6月16日。私立学校の臨時教師スティーヴンは、22歳、作家を志している。浜辺を散策した後、新聞社へ。同じ頃、新聞の広告を取る外交員ブルームの一日も始まる。38歳、ユダヤ人。妻モリーの朝食を準備した後、知人の葬儀に参列し、新聞社へ。二人はまだ出会わない。スティーヴンは酒場へ繰り出し、ブルームは広告の資料を調べるため国立図書館へ向かう。時刻は午後1時。(「BOOK」データベースより)

◎訳注を確認するのが楽しい

ジェームズ・ジョイスは当初、『ダブリナーズ』(新潮文庫、柳瀬尚紀訳)か『若い芸術家の肖像』(新潮文庫、丸谷才一訳)を紹介しようと考えていました。しかし丸谷才一の「おいおい」という声が聞こえてきました。「やっぱりジョイスは『ユリシーズ』だろう」というのです。本書は大学時代に読んだきりになっていましたので、老眼を酷使しながらの再読となりました。

訳者の丸谷才一への讃嘆の声を、紹介させていただきます。

――彼(丸谷才一)はまず、小説は言語遊戯にはじまるという仮説を立て、ついで小説家の最も肝要な資格は言葉遊びの名手であることを、遠くはラブレー、セルバンテス、近くはバージェス、ナボコフ、マルケスらの諸作を通じて例証し、そしてこう結んだ。『ユリシーズ』こそ、「それ以前の説話藝術のすべてがそこへ流れ入り、それ以降のすべてがここから出る」作品であり、人類の小説史を巨大な砂時計にたとえれば、その「くびれの箇所に当たるもの」なのだ、と。(向井敏・評。丸谷才一・池澤夏樹・編『愉快な本と立派な本』毎日新聞社P352)

ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』(全4巻、集英社文庫、丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)をついに完読しました。他の本との併読でしたので、なんと1年がかりでの読破です。本書は「訳注」に頼らなければ前進できません。第1巻の訳注は、449か所につけられています。訳注だけで約150ページもあるのです。

これが読書の前進を拒んだ、最大の壁でした。いずれも無視できないほどの、深いニュアンスを紹介したものです。尊敬する丸谷才一の訳書ですから、途中で放棄するわけにはいきません。ところがストーリー展開が明らかになるころから、訳注を確認するのが楽しくなりました。

まるでクイズを解いているように、意味合いを考えつつ訳注で解答を確認するのです。本書は事前に、ホメロス『オデュッセイア』(上下巻、岩波文庫、松平千秋訳、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)を読んでおくとわかりやくなります。また20代で書いた『ダブリナーズ』(新潮文庫)を先に読んでおくと、『ユリシ-ズ』の理解が深まります。

『ユリシ-ズ』のスティーヴン・ディーダラスは、『ダブリナーズ』にも『若い芸術家の肖像』(新潮文庫)にも登場しています。

――ジョイス作品の舞台は一貫してダブリンにあり、『ユリシーズ』(Ulysses)の「愛すべき汚いダブリン」という表現は、ジョイスの故郷に対する愛憎を切実に示している。(日本イギリス文学・分家研究所編『イギリス文学ガイド』荒地出版社P188)

◎たった1日の物語

1904年6月16日。長い物語は、ダブリンのこの1日のことだけつづられています。物語の中核をになう1人は、スティーヴン・ディーダラスは22歳。彼は作家志望の私立高校の臨時職員です。彼は海辺の塔で、友人のバック・マリガンと共同生活をしています。

事実上の主人公レオボルド・ブルームは38歳。新聞社の広告営業をしています。ブルームには、妻モリーがいます。ブルームは妻へきた手紙を盗み見て、妻の不貞に悩んでいます。さらにユダヤ人への差別に悩んでもいます。モリーも夫と浮気相手のはざまで揺れています。

スティーヴンとブルームの朝は、別々にはじまります。スティーヴンとブルームは一度新聞社で顔を合わせそこないます。つぎに図書館ですれちがいますが、特にお互いに意識することはありません。

この日はスティーヴンの給料日です。同居人との折り合いが悪く、昼から酒を飲みつづけています。ブルームは妻の不義を知って、悩み抜いています。妻のモリーの心も乱れたままです。

物語はモリーの内面吐露やブルームの性的衝動など、驚くべき挿話によってゆっくりと動いていきます。ダブリン市民の様子、ユダヤ人迫害の模様、ダブリンの街並みなども、まるで絵をみているように伝わってきます。

――話の筋そのものはさほど重要ではない。ジョイスは「文体の魔術師」とよばれているが、彼の文体は対象の本質によって決定される。(明快案内シリーズ『イギリス文学』自由国民社P191)

解説にあるように、ジョイスの文体は翻訳家泣かせのようです。それゆえ味わいながら、じっくりと読みたいものです。

◎『オデュッセイア』のパロディではない

ホメロス『オデュッセイア』を読んでおくことを薦めましたが、ナボコフはその点についてこんな警句を書いています。

――ブルームの退屈な街あるきと、取るに足りない冒険のなかに、『オデュッセイア』の親密なパロディを見るようなことは、やめたほうがいい。広告取りのブルームは創意工夫に富むオデュッセウス又の名ユリシーズの役を演じ、ブルームの浮気な妻は貞淑なペネロペーを演じ、いっぽうスティーヴン・ディーダラスには息子テレマコスの役が与えられている、といったようなことを読みとってみてもはじまらないのだ。(ナボコフ『ナボコフの文学講義』下巻、河出文庫P210)

ちなみに引用部分はほんの1か所ですが、ナボコフは150ページにわたる『ユリシーズ』論を展開しています。篠田一士も『二十世紀の十大小説』(新潮文庫)で『ユリシーズ』を取り上げています。こちらは50ページほどの分量ですが、長篇を完読した後はクールダウンのつもりで、この2冊は読んでいただきたいと思います。

本稿の冒頭でも触れましたが、手抜きして注釈を飛ばして読んではいけません。丸谷才一のいうように、本書を原文で読めないのが残念なほど、ジョイスは巧みに言葉遊びをしているようです。

――何よりも使用されている言葉そのものがおもしろい。擬音語、地口、かばん語(補:2つ、またはそれ以上の語の1部を組み合わせて作った語のこと)、逆さ綴りなど様々ある。ジョイスは「音の意味」のもつ巧みな力を知る「畏怖の権威者」なのである。(結城英雄:『ジョイスを読む・二十世紀最大の言葉の魔術師』集英社新書P168)

このように『ユリシーズ』の醍醐味は、原書を読めない者には、解説という魔法の手引きがあるのです。私のように1年がかりの読書プランを作って、堪能してください。
(山本藤光2015.12.23初稿、2018.02.05改稿)

シェイクスピア『マクベス』(新潮文庫、福田恆存訳)

2018-02-04 | 書評「サ行」の海外著者
シェイクスピア『マクベス』(新潮文庫、福田恆存訳)

かねてから、心の底では王位を望んでいたスコットランドの武将マクベスは、荒野で出会った三人の魔女の奇怪な予言と激しく意志的な夫人の教唆により野心を実行に移していく。王ダンカンを自分の城で暗殺し王位を奪ったマクベスは、その王位を失うことへの不安から次々と血に染まった手で罪を重ねていく……。シェイクスピア四大悲劇中でも最も密度の高い凝集力をもつ作品である。(アマゾン内容紹介より)

◎魔女と亡霊

「山本藤光の文庫で読む500+α」掲載にあたり、シェイクスピアの4大悲劇(『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』いずれも新潮文庫)のどれを選ぶかに迷いました。最終的に『ハムレット』と『マクベス』のどちらかにしょうと、2冊の再読を試みました。
 
わかりやすさの点で、『マクベス』をとりあげることにしました。
少しだけストーリーを追いかけてみましょう。

雷鳴と稲妻のなかを、3人の魔女が登場します。マクベスに会うといいかわします。(第1幕第1場)

舞台は転じて、王軍の陣営になります。スコットランド王のダンカンと息子(王子)マルコム、ドヌルベインおよび貴族・レノクスらがそろっています。そこに傷ついた隊長が帰還してきます。マクベスの活躍があり、戦に勝利したむねを報告します。(第1幕第2場)

ふたたび荒地と雷鳴。3人の魔女が登場します。そこへマクベスとバンクォーがやってきます。魔女は2人に、つぎのような予言をあたえます。「マクベスが次の国王になる」「パンクォーの死後に子孫が国王になる」(第1幕第3場)

 ストーリーを追うのは、このあたりにします。魔女の予言を現実のものにしたい。だから現実を変えなければならない。マクベスは悪妻にそそのかされ、ダンカン国王とバンクォーを暗殺し、予言を塗り替えようとします。

 このあたりの展開について、木下順二は著作のなかでわかりやすく説明してくれています。私は読み流していました。3人の魔女のせりふに、注目する必要がありました。

第1の魔女「おめでとうマクベス! グラームズの領主よ!」
第2の魔女「おめでとうマクベス! コードーの領主よ!」
第3の魔女「将来王になるひとマクベス、おめでとう!」
 
第1の魔女は、マクベスが領主である地名・グラームズといいます。第2の魔女がいった地名・コードーには、りっぱな別の領主がいます。ところがダンカン王からの使いがきて、戦勝のほうびとして「あなたはコードーの領主になる」と伝えます。いとも簡単に魔女の予言が的中し、マクベスの心は第3の魔女の予言にゆすぶられます。その後の展開を理解するうえで、ここはきちんとおさえておくべきです。(木下順二『劇的とは』岩波新書を参考にしました)

さらに私は木下順二のつぎの指摘に、自分の読書力の甘さを知らされたのです。第1幕第1場のラストで、3人の魔女は声をそろえてこういいます。

――きれいは穢(きた)ない。穢いはきれい。さあ、飛んで行こう。霧のなか、汚れた空をかいくぐり。(霧の中に消える)(本文P10、福田恆存訳より)

木下順二によると、「Fair is foul,and foul is fair.」(きれいは穢ない。穢いはきれい)は、「人間の世界でフェアなものは魔女の世界ではファウルである。人間の世界でファウルなものは魔女の世界ではフェアである。要するに人間と魔女とは価値観が逆だと奇妙なことを合唱するのです。そういう不思議な呪文を三人の魔女が合唱し、それが観客に印象づけられます。そしてこの〈一の一〉はそれだけの十二行で終ります。(木下順二『劇的とは』岩波新書)

『マクベス』は、シェイクスピアの4大悲劇のなかでいちばん短いものです。ストーリーもわかりやすく、この作品から読みはじめるのが好ましいと思います。
 
◎鬼気迫るマクベス夫人のせりふ
 
『マクベス』の読みどころは、マクベスの妻の激しい気性が表出される場面です。マクベスは魔女の予言に心を動かされ、妻に暗殺をたきつけられます。そんな場面をひろってみます。以下マクベス夫人語録です。すべてが夫・マクベスに向けられたものです。

――考えていらっしゃるご自分と、思いきった行動をなさるご自分と、その二つが一緒になるのを恐れておいでなのですね?(本文P31より)
 
――私は子供に乳を飲ませたことがある、自分の乳を吸われるいとおしさは知っています。でも、その気になれば、笑みかけてくるその子の柔らかい歯ぐきから乳首を引ったくり、脳みそを抉りだしても見せましょう、さっきのあなたのように、一旦こうと誓ったからには。(本文P32)

――あいつたちの短剣は、あそこに出しておいた、見つからぬはずはない。あのときの寝顔が死んだ父に似てさえいなかったら、自分でやってしまったのだけれど。(本文P37より)

――腑甲斐のない! 短剣をおよこしなさい。眠っている人間や死人は人形同然。(本文P39より)

――あの二人の命だって、やはり自然からの借りもの、いつまで続くものでもございますまい。(本文P60より)
 
『ハムレット』と『マクベス』は、コインの裏と表のような作品です。クルクルとまわっていると、そこから魔女と亡霊があらわれます。『ハムレット』は、叔父によって王位を略奪された王子が主人公です。いっぽう『マクベス』は、それとはまったく裏腹な作品です。前者が王位を「奪われた」主人公の作品であり、後者は王位を「奪った」作品なのです。

 マクベス夫人のせりふを、長々と紹介しました。平坦なものがたりに、くさびを打ちこむような役割を担っているのが、これらのせりふなのです。棋士が妙手をうつときの石音のように、活字のなかから響き渡るせりふには、鬼気迫るものがあります。

◎シェイクスピアをさらに楽しむ

 シェイクスピアの4大悲劇を読んでからおさらいのために、ラム(松本恵子訳)『シェイクスピア物語』(新潮文庫)を開きました。この著作は1877年にイギリスで出版されたものです。著者のラム姉弟が、「少年少女のために、シェイクスピア研究の助けをしたいと希望して」書いたものです。
 
 少し訳文が古めかしいのですが、戯曲をものがたりにしてあるので行間がわかりやすくなっています。この著作は、岩波文庫や岩波ジュニア文庫にもなっています。
 
 さらに『マクベス』(新潮文庫)の翻訳者である福田恆存には、『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)という著作があります。詳細については触れませんが、シェイクスピアについての興味深い話が展開されています。一部だけ紹介しておきます。
 
――作品を詩人がおのれの姿を映す鏡と見なすのが浪漫派流の近代的解釈であるとすれば、「千万の心をもった」偉大なる個性というのも、同様の解釈から発し、それを押しひろげたものにすぎない。シェイクスピアは生きた人間が動きまわる姿を愛し、それを作品に写しとったのである。劇詩人としての才能を除いては、かれは一個の凡庸人だったに相違ない。(福田恆存『人間・この劇的なるもの』新潮文庫P63より)

 また、清水義範『普及版・世界文学全集・第1期』(集英社文庫)のなかに、腹をかかえて笑ってしまうシェイクスピア論が所収されています。
  
 これらの参考図書を読んで、シェイクスピアの偉大さを再認識させられました。わかりにくかった「せりふまわし」が、すとんと腑に落ちたのです。シェイクスピアは、当初あまり評価の高くない作家だったようです。私も関連図書を読むまでは、同じ評価でした。
 
――面白みはあるけれど、主流ではない、未開で野蛮な、無知蒙昧の時代が生み出した、型破りで規則にそぐわない作家、しかしながら、不思議な魅力はあるというような評価を受けていた。けっして、最上級の古典と認められていたわけではないのです。(安西徹雄「古典と教養のルネサンス」:『カフェ古典新訳文庫(1)』光文社古典新訳文庫別冊P99より)

『ハムレット』については、「+α」として。いずれ紹介させていただきます。
(山本藤光:2010.03.20初稿、2018.02.04改稿)