三浦綾子『氷点』(上下巻、角川文庫)

辻口は妻への屈折した憎しみと、「汝の敵を愛せよ」という教えの挑戦とで殺人犯の娘を養女にした。明るく素直な少女に育っていく陽子…。人間にとって原罪とは何かを追求した不朽の名作!(原田洋一)
◎原罪を糖衣がけして
三浦綾子『氷点』は、1963年朝日新聞の懸賞小説当選作です。当時、1000万円の賞金に驚き、しかも受賞者が雑貨屋のおかみさんであることにも驚かされました。芥川賞の賞金は100万円という時代でした。カレーライス120円(現在580円)、コーヒー80円(現在320円)、あんぱん20円(現在100円)、大卒の初任給48000円(現在199600円)という時代です。
そして驚きは、あっという間に賞賛にかわりました。北海道発の小説が中央の文壇を制覇したのは、2度目のことでした。最初は原田康子『挽歌』(新潮文庫)で、釧路の幣舞橋を一躍有名にしました。
木原直彦『北海道文学史・戦後篇』(北海道新聞社)に、受賞作『氷点』が朝日新聞で連載されたころの評価について書かれた文章があります。紹介させていただきます。
――キリスト教を据えて〈原罪意識〉を追求したといわれるこの小説の人気の秘密について、尾崎秀樹は、道徳性・情緒性。救い、という家庭小説の三大条件を今日的な姿で巧みに甘いオブラートに包んだところにあるとしている。江藤淳も「大衆的家庭小説のわくと手法によって展開されている作者の人間観や生活感覚の新鮮さ」とほめた。(木原直彦『北海道文学史・戦後篇』北海道新聞社P180より)
『氷点』は当初、「風」というタイトルで考えられていたようです。新聞(「朝日新聞」2014.6.28)で「創作ノート発見」の記事を読み、本書のなかを吹き荒れる風と雪の場面がよみがえってきました。冒頭の最初の1行はつぎのとおりです。
――風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。
無風状態ですべりだした物語は、行方不明のルリ子捜索場面あたりから一変します。つぎの引用は捜索中に夏枝を回想する新婚旅行からの帰途のシーンです。
――その夜は激しい風が吹きまくっていた。林の樹は口のあるもののようにわめいていた。夜がふけるにつれて、ますます風は吹きつのった。林はごうごうと土の底から何かがわき返るような恐ろしい音を立てていた。/その時夏枝は、この風が、自分の結婚生活を象徴しているような不吉な予感に襲われて、思わず啓造の胸にすがりついたのだった。(本文P35より)
◎氷点とは?
『氷点』の舞台は、旭川市郊外の個人病院です。病院院長の辻口啓造と妻の夏枝のあいだには、2人のこどもがあります。夏枝が応接室で村井眼科医と密会しているとき、3歳のルリ子が誘拐されます。ルリ子は翌朝、美瑛川の河原で扼殺死体で発見されます。犯人の佐石は、留置所で自殺してしまいます。
夏枝は事件のショックから、精神病院に入院します。退院してからは、娘がほしいとひんぱんにいうようになります。夏枝は避妊手術をほどこし、こどもがさずからない身体になっています。そんななか啓造は、妻の夏枝の不倫を察知します。
啓造は友人の産婦人科医・高木が嘱託医をしている乳児院から女児をもらう決意をします。啓造は妻への復讐のために、ルリ子殺しの犯人・佐石の遺児を要求しました。女児には陽子という名前がつけられました。陽子はかしこく、素直なこどもとして、すこやかに成長します。
陽子が小学校にあがった年の暮れ、夏枝は陽子の出生の秘密を知ります。やさしかった夏枝は、てのひらをかえしたように陽子を処遇します。陽子は母の豹変に驚き戸惑います。冷遇され、いじめがどんどんエスカレートしてゆきます。陽子はひたすら耐えます。
兄の徹も陽子の秘密を知ります。徹はずっと陽子をかわいがっていました、秘密を知ったとたん、それが結婚を意識する愛にかわりました。しかし陽子には秘かに思いをよせる人がいました。兄の友人の北原です。夏枝は強引に2人の仲を引きさきます。
この先のエンディングには、ふれないでおきます。かわりに林真理子の一文を、ご紹介させていただきます。
――物語は結末に向かって、ひとつの疑問を読者につきつけるのだ。/「人は本当に許すことが出来るのであろうか」/許すことが出来ぬから憎しみが生まれる。そしてその憎しみがまた別の事件や不幸をつくり出す。人間はそれを繰り返すのだろうかと、作者は問いかけているわけだ。(林真理子『名作読本』文春文庫より)
『氷点』はたしかに、原罪と救済をテーマにしています。しかしそうしたキリスト教的なテーマは、あまり色濃くでていません。氷点ブームまでまきおこした本書は、いまも旭川の原生林とともに、しっかりと人々の心に根づいています。
(山本藤光:2011.11.14初稿、2018.02.22改稿)

辻口は妻への屈折した憎しみと、「汝の敵を愛せよ」という教えの挑戦とで殺人犯の娘を養女にした。明るく素直な少女に育っていく陽子…。人間にとって原罪とは何かを追求した不朽の名作!(原田洋一)
◎原罪を糖衣がけして
三浦綾子『氷点』は、1963年朝日新聞の懸賞小説当選作です。当時、1000万円の賞金に驚き、しかも受賞者が雑貨屋のおかみさんであることにも驚かされました。芥川賞の賞金は100万円という時代でした。カレーライス120円(現在580円)、コーヒー80円(現在320円)、あんぱん20円(現在100円)、大卒の初任給48000円(現在199600円)という時代です。
そして驚きは、あっという間に賞賛にかわりました。北海道発の小説が中央の文壇を制覇したのは、2度目のことでした。最初は原田康子『挽歌』(新潮文庫)で、釧路の幣舞橋を一躍有名にしました。
木原直彦『北海道文学史・戦後篇』(北海道新聞社)に、受賞作『氷点』が朝日新聞で連載されたころの評価について書かれた文章があります。紹介させていただきます。
――キリスト教を据えて〈原罪意識〉を追求したといわれるこの小説の人気の秘密について、尾崎秀樹は、道徳性・情緒性。救い、という家庭小説の三大条件を今日的な姿で巧みに甘いオブラートに包んだところにあるとしている。江藤淳も「大衆的家庭小説のわくと手法によって展開されている作者の人間観や生活感覚の新鮮さ」とほめた。(木原直彦『北海道文学史・戦後篇』北海道新聞社P180より)
『氷点』は当初、「風」というタイトルで考えられていたようです。新聞(「朝日新聞」2014.6.28)で「創作ノート発見」の記事を読み、本書のなかを吹き荒れる風と雪の場面がよみがえってきました。冒頭の最初の1行はつぎのとおりです。
――風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。
無風状態ですべりだした物語は、行方不明のルリ子捜索場面あたりから一変します。つぎの引用は捜索中に夏枝を回想する新婚旅行からの帰途のシーンです。
――その夜は激しい風が吹きまくっていた。林の樹は口のあるもののようにわめいていた。夜がふけるにつれて、ますます風は吹きつのった。林はごうごうと土の底から何かがわき返るような恐ろしい音を立てていた。/その時夏枝は、この風が、自分の結婚生活を象徴しているような不吉な予感に襲われて、思わず啓造の胸にすがりついたのだった。(本文P35より)
◎氷点とは?
『氷点』の舞台は、旭川市郊外の個人病院です。病院院長の辻口啓造と妻の夏枝のあいだには、2人のこどもがあります。夏枝が応接室で村井眼科医と密会しているとき、3歳のルリ子が誘拐されます。ルリ子は翌朝、美瑛川の河原で扼殺死体で発見されます。犯人の佐石は、留置所で自殺してしまいます。
夏枝は事件のショックから、精神病院に入院します。退院してからは、娘がほしいとひんぱんにいうようになります。夏枝は避妊手術をほどこし、こどもがさずからない身体になっています。そんななか啓造は、妻の夏枝の不倫を察知します。
啓造は友人の産婦人科医・高木が嘱託医をしている乳児院から女児をもらう決意をします。啓造は妻への復讐のために、ルリ子殺しの犯人・佐石の遺児を要求しました。女児には陽子という名前がつけられました。陽子はかしこく、素直なこどもとして、すこやかに成長します。
陽子が小学校にあがった年の暮れ、夏枝は陽子の出生の秘密を知ります。やさしかった夏枝は、てのひらをかえしたように陽子を処遇します。陽子は母の豹変に驚き戸惑います。冷遇され、いじめがどんどんエスカレートしてゆきます。陽子はひたすら耐えます。
兄の徹も陽子の秘密を知ります。徹はずっと陽子をかわいがっていました、秘密を知ったとたん、それが結婚を意識する愛にかわりました。しかし陽子には秘かに思いをよせる人がいました。兄の友人の北原です。夏枝は強引に2人の仲を引きさきます。
この先のエンディングには、ふれないでおきます。かわりに林真理子の一文を、ご紹介させていただきます。
――物語は結末に向かって、ひとつの疑問を読者につきつけるのだ。/「人は本当に許すことが出来るのであろうか」/許すことが出来ぬから憎しみが生まれる。そしてその憎しみがまた別の事件や不幸をつくり出す。人間はそれを繰り返すのだろうかと、作者は問いかけているわけだ。(林真理子『名作読本』文春文庫より)
『氷点』はたしかに、原罪と救済をテーマにしています。しかしそうしたキリスト教的なテーマは、あまり色濃くでていません。氷点ブームまでまきおこした本書は、いまも旭川の原生林とともに、しっかりと人々の心に根づいています。
(山本藤光:2011.11.14初稿、2018.02.22改稿)