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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(光文社古典新訳文庫、池田真紀子訳)

2018-02-23 | 書評「カ行」の海外著者
ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(光文社古典新訳文庫、池田真紀子訳)

街道沿いのレストランで働き始めた俺は、ギリシャ人店主の美しい妻コーラにすっかり心を奪われてしまった。やがて、いい仲になった彼女と共謀して店主殺害を計画するが…。緻密な小説構成の中に、非情な運命に搦めとられる男女の心情を描きこんだ名作。(「BOOK」データベースより)

◎人を呪わば穴二つ

ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(光文社古典新訳文庫、池田真紀子訳)が出ました。4度目の再読となりますが、大好きな作品なので飛びつきました。

今から30年前に読んだのは、ハヤカワ文庫(小鷹信光訳、タイトル「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」)です。つぎに読んだのは、集英社文庫(中田耕治訳、タイトルは同じ)です。そのあとに出張の車中で、kindle版(底本は講談社文庫、田中小実昌訳)を読んでいます。

さらに驚くべきことに、光文社古典新訳文庫が新訳で登場した翌月に、新潮文庫からも新訳(旧版は田中西二郎訳、新訳は田口俊樹訳)が発売されたのです。新訳の新潮文庫はまだ読んでいません。これらの前には、飯島正訳(荒地出版社)、蕗沢忠枝訳(旅窓新書)などの邦訳もあったようです。

本書が刊行されたのは1934年です。発売してすぐに、大きな話題となりました。ところが過激なセックスシーンに批判もあり、アメリカの一部の州では発売禁止となったほどです。

「人を呪わば穴二つ」ということわざをご存知でしょうか。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』には、郵便配達夫はでてきませんし、2度ベルを鳴らす場面も登場しません。作者が前記ことわざをイメージして、つけたタイトルなのです。では「人を呪わば穴二つ」とはどんな意味なのでしょうか。辞書で確認してみます。

――人をうらんで、その人を不幸におとし入れようとすれば、自分もまた、不幸な目にあうということ。「人を呪わば身を呪う」ともいう。(新国語研究会編『暮らしに役立つ・ことわざ辞典』より)

これでも意味が分かりにくいと思います。「他人を呪い殺せば、自分も相手の恨みの報いを受けて呪い殺され、相手と自分の分で墓穴が二つ必要になる」ということから発したことわざのようです。

ケインの文章について、ふれられた著作があります。紹介させていただきます。

――ケインの文体は、しばしばヘミングウェイのそれと比較される。彼は贅肉をそぎ落したベイシックな文体を意図的に使用して、この作品を書いた。抽象的な表現はいっさい避け、形容詞はごくわずかしか使わず、たたきつけるような言葉で自分が人々に読ませたいと思ったストーリーを語った。(キーティング『海外ミステリ名作100選』早川書房、P80より)

丸谷才一は著書『深夜の散歩』(ハヤカワ文庫)のなかで、ケインはカミュに影響をあたえたと書いています。

――カミュの『異邦人』にはJ・M・ケイン『郵便配達はベルを二度鳴らす』が大きな影響を与えているというのは、ぼくが長いあいだ心ひそかに誇っていた発見である。たとえば、世界の不条理の象徴としての裁判というとらえ方。全篇が死刑囚の手記である。しかも最後に書き記すという手法。しかし、まず何よりも、極めてヘミングウェイふうの文体。それらはすべて両者に共通しているのだ。(丸谷才一『深夜の散歩』ハヤカワ文庫P242より)

カミュへの影響について丸谷才一は、「自分が文章に書く前に、イギリスの作家レイナー・ヘブンストールに書かれてしまった」と後悔しています。この点については、前記引用者のキーティングも断定形で書いています。

◎どの訳文を選ぶのか

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の主人公は、24歳の「俺」(フランク・チェンバーズ)で、無職の風来坊です。「俺」はニック・パパダキスというギリシャ人が経営するガソリン・スタンド兼レストランへとたどり着きます。「俺」は店主からの依頼で、その店で働くことになります。店主の美しい妻コーラに惹かれたためです。

多情な女コーラはすぐに「俺」フランクと関係をもち、夫を殺害する計画を練ります。1度は邪魔がはいって失敗します。しかし2度目に自動車事故に見せかけて、パパダキス殺害を成功させるのです。彼には死亡保険がかかっていました。

検事サケットは、2人の犯行と疑いをかけます。しかし弁護士カッツの活躍で、無罪を獲得します。ふたたび「俺」とコーラの、甘い生活がはじまります。そんなときに、思わぬことが勃発します。

ここから先についてはふれません。キーティングや丸谷才一がいうように、ヘミングウェイと似たケインの文章を堪能してください。参考までに、主人公がギリシア人夫妻の世話になった翌日の場面を5つの訳で比較してみます。ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、好みの訳文で読むことをお薦めします。

【池田真紀子訳・光文社古典新訳文庫】
翌日、二人きりになった機会に、拳でコーラの脚を叩いた。彼女はバランスを崩して倒れそうになった。
「何のつもりよ?」歯をむき出してうなるピューマみたいだった。そういう彼女は本当にいい。
「調子はどう、コーラ?」
「退屈」
そのときから、また彼女の匂いを感じるようになった。
(P24より)

【中田耕治訳・集英社文庫】
 翌日ほんのちょっと、彼女とふたりきりになったので、つよく拳で腿をなぐりつけてやったが、もう少しでぶったおれるほどだった。
「なんだってそんなまねをするのよ」
 女は豹みたいにうなった。おれはそういうときの彼女が好きだった。
「どうだい、コーラ?」
「いやらしい」
 そのときからまた彼女のからだが匂いたった。
(P16より)

【小鷹信光訳・ハヤカワ文庫】
 翌日、ほんのしばらく、あいつと二人っきりになった。おれは、あいつの足めがけて拳を突き上げた。ひっくりかえるほど、強く。
「すごい手をつかうのね」あいつはクーガーのようなうなり声を洩らした。そんなあいつがおれの好みにぴったりだった。
「ご機嫌は、コーラ?」
「最低よ」
 そのときから、おれはまたあいつの匂いを嗅ぎはじめた。
(P21より)

【田中小実昌訳・kindle】
翌日、ほんのわずかだが、コーラとふたりきりになれた。おれは拳骨で、コーラの脚をぶんなぐった。かなり強くなぐり、コーラはぶったおれそうになった。「どうして、そんなことをするの?」コーラはアメリカライオンみたいに歯をむいた。おれはそんなコーラが好きだ。
「ごきげんいかが、コーラ」
「つまらない」
 それから、また、コーラのからだがにおいだした。
(位置No.171より)

【田口俊樹訳・新潮文庫】
 翌日、いっときコーラとふたりだけになると、おれは彼女の脚に拳を叩き込んだ。下から上に。強く叩きすぎて彼女はもう少しでこけそうになった。
「なんでそんなふうになるの?」彼女は歯を剥き出してうなった。ピューマみたいに。
「気分はどうだい、コーラ?」
「最悪よ」
そのときからおれはまた彼女のにおいを嗅ぎはじめた。
(本文P22より9

 私が池田真紀子訳をとりあげたのは、新しいからという理由です。新潮文庫の新訳も気になりますが、ほかの本も読まなければなりません。ですから新潮文庫については、しばらくたってから読んでみたいと思います。

 ヘミングウェイ、ケイン、そしてカミュ。ぜひ読みくらべてみてください。きっと読書がさらに楽しいものになると思います。
(山本藤光:2015.01.10初校、2018.02.23改稿)

S・R・コヴィー『七つの習慣』(キングベアー出版)

2018-02-21 | 書評「カ行」の海外著者
S・R・コヴィー『七つの習慣』(キングベアー出版)

会社・家庭・人間関係など、私たちの人生のすべての大切な側面を取り上げ、激しい変化の時代にあって充実した、人間らしい生活を営む道を示す。(「MARC」データベースより)

◎まずは「人間力」を磨く

スティーブン・R・コヴィー『七つの習慣』(キングベアー出版)の根底には、「成功するためには、優れた人格をもつこと」という理念があります。私はこの言葉に触発されました。いまやカタカナ語スキルの、資格安売りの時代です。日本にコーチングを導入した友人がある日、こんなことをいっていました。

「雨後のたけのこみたいに、短期間でコーチング資格をもった人群れができてしまった」。友人はバカバカしくなって、渡米して苦労を重ねて得たライセンスに、封印してしまいました。私はコーチングやカウンセリングなどの、カタカナ語スキルを否定はしません。しかし簡単に資格を得た人たちには、それ以前に「人間力」を磨いてもらいたいと思っています。

そんな意味で、山本藤光『仕事と日常を磨く人間力マネジメント』(医薬経済社、初出2015年)という著作を上梓させていただいています。成功するためには、まず自分自身の内面の成長に挑まなければなりません。『七つの習慣』では、成功の秘訣をそうまとめています。

コヴィーは米国建国以来200年に発表された文献を調べています。当初は誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉などといった人格に関する内容が中心でした。それがここ50年で、成功するためのイメージのつくり方、テクニックにフォーカスがあてられるようになったと書いています。(本文P8を参照しました)

私が問題視しているのは、まさにその点にあるのです。コヴィーは、まず「私的成功」を目指さなければならないと説きます。そのためには、次の3つの原則が重要だとしています。

・第Ⅰの習慣:「自己責任の原則」主体性を発揮する
・第2の習慣:「自己リーダーシップの原則」目的をもって始める
・第3の習慣:「自己管理の原則」重要事項を優先する

ここまでは非常にわかりやすい理論です。自分の不運や不幸を、嘆いていても仕方がありません。まずは自分自身を前記3つの原則にしたがい、磨き上げなければならないのです。特に「自己リーダーシップ」が、私の心に刺さりました。

◎信頼を深める

「私的成功」を獲得したなら、第4の習慣へと進みます。第4の習慣は「相互依存」の世界が待っています。

・第4の習慣:「人間関係におけるリーダーシップの原則Win-Winを考える

これは相互信頼または相互依存という形になることです。そして第5の習慣へと移行します。

・第5の習慣:「感情移入のコミュニケーションの原則」理解してから理解される

第5の習慣については、著者自身の説明を引用させていただきます。
――信頼感が深まっているとき、コミュニケーションの苦労はなくなり、自分の意志が瞬間的に相手に伝わるようになります。多少言葉を間違うことがあったとしても、相手は言いたいことを理解してくれるでしょう。しかし、信頼がくずれているとき、コミュニケーションは我々の時間とエネルギーを浪費させ、意思疎通が極めて困難なものになります。(本書「著者からの挨拶」より)

◎継続して自分自身を磨く

ここまでは個人を磨き、他人との良好な関係を構築する世界でした。第6の習慣は、組織としての成功に言及しています。私たちはさまざまな組織の一員です。舞台は会社や地域社会や家庭など、まったく次元の異なるものになります。

・第6の習慣:「創造的な協力の原則」相乗効果を発揮する

第6の習慣は、お互いまたはみんなが満足するゴールをめざすことです。そして第7の習慣では、継続的に自分自身を磨き続けることの大切さが説明されています。

・第7の習慣:「バランスのとれた自己再新再生の原則」刀を研ぐ

『第7の習慣』は分厚い本ですが、少しずつラインマーカーをひきつつ読んでいただきたいと思います。2度目はラインマーカーの部分だけ読み返すと、より理解が深まることでしょう。
(山本藤光:2013.03.10初稿、2018.02.21改稿)

アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』(創元推理文庫、深町真理子・訳)

2018-02-18 | 書評「カ行」の海外著者
アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』(創元推理文庫、深町真理子・訳)

名探偵エルキュール・ポワロの許に、ABCと名乗る奇妙な犯人から殺人を予告する挑戦状が届けられる。やがてその予告どおり、頭文字にAのつく人物がAのつく場所で、つづいてBのつく人物がBのつく場所で殺害される。いずれの場合にも、被害者の傍らには「ABC鉄道案内」が置いてあった!はたして犯人の目的は何なのか?そして、その正体は!?クリスティ中期の代表作。(「BOOK」データベースより)

◎ポワロ以外の2人の探偵

アガサ・クリスティは、「ミステリーの女王」と呼ばれています。85歳で世を去るまでに、戯曲などを除き88のミステリー作品を上梓しました。88作品は「海外ミステリー事典」(新潮選書)の数字に準じています。「Wikipedia」では、長編66、中短編156作品と掲載されています。真偽のほどはわかりません。

彼女がミステリーの女王と呼ばれるようになったのは、名探偵エルキュール・ポワロを登場させてからです。エルキュール・ポワロは、処女作『スタイルズ荘の怪事件』(クリスティ文庫)で初お目見えします。その後、アガサ・クリスティを不動の地位にしたのが、ポワロが大活躍する次の作品です。

『ゴルフ場殺人事件』(クリスティ文庫など)
『アクロイド殺し』(クリスティ文庫など)
『オリエント急行の殺人』(クリスティ文庫など)
『ABC殺人事件』(クリスティ文庫など)

アガサ・クリスティの作品には、ポワロ以外の探偵も登場します。『秘密機関』(クリスティ文庫)にはトミー&タペンス、『牧師館の殺人』(クリスティ文庫)と『バートラム・ホテルにて』(クリスティ文庫)にはミス・マーブルが登場します。
 
今回「山本藤光の文庫で読む500+α」掲載を、どの作品にしようかと迷いました。迷ったすえにアガサ・クリスティは、『ABC殺人事件』から入るのがいちばん馴染みやすいと決心しました。読者は名探偵になった気分で、読むことができます。それがリストアップの理由でした。

◎『ABC殺人事件』から読もう

ある日エルキュール・ポワロのところに、1通の手紙が届きます。殺人予告でした。差出人は「ABC」となっています。犯人からの、明らかな挑戦状です。ポアロはかたずをのんで、殺人予告日をむかえます。

第1の殺人事件が起こります。死体の傍らに、時刻表が開かれたままおいてありました。時刻表は通称「ABC」と呼ばれています。被害者の名前も殺人の場所も、アルファベッド「A」ではじまっていました。

ここまで読むと、読者は「つぎはBだな」と思います。著者アガサ・クリスティも、そんな期待は裏切りません。予告殺人は「C」までつづきます。ポワロの推理が読者の推理から、少しずつ乖離(かいり)するようになります。このあたりの手腕が、アガサ・クリスティの真骨頂なのです。

ミステリー界で最も権威のある、「MWA巨匠賞」を1955年に獲得した作家。そのことを実感させられるのが、『ABC殺人事件』でしょう。この作品は、日本の作家にも多大な影響を与えています。顕著なのは、叙述スタイルです。作品の随所に、ポワロの相方であるヘイスティング大尉が1人称で登場します。

「私は」や「彼は」などと、終始1人称、2人称で語り続けられる作品が多いなかで、この作品は異彩を放っています。この手法を用いることで、より語り手の内面がわかりやすくなります。

タイトルだけを考えると、『ABC殺人事件』は、日本でいえば「あいうえお殺人事件」ということになるでしょう。青山霊園で安達氏が殺される。井の頭公園で伊藤さんが殺害される。上野公園では内野氏、江ノ島では榎本さん……。さてあなたは、ここからいかなるストーリーを考え出せるでしょうか。

そんな気持ちで、『ABC殺人事件』を堪能していただきたいと思います。日本人作家の何人かが、ABCのタイトルにヒントを得て、作品を発表しています。阿部和重『ABC戦争』(講談社文庫)は、なかでも秀でています。

アガサ・クリスティは、読者に肩透かしを食らわせる天才です。それは彼女の大胆な仕掛け(トリック)によるものです。彼女の業績を称えるために、1989年に「アガサ賞」が設立されています。2004年には、桐野夏生『アウト』(講談社文庫)が候補になっています。

「アガサ賞」の選定条件は、つぎのとおりです。「過剰なセックスや暴力描写がなく、主人公はアマチュア探偵。限定された地域で登場人物は、お互いが知り合いという状況で起きた事件を扱う」(「海外ミステリー事典」新潮選書より)

アガサ・クリスティの翻訳を最初に手がけたのは、詩人の田村隆一でした。彼はアガサ・クリスティの魅力をつぎのように述べています。
――彼女は探偵小説を書きはじめる以前に詩から出発しているが、詩をよく知っている点がひとつ。というのは、探偵小説も詩もロジックが似ているんですね。意外性と飛躍性、それからある部分がところを得れば、全体がわかるというところが、ジクソーパズルと同じなんです。断片が有機的につながっていくと、全体の地模様が浮かび出てくる。/次にやはりアングロサクソンの発明であるユーモアという〈視点を変える〉センスとウィットという知的活力を備えている点。(「解体全書」リクルートより)

ハヤカワ書房にはアガサ・クリスティの公式ホームページがあります。興味のある方はのぞいてみることをお薦めします。
(山本藤光:2009.07.15初稿、2018.02.18改稿)


洪自誠(コウ・ジセイ)『菜根譚』(岩波文庫、 今井宇三郎訳)

2018-02-07 | 書評「カ行」の海外著者
洪自誠(コウ・ジセイ)『菜根譚』(岩波文庫、 今井宇三郎訳)

「人よく菜根を咬みえば、則ち百事なすべし」。菜根は堅くて筋が多い、これをかみしめてこそ、ものの真の味わいがわかる。中国明代の末期に儒・仏・道の三教を兼修した洪自誠が、自身の人生体験を基に、深くかみしめて味わうべき人生の哲理を簡潔な語録の形に著わした。的確な読み下し、平易な訳文。更に多年研究の成果は注と解説にも充分に盛りこまれている。(「BOOK」データベースより)

◎大好きな2訓

『菜根譚』(さいこんたん。岩波文庫、今井宇三郎訳)は、中国の洪自誠(こう・じせい)の著作とされています。私は新任リーダー研修のときに、薦められて初めて読みました。本稿執筆にあたり、「知・教養・古典ジャンル125+α」として推薦しようと再読を試みました。岩波文庫『菜根譚』には、前集222訓、後集135訓が所収されています。

たくさんの赤線が、引いてありました。そのなかで、特に次の2訓にはラインマーカーがぬってありました。拾ってみたいと思います。

(引用はじめ)
前集一三九
――徳者才之主、才者徳之奴。有才無徳、如家無主而奴用事矣。幾何不魍魎而猖狂。
――徳は才の主にして、才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、家に主なくして奴の事を用うるが如し。幾何(いくばく)か魍魎(もうりょう)にして猖狂(しょうきょう)せざらん。
(引用おわり。岩波文庫P155-156)

孫のために買い求めた斎藤孝『こども菜根譚』(日本図書センター)にこの訓が取り上げられていました。

――才能を伸ばすよりも、まずは人格を育てよう。人格は才能のご主人さま。

2つめの大好きな訓です。

(引用はじめ)
後集七五
――胸中既無版點物欲、己如雪消櫨焔。氷消日。眼前自有、一段空明、時見月在青天、影在滅。
――胸中既に半点の物欲なければ、己に雪の炉焔に消え、氷の日に消ゆるが如し。眼前自から一段の空明あれば、時に月、青天に在り、影、波に在るを見る。
(引用おわり。岩波文庫P304)

岩波文庫の場合、このあとに解説がつけられています。しかし少し難しすぎるので、もっと読みやすい訳書はないかと探してみました。

◎「ありがとう」という

最初に手にしたのは、境野勝悟『超訳・菜根譚』(知的生きかた文庫)でした。ところが本書に付された章番号が、原書の番号とちがっていました。こうした簡便な訳本は、原書と照合しながら深堀をしなければなりません。

本書には「後集七五」は、採択されていました。「前集一三九」は落とされています。「後集七五」を紹介したいと思います。

(引用はじめ)
41「ありがとう」というと苦悩が消える
――胸中既に半点の物欲無ければ、己に雪の露焔に消ゆ。
――「あなたの生命は、あと、半年だ」こう宣言されたら、ほとんどの人が、「どうしよう」とか、「死ぬのは、こわい」と、迷い、悩む。(中略)少しでも、長生きしたい、という欲は捨てて、この世に生まれたことを、「ありがとう」と感謝する。
(引用おわり。境野勝悟P102-103)

◎人間性は、ちょっと

次に選んだのは、渡辺精一『1分でわかる菜根譚』(知的生きかた文庫)でした。こちらも原書の番号とは異なる章番号になっています。「後集七五」はありませんでしたが、「前集一三九」は採択されていました。紹介させていただきます。

(引用はじめ)
13「才能をひけらかさない」
――人間にそなわった徳が、その人間の才能をあやつる囚人である。才能自体は、その人間に使われる奴隷である。
――人とつき合ってみると、円満さ、謙虚さの欠けた人間であることに愕然とし、「あの人間性は、ちょっといただけないな」などと思い、あこがれるのをやめることもある。(中略)才能のほうが主体となって、その人物の徳を台無しにし、その人物をあやつるようではいけない。
(引用おわり。渡辺精一P46-47)

◎角川ソフィア文庫はお勧めですが

3番目は、『ビギナーズ・クラッシックス・中国の古典「菜根譚」』(角川ソフィア文庫、湯浅邦弘)でした。こちらは訳文、原文、コメントの構成になっており、原書の番号も見出しにつけられたいます。推薦書として最善かなと思いました。ところが私の好きな、2訓ともに所収されていなかったのです。

本書の選者の湯浅邦弘は学者畑の人であり、企業経験がないため、あまり大切に考えていないのでしょう。湯浅邦弘『菜根譚・中国の処世訓』(中公新書)でも、2訓には触れていません。

そんなわけで、推薦書は手垢にまみれた岩波文庫とさせていただきました。ちょっと難易度は高いのですが、これは私の好みでの選択となります。初めてのかたは、上記3冊のどれかから入る方がいいかもしれません。

◎現代にふさわしい書

湯浅邦弘はソフィア文庫の「はじめに」で『菜根譚』を、次のように紹介しています。

――『論語』が道徳の名言集、『孫子』が謀略の知恵袋だとすれば、『菜根譚』は処世訓の最高傑作と言えましょう。(本書「はじめに」)

野球好きの方なら、野村克也が『菜根譚』を座右の書としていることは、ご存知だと思います。現に野村克也は『野村克也の菜根譚』(宝島社)という著作を出しています。また松下幸之助にも『松下幸之助の菜根譚』(あさ出版)という著書があります。田中角栄、吉川英治、川上哲治ら各界のリーダーたちも、座右の書として『菜根譚』をあげています。

『菜根譚』の生命は、最初(前集1)のページにあります。

――道徳を住かとして守り抜く者は、一時的には、不遇で悲しい境地となる。権勢におもねって生きている者は、一時的には栄えても、結局は、痛ましく寂しい境遇となる。(ソフィア文庫P19湯浅邦弘訳「遇と不遇」より)

NHKテレビに『100分de名著』という番組があります。『菜根譚』はそこで取り上げられています。本書刊行の背景が紹介されていました。

――「菜根譚」が書かれた時代は、儒教道徳が形骸化し、国の道筋を示すべき政治家や官僚たちが腐敗。誰もが派閥争いにあけくれ、優れた人材が追い落とされ、ずるがしこい人物だけがとりたてられていました。「菜根譚」は、そんな生きづらい世相の中、何をよすがに生きていいかわからない人に向けて書かれました。それは既存の価値観がゆらぐ中で、とまどいながら生きている現代の日本人にも通じます。(『NHK100分de名著』「プロデューサーAのおもわく」より)

まさに『菜根譚』は、現代にこそふさわしい書だと思います。ときには「深入りするな」「遠巻きにせよ」などという弱弱しい教えに、「なんじゃこれ」と反発も覚えることでしょう。こんな文章が鼻につくと思います。

――(前集ニ)世間を渡っていくときに、その関わりが適度に浅ければ、悪臭に染まることも浅く、逆に、世事に深く立ち入れば、機械(権謀術数)の心もまた深くなっていく。だから君子は、世事に熟達しているよりは、むしろ素朴でぼんやりしているくらいがよく、あまりに慎み深くあるよりは、むしろ常識外れで世事にうといというくらいがよいのである。(本文P19-20湯浅邦弘訳「世間を渡る心得」より)

◎スキル、ハウツー以前に人間力

私は『仕事と日常を磨く人間力マネジメント』(医薬経済社)という著作を書いています。スキルやハウツーを学ぶのはよいことですが、それ以前に「人間力」を磨かなければならないという趣旨です。まさに大好きな「前集一三九」の教えそのものをテーマとしています。
(山本藤光:2012.09.14初稿、2015.12.15改稿)

カポーティ『遠い声遠い部屋』(新潮文庫、河野一郎訳)

2018-02-07 | 書評「カ行」の海外著者
カポーティ『遠い声遠い部屋』(新潮文庫、河野一郎訳)

父親を探してアメリカ南部の小さな町を訪れたジョエルを主人公に、近づきつつある大人の世界を予感して怯えるひとりの少年の、屈折した心理と移ろいやすい感情を見事に捉えた半自伝的な処女長編。戦後アメリカ文学界に彗星のごとく登場したカポーティにより、新鮮な言語感覚と幻想に満ちた文体で構成されたこの小説は、発表当時から大きな波紋を呼び起した記念碑的作品である。(「BOOK」データベースより)

◎生きることと書くことは一体のもの

 大学時代に友人から薦められて読んだ『冷血』(新潮文庫)の衝撃は、いまだに忘れられません。それまで「ノンフィクション・ノヴェル」というジャンルは知りませんでした。その著者・トルーマン・カポティは処女作「ミリアム」(『夜の樹』新潮文庫所収)で、「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」と呼ばれました。

 米国南部のニューオーリンズに生まれたカポーティは、両親の離婚で親戚の家を転々としています。父親探しのテーマは、そうした体験と無関係ではないといわれています。『冷血』で絶大なる評価を得たカポーティは、名士として華やかな生活をおくるようになります。しかし薬物(コカイン)とアルコール中毒となってゆきます。
 
 カポーティ『冷血』は、日本の作家に大きな影響を与えています。カポーティの小説作風は、『遠い声遠い部屋』(新潮文庫、河野一郎訳)で確立されました。「現実と幻想を交錯する地点を華麗な想像力によって描いた、高度に洗練された技巧は高く評価され」ました。(「新潮社世界文学小辞典」より)
 
 村上春樹は、「クリスマスの思い出」を翻訳しています。沢木耕太郎、山田詠美なども、作品に影響を受けています。三島由紀夫もカポーティと会っています。三島は「あいつは自殺する」と予言したようです。まさにその予言は的中しました。自殺といってもよい、壮絶な晩年だったのですから。
 
 晩年のカポーティは、『ティファニーで朝食を』(新潮文庫)に代表されるように、新たな作風になってゆきます。この作品は、オードリー・ヘップパーン主演の映画にもなっています。

「生きることと書くことは一体のもの」と、いいつづけたカポーティ。私はあえてカポーティの人生を予見させる『遠い声遠い部屋』を推薦作品として選びました。

◎廃墟の村へ父を探しに

『遠い声遠い部屋』は南部の廃墟の村へ父親を探しにゆく、少年の成長を描いた意識下の物語です。当時の米国文壇は、ヘミングウェイに代表される写実主義が主流でした。そこに繊細でみずみずしい感性の、風穴を開けたのがカポーティだったのです。
 
 主人公・ジョエル少年13歳は、早くに母親を亡くして叔母の家に住んでいます。1通の手紙が届きます。青い封筒の差出地は、ランディングとなっていました。ジョエルはニューオーリンズから、父を訪ねる旅に出ます。おじいさんのものだという、古いトランクを引っさげて。
 
 ジョエルが最初に着いたのは、米国南部の田舎でした。そこから先へは行けないといわれます。唯一の手段は、ヌーン・シティに物資と郵便物を届けるトラックに便乗することでした。ジョエルが父と暮らすために、ランディングというところに行きたいと告げます。運転手は不自然な反応をしました。
 
 運転手の好意でトラックに乗せてもらったジョエルは、ヌーン・シティで降ろされます。目的地ランディングまでは、まだ2、3マイルは離れています。今度は御者・ジーザス・フィヴァーの馬車に乗せてもらうことになります。

◎メモを取りながら読み進める
 
 ここから先は、メモを取りながら読んでもらいたいと思います。現実と幻想が交錯しますが、メモは「現実」だけを追いかけてもらわなければなりません。さもなければ、登場人物の出入りがひんぱんで、流れが掌握できないのです。

『遠い声遠い部屋』の魅力は、カポーティがつむぎだす言葉の魔術にあります。ストーリーは、あまり重要ではありません。それゆえ登場人物に惑わされて、先に進めなくなるのはつまらないことです。

 私のメモを紹介します。私は書店からもらったブックカバーを、裏返しにして使用しています。ブックカバーの裏はいずれも無地なので、メモはそこに書き留めます。重複を避けるために、目的地・ランディングに到着したところから紹介します。
 
ミス・エイミ:出迎えてくれた女性。父親の再婚相手。45歳から50歳。
ランドルフ:ジョエルのいとこ。34、5歳。画家志望。ジョエルモデルになる。不可解な写真(P165)
ミスター・サムソン:父。ジョエル本を読んであげる。
ズー(ミズーリ・フィーヴァー):屋敷のお手伝い。14歳。御者・ジーザス・フィーヴァーの孫か子。同居している。

 これでランディング邸の人物整理は終了です。このあたりを理解しておけば、カポーティが織りなす言葉の玉手箱を開けても、十分に堪能できるはずです。私は図を描きながら、読んだりもします。ランディング邸の大きな四角のなかに、上記の人物を囲ってしまいます。そして作品を読み進めながら、そのなかに小さな四角を描きます。そこにズーと御者のジーザス・フィーヴァーをいれてしまうのです。これで住まいの位置関係がわかります。
 
◎うならせられた情景描写

 カポーティの情景描写は、実に巧みです。私はブックカバーの裏メモに、単語とページだけを記入して読み進めます。あとからじっくりと、鑑賞し直すためです。
 
――艶消しガラスの明り取り窓が、雨の日に部屋をひたす真珠のような光で、細長い二階の廊下を明るくしている。壁紙もかってはおそらく真っ赤な色だったらしいが、今では濃紅色にぶくぶくふくれ上がり、地図のような汚点(しみ)に飾られている。(本文より、山本藤光のメモ「二階の窓・壁」P61)

――金色に塗られた藤色ビロードの二人がけの椅子や、大理石の暖炉の横におかれたナポレオン時代風のソファ、あるいは陶器の人形や象牙の扇子、骨董品などで光っている飾り棚も見える。飾り棚は全部で三つあるが、他の二つははっきりと見えない。彼のちょうどまん前におかれたテーブルの上には、日本の五重塔と、凝った装飾を施した羊飼いのランプがのっていて、ランプのゼラニウム色のほやからは、シャンデリア風のプリズムが宝石になった氷柱のように下がっている。(「ランディング邸の客間」P81)

『遠い声遠い部屋』は、私に新たな読書の楽しみを与えてくれました。『冷血』では、カポーティの息もつかせぬ文章に引きずられました。『遠い声遠い部屋』では、現実と非現実のはざまを彷徨わせてもらいました。カポーティについては、この2冊をはずさずに読んでいただきたいと思います。

 小説界ではカポーティに肩を並べる、日本人作家はいません。村上春樹がちょっと近いかもしれません。ノンフィクション・ノベルでは、佐木隆三『復讐するは我にあり』(上下巻、講談社文庫、直木賞、山本藤光の推薦作)をあげたいと思います。
(山本藤光:2009.09.16初稿、2018.02.07改稿)

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(新潮文庫、矢川澄子訳)

2018-02-06 | 書評「カ行」の海外著者
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(新潮文庫、矢川澄子訳)

ある昼下がりのこと、チョッキを着た白ウサギを追いかけて大きな穴にとびこむとそこには…。アリスがたどる奇妙で不思議な冒険の物語は、作者キャロルが幼い三姉妹と出かけたピクニックで、次女のアリス・リデルにせがまれて即興的に作ったお話でした。1865年にイギリスで刊行されて以来、世界中で親しまれている傑作ファンタジーを金子国義のカラー挿画でお届けするオリジナル版。(「BOOK」データベースより)

◎「となりのトトロ」のオープニング

 宮崎駿監督の「となりのトトロ」をみていて、既視感をおぼえました。サツキとメイという幼い姉妹が不思議な動物と遭遇します。妹のメイが小さな動物を追って、深い穴のなかに迷いこみます。そこに巨大なトトロがいました。それ以来、数々の不思議な体験を重ねます。

 この場面をみて、私はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(新潮文庫)を連想したのです。2人の姉妹が土手で本を読んでいます。退屈になったアリスがふとみると、目の前を一ぴきの白いウサギが通ります。ウサギはチョッキを着ており、「たいへんだ、たいへんだ、遅刻しそうだ!」とつぶやき、チョッキのポケットから懐中時計をとりだします。アリスは白ウサギを追って、竪穴から落下します。それからアリスの不思議な冒険がはじまります。

 2人の姉妹。妹が動物を追いかける。穴の中に落下する……。私はかなりの確信をもって、「となりのトトロ」は『不思議の国のアリス』をイメージしていると思いました。関連本を何冊もあたってみましたが、いまのところそう言及しているものがみつかっていません。それどころか「となりのトトロ」は宮崎駿のオリジナル・ストーリーである。参考としたのは、筒井順子・作、林明子・画『あさえとちいさないもうと』(福音館)である、といった資料しかみあたりませんでした。

 宮崎駿『本へのとびら・岩波少年文庫を語る』(岩波新書)を読んでみました。『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、ジョン・エニエル絵、田中俊夫訳、岩波少年文庫)がとりあげられていました。本文を読んで、やっぱりと納得しました。
――ぼくはずいぶん熱心にこの本のとりこになりました。英語が判らないので、訳者がいろいろ苦労してくれてもピンとこない所が多い本ですが、とても魅力があると思います。(本文P12より)

◎安部公房、ジョイス、ナボコフらに影響
 
著者のルイス・キャロル(ペンネーム)は、オクスフォード大学の数学講師でした。そこの学寮長だったリデルという人の3人姉妹に、即興で語ってあげたのが『不思議の国のアリス』の原形でした。彼は愛する次女アリス(当時10歳)を主人公として、即興の話をファンタジー小説として仕上げました。

――作者が数学者であるのも、面白いところです。確かに、穴に落ちたアリスが、自分が正常であるかどうかを確かめるために掛け算をやってみるシーンなど、数学者らしさは随所に窺えます。しかし一方で、つじつまの合わないエピソードの数々は、数学者らしからぬ曖昧さを含んでいます。この曖昧さが、何度もくりかえし読みたくなる魅力の源になっているのかもしれません。(小川洋子『みんなの図書室』PHP文庫)

 小川洋子のいう「数学者らしからぬあいまいさ」は、どこからうまれているのでしょうか。いくつかの文献では、ルイス・キャロルの少女愛癖からのものだと指摘しています。「ロリコン」の語源である『ロリータ』(新潮文庫)という小説を書いたナボコフは、『不思議の国のアリス』のロシア語訳をしたほど、本書に入れこんでいます。

 私の書棚にあるだけでも、ほかに『不思議の国のアリス』の影響を受けた作品はいくつかあります。
1.スティヴン・ミルハウザー「アリスは、落ちながら」(白水Uブックス『バーナム博物館』所収)
2.ニコラス・ブレイク『ワンダーランドの悪意』(論創海外ミステリ)
3.ジェームズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(全3巻、河出文庫)
4.安部公房『壁』(新潮文庫)
5.有栖川有栖(『不思議の国のアリス』をペンネームにしました)
6.宮崎駿(前記のとおりです)
7.阿刀田高(集英社文庫編集部『私を変えたこの一冊』集英社文庫で『不思議の国のアリス』をあげています)

 安部公房については『安部公房全集』(全30巻、新潮社)を検索しました。残念ながら本人が直接、『不思議の国のアリス』に触れている文章は発見できませんでした。したがってつぎの文章を引いておきます。

――1951年(昭和26年)、『近代文学』2月号において、安部公房の短編「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が発表された。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて生まれた作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が含まれている超現実主義的作風の作品である。(wikipediaより)

 最後に阿刀田高の賛辞で結びたいと思います。
――童話の歴史として見るならば、それまでとかく教訓過多の童話が多かった中に、突然耳だこ型のお説教など少しもない、子どものイマジネーションそのまままの童話が誕生したことに画期的な意味があったのだろうが、この作品は同時に時代を越えて、いつの時代にも通用するファンタジー文学の大原則をきっちりと踏んでいたのである。ファンタジーとリアリティ、実作者にとってこれほどむつかしいテーマはほかにない。(集英社文庫編集部『私を変えたこの一冊』集英社文庫より)
(山本藤光:2014.08.16初稿、2018.02.06改稿)

フランツ・カフカ『変身』(光文社古典新訳文庫・丘沢静也訳)

2018-02-03 | 書評「カ行」の海外著者
フランツ・カフカ『変身』(光文社古典新訳文庫・丘沢静也訳)

家族の物語を虫の視点で描いた「変身」。もっともカフカ的な「掟の前で」。カフカがひと晩で書きあげ、カフカがカフカになった「判決」。そしてサルが「アカデミーで報告する」。カフカの傑作4編を、もっとも新しい〈史的批判版〉にもとづいた翻訳で贈る。(「BOOK」データベースより)

◎カフカができるまで

 カフカの両親は多忙な家業のために、ほとんど育児ができませんでした。元来内向的だったカフカは、さらに孤独感を深めるようになります。こうした境遇がカフカ作品に影響をあたえている、との指摘はたくさんあります。
 
 カフカは24歳のときに社会人となり、習作をはじめました。カフカ作品の転機は、29歳のときに出会ったフェリーツェとの文通からでした。カフカは彼女に出会い、文通を申しこみ、そのまま「判決」を書き上げました。文通期間は明示されていませんが、約500通を送ったようです。文体が一新したのは、それからだったとのことです。(『解体全書Part2』リクルート、を参照しました)
 
 カフカは夭折しています。生前に刊行された作品はあまりありません。カフカを有名にしたのは、カミュやサルトルでした。彼らはカフカの作品に言及し、実存主義を説明したのです。
 
 日本でのカフカ研究の第一人者・池内紀(ドイツ文学者)は、つぎのように述べています。

(引用はじめ)
インタビュア:「カフカというと、暗いイメージがあって、しかも難解な印象をもたれています」
池内:「実存主義とか不条理思想とか、難しい言葉とからめて紹介されたせいなんですね。最初から色メガネを通して見られた、割をくった作家だと僕は思っているんです。カフカ本人はそんな言葉なんか少しも知らなかったんですから」
(引用おわり、『解体全書Part2』リクルートより)

◎『変身』から読みとれること
 
あまりにも有名な作品なので、『変身』に関する詳細な解説はいらないと思います。本稿を書くにあたり、カフカについての論文や書評をあたってみました。愕然としました。関連した本をすべて閲覧したら、図書館のテーブルから天井まで届きそうなほどでした。
 
 学術的な、あるいは重箱の隅をつつくような、解説は私にはなじみません。なじまないというよりも、私の能力では対応できません。それゆえ、読んでもらえるようなポイントだけを紹介させていただきます。
 
 残念ながら『変身』だけを読んでも、共感したりやる気が起きたりすることはありません。疑問だらけで、未消化のままため息をつくだけのことだろうと思います。
 
 ある朝主人公のグレゴール・ザムザは、突然自分自身が一ぴきの虫に変化していることを知ります。カフカは、横着な性格なのでしょうか。その理由については、まったく触れていません。読者は「そんなのありか」と思いながら、読み進むことになります。
 
 虫に変化したグレゴールも、ノー天気なものです。虫になっちゃったよ、くらいにしか思っていません。階下には、朝食を整えた両親と妹がいます。出勤時間が迫っていました。グレゴールは部屋から出られません。
 
 いかにしてドアのノブを開けるのか。虫になった自分を、両親にどう受け入れてもらうのか。グレゴールは暗澹たる現実に、なすすべもなく立ちどまりつづけます。やがて家族は、醜い虫の正体がザムザであることを知ります。
 
 これ以上、物語の展開には触れません。あなたがグレゴールであり、ある朝虫に変身していたら、どう考えていかなる行動をおこすのか。ぜひ考えてみてもらいたいと思います。
 
 売れもしない文学にうつつをぬかしていた著者は、家族から見ると虫ケラ同然だったのでしょう。グレゴールが虫になり一家を支えられなくなった場面が、そのことを象徴しています。そんなことを書いている評論家もいました。
 
 実存主義者であるサルトルやカミュは、この作品のどこに実存の色を発見したのでしょうか。そんな深読みはいらないと思います。変身譚の国産作品を、カフカと重ねてみる必要もありません。こんな小説なら自分でも書ける、と自信がついたという読後感もありだと思います。
 
 カフカの作品は、ぜひもう1冊読んでいただきたいものです。私は『世界文学セレクション・カフカ』(中央公論社)でいくつかを読んでいます。そしてカフカ作品は、人間の内面をなにかに代替させていることに気がつきました。
 
◎「変身」をいかに読むべきか

 研究者とはまったく異なる視点で、カフカをとらえている作家がいます。これらの文章を読んでから、カフカ作品はまったくちがうものに「変身」してしまいました。
 
――カフカの世界は子供の世界に似ている。その共通点は、やはり分析的傾向の優位ということである。カフカの研究者たちが説くカフカの思想がつねに極めて平凡であり保守的であるのは、大人が子供の世界をただ未熟な舌足らずなものとしか捉ええないのと似ている。しかし、子供の世界をその内部から子供の眼でもって捉えるとき、そこには驚くべき発見がある。(1953年、安部公房「私のカフカ」より。「カフカ全集Ⅲ」しおりに掲載、新潮社)

――「何をバカなことを言うとる。人間が虫になんかなるもんか」「こんなバカなこと、よう書くなぁ」と思われるかもしれませんが、これを読んでて、私などがすごいなと思うのは、これは今、たくさんいる引きこもりの人、それから、家庭内暴力する人と、ほとんど同じだということです。(河合隼雄『こころの読書教室』新潮文庫P44)

――カフカの文体に注目しよう。話の悪夢的内容と鮮やかな対照をなしている文体の明確さ、その正確で格調正しい抑揚、いかなる詩的比喩も彼の赤裸な黒白判然たる物語を飾りたててはいない。彼の文体の透明さが、その幻想の暗い豊かさを際立たせている。対照と統一、文体と内容、様式と筋立てとが、この上なく完全見事に統合されているのである。(ナボコフ『ナボコフの文学講義・下巻』河出文庫P202)

 カフカの作品は、懐が深いと思います。それゆえ、さまざまな読み方や解釈がなされています。それを拾い読みするだけでも、すこぶる楽しい読書となります。黒井千次は著書『石の落葉』(筑摩書房)のなかで、グレゴールの「長男の目」に言及しています。虫になったときに、両親や妹に向けた思いに注目しているのです。

 小川洋子の読み方(『心と響き合う読書案内』PHP新書)は、私と一致していました。虫になったグレゴールはずっと「仕事」のことを気にしています。あなたはこの小説から、なにを読みとりますか?
(山本藤光:2013.03.06初稿、2018.02.03改稿)