小池真理子『恋』(ハヤカワ文庫)

〔直木賞受賞作〕連合赤軍が浅間山荘事件を起こし、日本国中を震撼させた一九七二年冬。当時学生だった矢野布美子は、大学助教授の片瀬信太郎と妻の雛子の優雅で奔放な魅力に心奪われ、かれら二人との倒錯した恋にのめりこんでいた。だが幸福な三角関係も崩壊する時が訪れ、嫉妬と激情の果てに恐るべき事件が!?(文庫内容紹介より)
◎サスペンスから恋愛小説へ
1990年、小池真理子は夫の藤田宜永とともに、軽井沢へ転居します。小池真理子は、ずっと退屈なミステリー小説を書いていました。そのあたりのことを福田和也はつぎのように表現しています。
――言葉の最良の意味での「通俗作家」である。軽井沢、避暑地の生活、旧華族の子弟、全共闘運動の挫折といったショート・ケーキのような紋切り型を組み合わせながら、コクのある物語を作る力量をもっている。ハーレクイン的道具立てにたじろがない消化力のある読者ならば、相応に楽しむことができよう。(福田和也『作家の値打ち』飛鳥新社P53より)
軽井沢で小池真理子は、いきなり恋愛小説を書きはじめます。苦労して完成させた作品が『恋』(ハヤカワ文庫)でした。それまでの作品に辟易していた私は、『恋』のあとに発表された『欲望』(新潮文庫)の方を先に読んでいます。当時はPHP研究所メルマガ「ブックチェイス」に書評を連載していました。そんな関係で、『欲望』が謹呈本として届いたからです。
『欲望』の帯には、「ミステリー」や「サスペンス」という単語はありませんでした。噂では小池真理子の転身を知っていました。どんなふうに変わったのか、興味深く読みました。
――彼は抱かなかった。抱けなかった。エクスタシーなどあり得ないはずだった……。新潮書き下ろしエンターティンメント。直木賞以来2年目の沈黙を破る『究極の恋の物語』(初版本帯コピーより)
『欲望』を読んでみて驚きました。ハーレクイン臭が、完全消失していたのです。『欲望』についての言及は、最後にさせていただきます。これがあの小池真理子なのか、と半信半疑になりながら『恋』を買い求めました。『欲望』をはるかに上回る傑作でした。この時点で、新たな小池真理子を認知しました。
恋愛って、一種のサスペンスだと思います。『恋』は、そんなことを実感させてくれました。語り口の巧みさでは定評のあった小池真理子が、一皮むけました。私は『恋』をわくわくしながら読みました。坂東齢人(馳星周の書評家時代の筆名)『バンドーに訊け』(本の雑誌社)で、彼は「サスペンスとしては物足りない」と書いています。そのとおりです。本書は以前の小池真理子の幻影に、しばられないで読んでもらいたいと思います。
◎妻の浮気を公認している
女ともだちから電話がありました。
「あなたの読書感想文がバレンタインのチョコレートと一緒に配られているよ」
ある店の企画のひとつだったようです。私の書評が使用されているのは、知りませんでした。でも抗議はしませんでした。いいじゃない、ありがたいことだと思いました。以下そのときの文章に加筆修正しています。
ずっと読んでみたかったのですが、新刊に追われて機会をのがしていました。小池真理子の最新作品は、『欲望』(1997年新潮社)しか読んだことがありません。私は『欲望』の「読書ノート」に、浅田次郎『鉄道員』に匹敵する作品と書いています。作品の構成力、人物描写、会話の妙には何度もうならせられました。
『恋』は、著者の直木賞受賞作です。読んでおかなければ、今後の作品にふれることがなくなる。そんな強迫観念にかられて、正月に読みました。
『恋』は、主人公・矢野布美子の葬儀場面から書きおこされます。会葬者は13名。鳥飼三津彦が遺影を見上げます。そこには殺人罪で10年間、服役していた矢野布美子の笑顔があります。彼女の死因は子宮癌。享年45歳。時は1995年4月。
鳥飼三津彦が、矢野布美子の名前を知ったのは2年前です。浅間山荘事件の原稿を書こうとしていた鳥飼は、偶然にも同じ新聞紙面のなかから若い女の犯罪記事を発見します。1972年2月29日付朝刊でした。
東京の私立大大学院生が、猟銃で25歳の電機店員を射殺。片瀬信太郎という35歳の大学助教授にも、重傷を負わせています。恋愛感情のもつれによる犯行で、現場には片瀬の妻・雛子もいあわせていました。
事件に興味をもった鳥飼は、刑期を終えていた布美子への取材を重ねます。「布美子が鳥飼に語った話は、以下のようになる。」との記述で、1970年4月に引き戻されます。そこには、主人公・布美子がいます。
――今からちょうど、二十五年前の春、私は片瀬夫妻と出会った。晴れていたが花冷えの、風の強い日だった。(本文より)
小池真理子は物語のなかに、もうひとつの物語をはさみこみます。同棲していた学生運動家と別れたばかりの矢野布美子は、翻訳のアルバイトをもちかけられます。それが片瀬信太郎と雛子夫妻との運命的な出会いとなります。
2人は仲の良い夫婦なのですが、夫は妻の浮気を公認しています。妻も、布美子が信太郎と性的な関係になることを拒みません。布美子は、次第に2人の奇妙な夫婦関係にのめりこみます。
なぜ布美子は、殺人を犯したのでしょうか。どうして恋する信太郎に重傷を負わせたのでしょうか。小池真理子は、官能と嫉妬、絶望と疑心に揺れる布美子を、見事な筆さばきで描きだします。浮世離れした片瀬夫妻の日常に、徐々に染まってゆく布美子を、安定した視点で読者に提供します。
布美子は死んでいます。布美子は事件を起こしています。私はしばしば、そんな前提を忘れてしまいました。小池真理子は、布美子の「今」を執拗に突きつけます。私はいつの間にか、「殺すな、撃つな」と叫んでいます。
「文庫版あとがきに代えて」に、非常に興味深い記述がありました。阿刀田高に指摘された箇所を、迷った末に訂正しなかったというくだりです。
私も読んでいて気になりましたが、「あとがき」を読んでみてなるほどと思いました。この作品の「あとがき」は、絶対に先に読まないこと。お薦めの一冊です。
◎三島由紀夫『豊饒の海』を基軸に
『欲望』(新潮文庫)は、『恋』(ハヤカワ文庫)に匹敵するほどの傑作です。作品の機軸に、三島由紀夫の『豊饒の海』(全4巻、新潮文庫)をおいています。類子と阿佐緒と正巳は、中学生時代からの仲良し3人組です。『欲望』は彼らが、大人の恋をする年代になってからを描いています。
中学生のときに遭遇した交通事故が原因で、性的不能者になった正巳。三島由紀夫の家と全く同じ建物を建てた男と結婚した阿佐緒。2人の狭間で揺れる類子。3人の人生が微妙に重なり、また離れてゆきます。
作品は類子が病弱な夫の主治医への、お礼の品物を買いに出るシーンからはじまります。しかし類子の夫が再び登場するのは、終章になってからです。その間はずっと過去の回想がつづきます。
作品は私(類子)の視点で展開されますが、間にはさまった正己の手紙が下敷きになっています。欲望とは何か。セックス、芸術、金、住まい、仕事など、『欲望』の冠をつけるに相応しいものはたくさんあります。
この作品に、たった1回だけ子供の描写があります。池の鯉に食パンを投げ与える5歳の少女。少女は赤ん坊の成長産物ですが、赤ん坊はセックスでの産物です。
赤ん坊とはまったく無縁の正巳。阿佐緒の夫も、自分の遺伝子には無頓着な男です。阿佐緒をはらませたいという正巳の欲望。阿佐緒をはらませることを考えてもいない袴田(阿佐緒の夫)。はらんでしまうかもしれないセックスに溺れる類子。はらみたいと思いつづける阿佐緒。
小池真理子は、この作品を楽しんで書いたと思います。読んでいてじれったさはありませんでした。仲良し3人組が大人になって、違う人生を歩きはじめると、こうなるのだと素直に思えました。
7章の正巳と類子の夜。8章(終章)の袴田と類子の会話。大きな波が弾け、静かな凪を迎える展開に脱帽しました。最後に著者自身のコメントでしめくくります。
――人間性の歪みの一部とか倒錯した何かを織り混ぜることによって、美意識が刺激されるようなところが昔からあったんで、その流れで書いてしまうんでしょうね、恐らく。何かそこに一つのショッキングなテーマを持ってきたくなっちゃう癖が昔からある。(新潮社「波」1997年7月号より)
小池真理子の初期作品『知的悪女のすすめ』(初出1978年、角川文庫)は、書店でも新古書店でもみつかりません。小池真理子は、ミステリー作家としてデビューしたわけではありません。それゆえ、ミステリー以外の女性論を読んでみたいのですが、ずっと入手できないでいます。
『欲望』は、恋愛とサスペンスを融合させた、『恋』のシリーズ第2弾という位置づけになります。『恋』の読者には、ぜひ読んでいただきたいと思います。
(山本藤光:2010.07.16初稿、2018.02.26改稿)

〔直木賞受賞作〕連合赤軍が浅間山荘事件を起こし、日本国中を震撼させた一九七二年冬。当時学生だった矢野布美子は、大学助教授の片瀬信太郎と妻の雛子の優雅で奔放な魅力に心奪われ、かれら二人との倒錯した恋にのめりこんでいた。だが幸福な三角関係も崩壊する時が訪れ、嫉妬と激情の果てに恐るべき事件が!?(文庫内容紹介より)
◎サスペンスから恋愛小説へ
1990年、小池真理子は夫の藤田宜永とともに、軽井沢へ転居します。小池真理子は、ずっと退屈なミステリー小説を書いていました。そのあたりのことを福田和也はつぎのように表現しています。
――言葉の最良の意味での「通俗作家」である。軽井沢、避暑地の生活、旧華族の子弟、全共闘運動の挫折といったショート・ケーキのような紋切り型を組み合わせながら、コクのある物語を作る力量をもっている。ハーレクイン的道具立てにたじろがない消化力のある読者ならば、相応に楽しむことができよう。(福田和也『作家の値打ち』飛鳥新社P53より)
軽井沢で小池真理子は、いきなり恋愛小説を書きはじめます。苦労して完成させた作品が『恋』(ハヤカワ文庫)でした。それまでの作品に辟易していた私は、『恋』のあとに発表された『欲望』(新潮文庫)の方を先に読んでいます。当時はPHP研究所メルマガ「ブックチェイス」に書評を連載していました。そんな関係で、『欲望』が謹呈本として届いたからです。
『欲望』の帯には、「ミステリー」や「サスペンス」という単語はありませんでした。噂では小池真理子の転身を知っていました。どんなふうに変わったのか、興味深く読みました。
――彼は抱かなかった。抱けなかった。エクスタシーなどあり得ないはずだった……。新潮書き下ろしエンターティンメント。直木賞以来2年目の沈黙を破る『究極の恋の物語』(初版本帯コピーより)
『欲望』を読んでみて驚きました。ハーレクイン臭が、完全消失していたのです。『欲望』についての言及は、最後にさせていただきます。これがあの小池真理子なのか、と半信半疑になりながら『恋』を買い求めました。『欲望』をはるかに上回る傑作でした。この時点で、新たな小池真理子を認知しました。
恋愛って、一種のサスペンスだと思います。『恋』は、そんなことを実感させてくれました。語り口の巧みさでは定評のあった小池真理子が、一皮むけました。私は『恋』をわくわくしながら読みました。坂東齢人(馳星周の書評家時代の筆名)『バンドーに訊け』(本の雑誌社)で、彼は「サスペンスとしては物足りない」と書いています。そのとおりです。本書は以前の小池真理子の幻影に、しばられないで読んでもらいたいと思います。
◎妻の浮気を公認している
女ともだちから電話がありました。
「あなたの読書感想文がバレンタインのチョコレートと一緒に配られているよ」
ある店の企画のひとつだったようです。私の書評が使用されているのは、知りませんでした。でも抗議はしませんでした。いいじゃない、ありがたいことだと思いました。以下そのときの文章に加筆修正しています。
ずっと読んでみたかったのですが、新刊に追われて機会をのがしていました。小池真理子の最新作品は、『欲望』(1997年新潮社)しか読んだことがありません。私は『欲望』の「読書ノート」に、浅田次郎『鉄道員』に匹敵する作品と書いています。作品の構成力、人物描写、会話の妙には何度もうならせられました。
『恋』は、著者の直木賞受賞作です。読んでおかなければ、今後の作品にふれることがなくなる。そんな強迫観念にかられて、正月に読みました。
『恋』は、主人公・矢野布美子の葬儀場面から書きおこされます。会葬者は13名。鳥飼三津彦が遺影を見上げます。そこには殺人罪で10年間、服役していた矢野布美子の笑顔があります。彼女の死因は子宮癌。享年45歳。時は1995年4月。
鳥飼三津彦が、矢野布美子の名前を知ったのは2年前です。浅間山荘事件の原稿を書こうとしていた鳥飼は、偶然にも同じ新聞紙面のなかから若い女の犯罪記事を発見します。1972年2月29日付朝刊でした。
東京の私立大大学院生が、猟銃で25歳の電機店員を射殺。片瀬信太郎という35歳の大学助教授にも、重傷を負わせています。恋愛感情のもつれによる犯行で、現場には片瀬の妻・雛子もいあわせていました。
事件に興味をもった鳥飼は、刑期を終えていた布美子への取材を重ねます。「布美子が鳥飼に語った話は、以下のようになる。」との記述で、1970年4月に引き戻されます。そこには、主人公・布美子がいます。
――今からちょうど、二十五年前の春、私は片瀬夫妻と出会った。晴れていたが花冷えの、風の強い日だった。(本文より)
小池真理子は物語のなかに、もうひとつの物語をはさみこみます。同棲していた学生運動家と別れたばかりの矢野布美子は、翻訳のアルバイトをもちかけられます。それが片瀬信太郎と雛子夫妻との運命的な出会いとなります。
2人は仲の良い夫婦なのですが、夫は妻の浮気を公認しています。妻も、布美子が信太郎と性的な関係になることを拒みません。布美子は、次第に2人の奇妙な夫婦関係にのめりこみます。
なぜ布美子は、殺人を犯したのでしょうか。どうして恋する信太郎に重傷を負わせたのでしょうか。小池真理子は、官能と嫉妬、絶望と疑心に揺れる布美子を、見事な筆さばきで描きだします。浮世離れした片瀬夫妻の日常に、徐々に染まってゆく布美子を、安定した視点で読者に提供します。
布美子は死んでいます。布美子は事件を起こしています。私はしばしば、そんな前提を忘れてしまいました。小池真理子は、布美子の「今」を執拗に突きつけます。私はいつの間にか、「殺すな、撃つな」と叫んでいます。
「文庫版あとがきに代えて」に、非常に興味深い記述がありました。阿刀田高に指摘された箇所を、迷った末に訂正しなかったというくだりです。
私も読んでいて気になりましたが、「あとがき」を読んでみてなるほどと思いました。この作品の「あとがき」は、絶対に先に読まないこと。お薦めの一冊です。
◎三島由紀夫『豊饒の海』を基軸に
『欲望』(新潮文庫)は、『恋』(ハヤカワ文庫)に匹敵するほどの傑作です。作品の機軸に、三島由紀夫の『豊饒の海』(全4巻、新潮文庫)をおいています。類子と阿佐緒と正巳は、中学生時代からの仲良し3人組です。『欲望』は彼らが、大人の恋をする年代になってからを描いています。
中学生のときに遭遇した交通事故が原因で、性的不能者になった正巳。三島由紀夫の家と全く同じ建物を建てた男と結婚した阿佐緒。2人の狭間で揺れる類子。3人の人生が微妙に重なり、また離れてゆきます。
作品は類子が病弱な夫の主治医への、お礼の品物を買いに出るシーンからはじまります。しかし類子の夫が再び登場するのは、終章になってからです。その間はずっと過去の回想がつづきます。
作品は私(類子)の視点で展開されますが、間にはさまった正己の手紙が下敷きになっています。欲望とは何か。セックス、芸術、金、住まい、仕事など、『欲望』の冠をつけるに相応しいものはたくさんあります。
この作品に、たった1回だけ子供の描写があります。池の鯉に食パンを投げ与える5歳の少女。少女は赤ん坊の成長産物ですが、赤ん坊はセックスでの産物です。
赤ん坊とはまったく無縁の正巳。阿佐緒の夫も、自分の遺伝子には無頓着な男です。阿佐緒をはらませたいという正巳の欲望。阿佐緒をはらませることを考えてもいない袴田(阿佐緒の夫)。はらんでしまうかもしれないセックスに溺れる類子。はらみたいと思いつづける阿佐緒。
小池真理子は、この作品を楽しんで書いたと思います。読んでいてじれったさはありませんでした。仲良し3人組が大人になって、違う人生を歩きはじめると、こうなるのだと素直に思えました。
7章の正巳と類子の夜。8章(終章)の袴田と類子の会話。大きな波が弾け、静かな凪を迎える展開に脱帽しました。最後に著者自身のコメントでしめくくります。
――人間性の歪みの一部とか倒錯した何かを織り混ぜることによって、美意識が刺激されるようなところが昔からあったんで、その流れで書いてしまうんでしょうね、恐らく。何かそこに一つのショッキングなテーマを持ってきたくなっちゃう癖が昔からある。(新潮社「波」1997年7月号より)
小池真理子の初期作品『知的悪女のすすめ』(初出1978年、角川文庫)は、書店でも新古書店でもみつかりません。小池真理子は、ミステリー作家としてデビューしたわけではありません。それゆえ、ミステリー以外の女性論を読んでみたいのですが、ずっと入手できないでいます。
『欲望』は、恋愛とサスペンスを融合させた、『恋』のシリーズ第2弾という位置づけになります。『恋』の読者には、ぜひ読んでいただきたいと思います。
(山本藤光:2010.07.16初稿、2018.02.26改稿)