パーソナル・コンピュータが人間の活動に深く関わりだしている。そして素晴らしい性能を発揮するアプリケーションがあふれかえるばかりに提供されている。家庭向きのものとしてワープロ、家計簿のための表計算、年賀状とか季節の挨拶などの手紙を管理するソフト、ビジネス分野では財務管理、物品管理などが手軽に用いられるようになっている。
科学の分野においても、全く同様にすぐれたソフトウェアが利用できるようになっている。ほとんどのソフトウェアは画面表示された指示内容にしたがって入力する方式がとられている。いわゆるGUI(Graphic User Interface)である。コンピュータで処理された結果もグラフィックで表示される。確かに便利であり、しかも処理も速い。使いこなすにつれて驚かされる。これまで研究のためにプログラムを作成したことが、まるで過去の遺物のように思われる。
科学の研究目的のため、新しい性能の高いソフトウェアを使い始めるとそれだけで急に自分の能力が高くなった様な錯覚に陥る。事実それまでに知識としてなかった新しい処理の方法を教えられて有頂天になることがある。ところでアブリケーション・ソフトウェアを扱うにあたってマニュアルはほとんど読まない。マニュアルが添付されているとすれば分厚いもので、すみからすみまで読む気にならないし、また何がどこに書いてあるかよく分からない。よく読んでも扱い方が分からない場合が多い。マニュアルのありがちな傾向として知りたいことが的確に書かれていることが少ない。組み込まれているヘルプを読んでも分からない。
とにかく自分が扱い得る範囲で試行錯誤を繰り返しながら、組み込まれた処理の内容を探しまわる。それはまさにアドベンチャー・ゲームである。あるアプリケーション・ソフトウェアを他の人より早く使いこなせるようになった者はそれだけで尊敬を受ける。「スゴイ」と思わせる。キーボードをまるでピアノを弾くような早さで叩く様をみると、後光がさしているかのでごとくうつる。新興宗教の教祖様を前にしたのと同じ様な御利益を期待する。事実その期待は報われる。先生がその弟子の弟子となる。思わず先生が弟子に対して丁寧になる。弟子は先生よりえらくなったような錯覚に陥る。その場は確かに弟子は先生より一歩先んじている。
弟子は、スゴイ・ソフトウェアを信奉し、それで全ての課題が解決するものと思ってしまう。先生も弟子の考え方に傾いていく。その場で最も高いポテンシャルを持つのは、スゴイ・ソフトウェアであり、次がこのスゴソフトに精通しかかって、見事な指さばきをする御弟子様であり、先生はカヤの外に置かれそうになる。
先生は立場上様々に要求する。「ソレはどうなる」「アレは解けるかな」「ウムおかしい」と。弟子は言われるままに操作するが、先生の要求に疑問を持ち始め、やがてはその疑問が軽蔑に変わる。よせばよいのに先生はさらに続ける。「私の考え方とは違うようだ、このスゴソフトはよくない」。そこで弟子はいう。「それでは教科書にある似たような問題を解いてみましょう」と。答えは教科書の解答と一致する。「先生、やっぱりスゴソフトの方が正しいようですね」と一応丁寧にいう。
先生よせばよいのに、夏目漱石が「それは辞書が間違っている」といった逸話を思い出してか「それは教科書も違っている」とおっしゃる。弟子は「こころ」で笑い以後スゴソフトの結果のみを信じる信者と変わる。先生は相も変わらず弟子が組み込んでくれたスゴソフトのアイコンをマウスでつつくこともしない。
(悩)
科学の分野においても、全く同様にすぐれたソフトウェアが利用できるようになっている。ほとんどのソフトウェアは画面表示された指示内容にしたがって入力する方式がとられている。いわゆるGUI(Graphic User Interface)である。コンピュータで処理された結果もグラフィックで表示される。確かに便利であり、しかも処理も速い。使いこなすにつれて驚かされる。これまで研究のためにプログラムを作成したことが、まるで過去の遺物のように思われる。
科学の研究目的のため、新しい性能の高いソフトウェアを使い始めるとそれだけで急に自分の能力が高くなった様な錯覚に陥る。事実それまでに知識としてなかった新しい処理の方法を教えられて有頂天になることがある。ところでアブリケーション・ソフトウェアを扱うにあたってマニュアルはほとんど読まない。マニュアルが添付されているとすれば分厚いもので、すみからすみまで読む気にならないし、また何がどこに書いてあるかよく分からない。よく読んでも扱い方が分からない場合が多い。マニュアルのありがちな傾向として知りたいことが的確に書かれていることが少ない。組み込まれているヘルプを読んでも分からない。
とにかく自分が扱い得る範囲で試行錯誤を繰り返しながら、組み込まれた処理の内容を探しまわる。それはまさにアドベンチャー・ゲームである。あるアプリケーション・ソフトウェアを他の人より早く使いこなせるようになった者はそれだけで尊敬を受ける。「スゴイ」と思わせる。キーボードをまるでピアノを弾くような早さで叩く様をみると、後光がさしているかのでごとくうつる。新興宗教の教祖様を前にしたのと同じ様な御利益を期待する。事実その期待は報われる。先生がその弟子の弟子となる。思わず先生が弟子に対して丁寧になる。弟子は先生よりえらくなったような錯覚に陥る。その場は確かに弟子は先生より一歩先んじている。
弟子は、スゴイ・ソフトウェアを信奉し、それで全ての課題が解決するものと思ってしまう。先生も弟子の考え方に傾いていく。その場で最も高いポテンシャルを持つのは、スゴイ・ソフトウェアであり、次がこのスゴソフトに精通しかかって、見事な指さばきをする御弟子様であり、先生はカヤの外に置かれそうになる。
先生は立場上様々に要求する。「ソレはどうなる」「アレは解けるかな」「ウムおかしい」と。弟子は言われるままに操作するが、先生の要求に疑問を持ち始め、やがてはその疑問が軽蔑に変わる。よせばよいのに先生はさらに続ける。「私の考え方とは違うようだ、このスゴソフトはよくない」。そこで弟子はいう。「それでは教科書にある似たような問題を解いてみましょう」と。答えは教科書の解答と一致する。「先生、やっぱりスゴソフトの方が正しいようですね」と一応丁寧にいう。
先生よせばよいのに、夏目漱石が「それは辞書が間違っている」といった逸話を思い出してか「それは教科書も違っている」とおっしゃる。弟子は「こころ」で笑い以後スゴソフトの結果のみを信じる信者と変わる。先生は相も変わらず弟子が組み込んでくれたスゴソフトのアイコンをマウスでつつくこともしない。
(悩)
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